第十七色 汗と熱帯夜
空では小さく輝く星々がゆっくりと姿を見せ始める頃になっていた。暦では秋とはいえ、まだ外に出ているだけでも自然と汗は流れ、肌は焼けていく。
あの少女が俺の話を信じてくれたかどうかは分からない。しかし、彼女は知ってしまっていた。……俺の全てを。
「さて……と」
昇降口をでて、秋の風に当たる。その風は生暖かくて、寮に待たせている少女のために急ごうと言う意思はすっかりそがれてしまった。ふと、校庭奥の陸上トラックに目をやるともう前も見えなくなり始めているのに薄暗の中、ぼんやりと選手たちのゼッケンが動いていた。
どこからかするハードルが倒れた音や、やり投げのやりが地面に刺さる音、選手の荒い呼吸までもが耳にこびり付いて離れない。
まただ……。俺はまたあの心臓を締め付けられるような感覚に襲われていた。しかもその痛みはいままでの比ではなく、その締め付けは心臓だけでなく他の内臓にまで及び始めていた。そして耳には生々しいあの音……。
気付いたら俺は無我夢中で校門まで走っていた。呼吸はすっかり崩れ、肩で息をして膝はがくがくと震え上がり、額からは無数の滴。
自分でも自分が今何をしてどこにいるのか、分からなくなっていた。自分を失った恐怖と焦りがまた心臓の鼓動を焦らせる。
「司鷹センパイ……?」
「うあぁぁああ!!!」
突然後ろから名を呼ばれて、思わず大声を上げてしまった。まだ耳の雑音は消えず、心臓も苦しさを増すばかりだ。
「どっ、どうしたんです? 大丈夫ですか、司鷹センパイ?」
「お前こそ誰……だ……」
その声には聞き覚えがあった。あの夏、嫌と言うほど聞いたその呼び名。忘れもしない。
「その声、城内か……?」
「そうですけど……センパイ、どうかされたんですか?」
すると不意に耳の雑音が消え、心臓の鼓動も元のリズムに戻っていった。視界も明るくなり、ここが校門近くの駐輪場の入り口だと気付く。目の前には凛々しい顔立ちの青年が一人心配そうにこっちを見ていた。
「本当にどうしたんですか? 呼吸を荒げて走ったと思ったら、いきなり悲鳴なんかあげて……。あっ、体調が優れないとか? だったらすぐに病棟に……」
青年はいきなり話しかけたと思ったら、またいきなり饒舌になって俺の心配をし始めた。こういうところは相変わらずだった。
「気にすんな……軽いジョギングだ」
「……その割には随分全力疾走だったような気がしますが……あの頃を彷彿とさせるような素晴らしいフォームで」
「…………」
これは別に嫌味でないだろう。これは彼の素直な気持ちであり、俺への嫌がらせなんかではない……そう思う。
「でも良かった……」
そうぽつりとつぶやいて、青年は手に持っていたタオルを差し出した。
「これ、使ってください。……ああ、まだ誰も使って無いやつなんで、エンリョなく」
「……悪いな」
そのタオルを受け取って未だに額から流れる汗を拭く。タオルから香るのは太陽の匂い。どこか懐かしく切ない匂いだった。
「……センパイはまだ全然現役ですよ」
青年はグラウンドの方に目をやりながら口を淡々と動かしていた。その手には陸上部の水筒が握られている。
「自分、まだあの夏の事……覚えています」
「…………」
「センパイにとってあの夏はどんなものでしたか? ……俺にとってあの夏は今の俺自身です」
いつの間にはさっきまでぼんやりと赤かった西の空が青紫の空に変わっていた。辺りはすっかり夜だった。
「あの夏があったからこそ、今の俺があって今の先輩がいる。あの最後の大会が先輩にとって苦痛でしかなかったのだとしたら、俺は寂しいです」
その口調にはどこかあの夏への執念と執着の様なものが込められていた。なぜ、一年以上も前のあんな小さな大会に今や二年のエースが執着するのか……。
「司鷹センパイ……。やっぱり戻って来てはくれないんですか」
青年は振り返って俺と目を合わせた。その瞳に映るのは俺への尊敬か、憎しみか……。
「城内……」
「はい……!」
その目には微かな期待と苦しみが混ざっていた。
「……タオルありがとうな」
俺は彼の肩に使用したタオルを載せて、駐輪場に向かった。
「先輩!」
後ろから声がするが足は止めない。
「俺……待ってますから! ずっと!」
「えーまたそうめんー? もう、いい加減飽きたようぉ……」
「文句言うなら食わんでよし」
「まぁ……食べるけどさぁ……」
本当に渋々という感じで少女はざるの中の麺を箸で器用にすくって、そのまま口の中に突っ込んだ。
「…………」
黙々と少女はその動作を繰り返してさっきの言葉と行動が全く一致しない。こいつが大食いななのは今に始まった事ではないが……それでも異様な光景だった。
「…………」
