第十二色 疾走と出現
走った。
脇目も振らずに文字どおり疾走した。俺の心が止まってからと言うもの肺が痛くなる程、全力で走った覚えがない。走れない自分に絶望したくないが故の行為であり、それが今までの俺を支えてきた。
しかし今、俺は走っている。肺にひっきりなしに酸素が、生きている意味で満たされていく。今までの時間を取り戻すかの様に走る。
吸血鬼が居そうなありとあらゆる場所を回った。公園、家、コンビニ………。しかしどこにも吸血鬼の姿は無かった。
よく考えてみればあの空白の夜からアイツの姿を見ていない。もしかしたらアイツとこの不可解な記憶喪失は関係があるのかもしれなかった。その事を確認するために、何よりアイツの光を刺すような、人ならざる笑顔をこの脳に焼き付けておきたかった。記憶から逃げないように。
街灯にボンヤリと照らされた公園の時計を見ると既に深夜を回っていた。しかしそんな事些細なモノだった。今の俺に必要なのは走る意味だけ。
最後に俺の足が向かったのは吸血鬼と俺が出会ったあの廃校だった。
一昔には県有数の進学校と名を轟かせたこの高校も周りの進学率戦争に負けて廃れてしまった。それもそう遠くない過去の出来事。運命とは実に残酷な物だ。いざ使い物にならなくなると直ぐに棄てられ、過去の栄華を伺い知ることは叶わない。誰一人としてこの学校を母校と愛した者は居なかったのか…。
廃校になってからまだそんなに経っていないのに、周りの新築物件も重なって異様な廃れようだった。
この建物だけが時代に残されて人のゴミの中に埋もれて消えていく…。
建物とは手入れしないとこれ程までに腐敗が早い物なのかと目を疑う。屋根は錆び、壁には巨大な亀裂が入っている。窓は全て割れていて、幾つか苔が生えた机が外に出されていた。随分とおざなりな校舎だ。校庭は何とか児童の遊び場として形を保っていたが。
何より杜撰なのがこの廃校の周りの扱いだ。管理されていない廃校は危険とされたのか周りをフェンスが囲んでいる。…がそのフェンスも案の定錆び付いており入り口の錆びた錠前もすっかり外されていた。
こんな外観だからここ周辺の有名な心霊スポットになっていた。いや、本当はそんな大それた物ではなく只の肝試しスポットだが。いつの間にか受験勉強中、ノイローゼになって屋上から飛び降りた生徒が出てくるとかそんなありそうで全く無い根も葉もない噂もくっついてきていた。
「しかし相変わらずスゲーな…」
思わず心の声が漏れてしまうほどの心霊スポットぶりだった。入り口には心霊レベル3とか高いのか低いのか分からないレベルがつけられ、きってここが学校だったなんて皆忘れてしまったのだろう。
一応感が溢れている鎖を近くに落ちていた金属片で破壊して中に入った。
閑静な住宅街ななぜこんな不気味な建物が放置されているのか、不思議で仕方ないがそれも何と無く分かる気もする。
…何かが変だ。
前回、友達と気紛れでここに来たときには感じる事の無かった違和感。あの時と何かが違う。深夜と言う事もあって不気味な感じは拭えないがそれに況して、今日のここは変だ。いくら深夜とは言え静か過ぎる。俺の足音が辺りに響いて耳を刺す程に。
ゆっくりと歩を進めて全開の昇降口から校舎に入る。中は勿論電気なんて通っていないため真っ暗に等しいが、天井近くの窓ガラスから注ぐ月明かりが俺の道を照らしてくれていた。土足で上がる。中に入っても違和感は消えない。
「さて………」
どうしたものか。この学校、かなり広い。この校舎はA棟だがこの裏にはB棟・C棟が控えている。全校舎四階建てで、肝試しの際はA棟の屋上、噂ではノイローゼになった受験生が身を乗り出した場所に行って霊にご対面して降りてくる…と言うコースが普通らしいが、今は肝試しをしている場合ではない。しかし気のせいか普段は全く霊感のない俺が何かに恐怖していたのも確かだった。
足は小刻みに震え、額からは冷たい嫌な汗が垂れてくる。廊下奥の暗闇からあの夢に似た感覚が全身を襲う。ビリビリと頬が痙攣して俺に危険を伝えていた。
――あの時と違う。
明らかな恐怖心が俺の中でもくもくと膨らみ始めていた。また俺は逃げ出すのか、この恐怖から……。