「なぁにーそんなに私の事見てー? あっ、もしかして惚れちゃった? 私に惚れちゃったかぁあ? そうだよねぇ……春樹も健全な男子高校生だもんねぇ……私に欲情――」
「……つゆ」
「梅雨がなによ……もうとっくに梅雨なんて終わったじゃない?」
はぁ……と盛大に大きな溜息。
俺は自分の手に持ったお椀を指差した。
「六月の梅雨じゃなくて、そうめんに付けるつゆだ……」
「がどうしたの?」
はぁ……とまた大きな溜息。
「……ねぇ、さっきからどうしたの? 今日の春樹、いつにもまして残念なオーラが漂っているよ?」
「じゃあ、それは九分九厘お前のせいだ」
「なんでよ?」
俺との会話中でもアリスの箸は止まらない。マジでかこいつ……。
「それにしてもなんか今日のそうめんは不味い……なんか味気ないよ……なんでかな?」
と一応は疑問に思ってはいるらしいがそれがなぜか……原因は分からないらしい。
「これ以上のキャラ設定はいらんと思うが、アリス?」
これ以上にない溜息をついて、アリスの方に目をやるとそこには箸を止めてぐったりとテーブルに突っ伏したアリスの姿があった。
「おい! アリスどうした? おい……って熱っ!」
彼女の身体に触るとまるで真夏のアスファルトの様な熱を持っていた。顔も真っ赤で息も荒い。
「なんか……身体、熱いよぅ……私、ここで死んじゃうのかな……」
「馬鹿言え! 俺が何とかしてやる!」
俺は我を忘れて彼女を抱えて、消灯時間だと言うのに寮を抜け出した。
結果から言えばただの風邪だった。なにかアリスにとって重大な事が起こったんじゃないかと心構えをしていたので、なんとなく拍子抜けだ。
俺は結構な重みのあるアリスを抱えて、真っ暗な寮の中を全力で走りぬけた。アリスの事をまだ誰にも言っていなかったので姿を見られるのはまずかった。そのため、昨日隣の部屋の奴に教えてもらった生徒御用達の秘密の抜け道を使ったのだが、ここが予想以上に通りにくくて(理由は簡単で消灯時間、つまり外出禁止時間に外のコンビニを使う生徒がたまにすれ違うからだ)かなり精神的にも肉体的にも疲れてしまった。
何とか寮近くの緊急病棟(勿論学校付属のではない)に行って、診察してもらったのだが、翌々考えてみればアリスは人間ではない……しかしこれに気付いたのは薬をもらったあとの話でどうやら人間も吸血鬼も身体のつくりは一緒という事が判明した。
でまた熱帯夜の中を駆けずり回って部屋に戻ってきて、嫌がるアリスに粉薬を強制的に飲ませたは良いが、アリスはすっかり風にうなされていた。
「春樹ぃ……熱いよぅ……死にそうだよぉ……」
「ちったぁ静かに寝れねぇのか……お前は」
「だってぇ……こんなの初めてなんだもん……怖いよう……」
「…………」
なんとアリスは風邪ひくのは初めてらしい。そもそも吸血鬼は常に完全な状態であるため風邪なんかひかないらしいが……現にアリスはひいているわけで信憑性が全くない。
「可能性としてはあまりに長い時間こっちの世界にいたせいで、身体が人間に近づいているからかも……」
「……なんだそれ。そんな事あんのか?」
「……分かんないけど。今の私の身体には既に吸血鬼の心臓が無いわけだし、身体が拒絶反応をだしているのかも」
「だったら……!」
俺はソファから起き上がってアリスの寝るベッドに近寄った。薄暗でよく分からんがコイツ……。
「っておま……全裸かよ!? 先に言ってくれ! ……ったく」
上半身は見てしまったが局部は見ていないから犯罪ではない……ないぞ。
「だってぇ……暑いんだもん」
「だからってこんなところで裸になるな! 前を隠せ、前を!」
暫くの沈黙のあと、アリスはまったりとした口調で言った。
「なぁにぃ……春樹クンはこんな幼女の身体に興奮しちゃう変態さんなんだ……」
「ちっちが……違う! あそこは見てないから、違う!」
「あそこってどこ?」
「え、えと、それは……」
すっかりアリスに乗せられていた。
「……いくら若いとはいえ、女性の裸は見ない。これが紳士の振る舞いなんだよっ」
と適当な言い訳をかましてみる。しかしアリスの言うことは図星で、心臓はバックバクで全身に嫌な汗をかいていた。これは、もしかしなくても俺はいつの間にか特殊な性癖に目覚めてしまったのかもしれない……。
「……必死だねぇ。変態さん」
しかし、なんでこいつはこんなにノリノリなんだろうか。
「ってそんな事より、だったら俺の中の心臓を――」
「それは無理じゃな」
いきなり賢者モードに入るアリス。
「無理ってなんで……」
「既に春樹の身体は吸血鬼の心臓なしでは生きていけない身体になっとるからじゃ」
アリスの言っていることが一瞬理解できなくなる。
「それって……」
また俺の心臓が強く、強く、締め付けられている。呼吸が苦しい……。
「もうお前さんの身体は人間としては完全に死んでおるんじゃよ――――」