そんな気を振り払うかの様に暫くその場に立ち尽くして耳を澄ませた。あの時…吸血鬼と出会ったあの日、俺は遠くから少女の声を聴いた。苦しそうで、悲しそうで、寂しそうな声だった。今考えてみればあの声は間違いなく俺を、呼んでいた。
「タスケテ…ワタシヲ…タスケテ」
身体中の血が全身を巡る。こう言う事を血が燃えたぎると言うのではないだろうか。俺はついに一つの結論に至った。
「待ってろ…直ぐ行く」
足元の床板を外れる程思いっきり蹴ってロケットダッシュを決めると校舎の端から端まで全ての教室を徹底的に探した。あの金髪の吸えない吸血鬼を探して。
途中で流石に息が切れたような気がした。しかし足が切れない限り、俺が切れない限り俺は止まるつもりは無かった。もう走る理由は見つかったから。
その部屋は突如現れた。もう何個目かなんて覚えていない。でもここに間違いなかった。「アリスの部屋」と血で書かれた文字と共にドアにベットリと血が付いていた。まだ来たばかりの様でドアから血が垂れ異様な光景だ。廊下の窓から血が道を作り、途中途切れながらこの教室で途切れていた。
小さな確信と共にドアをゆっくりと開ける。中の教室はこれはまた不気味なものだった。真っ赤な血が辺りに飛び交い撒き散らされている。綺麗に並べられた机達は真っ赤に染めあげられており、黒板には何かの陣の様な不思議な模様がこれまた血で描かれていた。窓ガラスは例外なく割られており外に赤みを帯びた三日月が見える。
……こりゃまた肝試しに新しいルートが出来るな。
「…遅かったな……」
俺が教室の異様さに唖然としていると何処からかトーンの低い少女の声を聴いた。振り返ると教室の後ろの壁に寄り掛かって座っている少女が居た。…髪が黒い。
「何を驚いている?…私だ、アリスだ」
俺は机の間をゆっくりと抜けていく。やっとあの少女を見つけたのだ。しかし俺の知っているアリスではなかった。奴はもっと傲慢で、お子ちゃまで、可愛らしかったのだから。
「アリス…なのか…?」
そこには真っ黒な髪の、真っ赤なワンピースを着た少女が座っていた。右肩からあるべき物がなく、そこから血がポタポタと垂れている。よく見ると彼女の座る床は真っ赤だった。俺の足元にも引きずられた様な血の跡。
「…この姿で会うのは初めて、だな?」
少女はゆっくりと機能する左腕を俺の方に差し出す。
「ほれ、もっと近くに来て顔をよく見せてくれ…」
冷酷な笑みを浮かべる。その冷たすぎる視線に背筋を凍らせた。やはり俺の知るアリスではなかった。雰囲気から何まで相違点があったが何より違っていたのは、見た目だった。本来の…俺の知っているアリスは良く見ても中学二年生、最悪小学校五年生にみえる顔と体格をしていたが、このアリスは既に成人していた。顔つきも身体つきも立派過ぎる程成長していたのだ。
すっかり切れた息を戻しながら質問をする。
「とてもアリスには見えないが…」
グラマナスなアリスはふぅ…と妖艶に溜め息。
「その話はまた後にしてくれ…とにかく今はこの状況を何とかせんといかん…。早くこっちに来て顔を見せてくれ…今私に動ける気力はない」
左腕を伸ばしたまま俺の目を見て離さない。
「いや…でも…」
俺の身体は逃避を選んでいる。
「今は私を信じてはくれないか…?」
頭の中は酸素が足りないのか俺の頭が足りないのかすっかり混乱気味だったが、その眼光に負け、とっていた距離を縮めた。
俺が彼女の前に立つとアリスはにっこりと笑った。
「しゃがんでくれんと、暗くてよく顔が見えないな…」
彼女の左腕は腰を下ろすようにと指示した。その通りに俺はゆっくりと腰を下ろす。目の前に所々血のついたそれはもう絶世の美女の顔を見た。しかしこの距離で見ても彼女の顔からあのアリスを感じる事が出来なかった。変わりに出てきたのはあの夜空を見上げていた女性だった。目が似ている。水晶玉の様に透き通った瞳が。
その瞬間だった。唇に柔らかな感触を感じたのは。鼻は理性を壊すようなふくよかな香りで満たされ、眼科にはあのビー玉の瞳。そして唇には温かくて優しい…。
意識がボーッと伸ばされて俺は何を考えていたのか彼女の口の中に舌を伸ばした。そこに俺の知りたい何かが…。
ズキリと鋭い痛みと、赤い感覚。そのまま俺は離れる隙もなく意識は夜空に溶けていった。




