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第十一色 自我と感覚

 また微睡みの中を一人孤独に浮遊する。


 どこにも自分と言う存在は無く、あるのは心臓と呼吸だけ。残ったのはちっぽけな悲しみ。

 世に咲く花々は自分の色を知らないと誰かが言っていたが正にその通りで、自分がどう他人に映っているのかなんて分かりようがない。

 でも自分が何色かなんて関係無い。俺に必要なのはどこに咲いているのか、その事実こたえだけだ。



 何かぶにゅぶにゅとした感覚と共に紫なのか黄色なのかはたまた赤色なのか曖昧な色彩の中、何か不安と焦燥に駆られながら生きていた。しかしそれが今の現実と大差ない事に気づくと何と無く安心感に浸っていた。


 不思議だった。何処かも分からぬ、何かも分からぬ場所、気持ちの中、人がこんなに安心出来るものなのかと。そこには母体の中の様な温もりもあった。

 その漠然とした安心感の中でも考える事はやはりあの吸血鬼の事で、本当に俺はどうにかなってしまったらしい。

 

 今すぐにでもあの姿をお目にかかりたいと言う衝動が心の隅で生まれた。しかしこの温もりから離れたくもなかった。久しぶりだった。人の温もりに触れるのは。いや、これが人間のモノなのか断定は出来ない、出来なかった。つまりそれが分からなくなる程の間、俺は人を避けて傷つく事から逃げながら生きてきた。生きていれば…走っていれば傷の一つや二つ、付くのは当たり前なのに。それすらも煩わしくて、そんなニヒルな自分に酔っていた。


 あの吸血鬼に温もりはない、無いのだ。そもそも生き物としての体温ですら達していないように感じるあの冷酷さは、俺の一枚寂しい外郭に似ている。これが同族嫌悪なのか、本当に子供みたいで頭を抱えたくなるのだが、今はそうする頭すらないのだ。お決まりの溜め息も然り。笑えない、怒れない、泣けない、苦しめない、愛せない、悲しめない…。


 今までの安心が一気に崩壊して、地に足着けたいと思う様になった。自分の足で地面を踏んで歩き出したい、走ってアイツを見付けてやりたい。俺の温もりを感じさせてやりたいと強く願った。しかし、その気持ちですら自分のためでしかない。人の為と書いて、「偽」とはよく言ったものだ。何処にもアイツにはメリットが無いのにさも自分が正しいかの様に自分自身を騙し、欺いてまで己の正当性を見出だそうとする。


 結局俺も、汚い社会の一員なのだ。ピッタリと世界の歯車にはまりこんで正確に動き、自分は善だとほざく。笑い者も良いところだ。でもこの時代に生まれたからには仕方の無い事なのかも知れない。言わば宿命、ごう。そうする事が当たり前な社会じゃ誰も相手にはしてくれない、この苦しみを理解し、共有してくれる相手など世界広しと言えど居ないのだろう。結局、それっぽい言い訳をしているだけで自分に甘いだけなのだから。


 だから、俺は誰かが通り、舗装までされた道を走るのだ。陸上だってそうだった。決められたコースを決められた時間内に走る…誰かが決めた糞の様なルールだった。でも社会がその糞みたいなルールにまみれた場所であるのも確かだ。二十歳を越えた良い大人達は現状を維持し、変化を求めない。そんな事をしても疲れるだけ、阿呆にされるだけと分かっているから。

……否。自分を、社会を、世界を諦めているのだ。全く向上心のない連中だ。俺もそう変わらなくなってしまったが。


 幾分か前に現代文の授業で自分の力量を信じるが故に努力せずに、それでも信じきることが出来ずに心の何処かに自分の力量の無さを露呈すると臆病になり、何一つ成せなかった詩人の話を聞いた。

まさに自分だと思わされたのは言うまでもない。思っただけで、そこで何か行動に移したかと言えばそれは嘘で真っ赤な虚無だ。


 俺のしてきた事と言えば、努力もせずにただ誰かの言う通りに走っただけ。芽衣の言っていた通り、「走る」と言う行為を行っていただけでそこには感情は愚か、疲労すらないのだった。


 理由なんて要らない。ただ何処かの集団に所属して何か得たいの知れぬものに支配される。そうやって最低限の人間と関わりながら生きてきたのだ。それが一番楽だと分かっているから。最も悲しみが少ない方法だから。目標を持ってしまえば努力しなければならないし、その目標に達しなければ涙を流さなければならなくなる。


 だから何も作らない。俺からは何も生まない。感情すらも最低限で十分だった。無気力な学生時代。そんな俺でも全国の舞台に立てるのだから歯車とは難しい。


 あの主人公は結果的にあの感情が獣となり、やがて虎へと姿を変えてしまうのだ。

 しかし虎ならまだ足があり地を蹴り、走りだせるのだからまだマシと言うものだ。

 神はそんな人生を怠惰される俺に罰を与えたのか、それとも母が不良品を寄越したのかは分からないが、俺はまともに走れる身体を失った。

 

 しかし、それも言い訳の一つで伸び悩んでいた記録に嫌気が刺しただけだった。

 俺にとっては記録になどどうでも言い事なのだが、やはり人間とは分からない。一度、偉業をなしてしまえば期待と言う重圧に身を呈しなければいけなくなるのだ。あの人々の視線。


 …苦しかった。何処の誰かかも者からの形の無い好意。…苦しかった。上からの怒号の様な怒り。…苦しかった。それらが当時の俺の全てを支配していた。本当に苦しかった。呼吸すらまともに整えられなかった。しかしこの時、涙すら出ない瞳は既に光を失っていたのだ。誰にも感情を見せない走るロボットと化していた。


 だから丁度良かった。きっと神からの贈り物だと、退職祝いだと歓喜した。…と言うのは後から湧いてきた自分を欺く為の気持ちに過ぎない。本当は死すら覚悟しなければ行けなかった、あの苦しみは何処へ…。




 何処からか子供の声がした。聞き慣れない声だったが、また何と無く漠然とした親近感を覚えた。ここは微睡みの中。俺以外に人は居ない筈なのに。


「苦しいんだね…」


 目の前にぼんやりと光が生まれ、中から何処かで見た事のある子供が現れた。


「お前は……」


 訊く必要はなかった。既に感覚的に奴の正体は理解できた。この不思議な空間での出来事なら驚く必要もない。


「君だよ。司鷹春樹さ」


 と彼は見下すように俺を細い目で見つめた。子供の頃の俺だった。具体的に言えば小学校高学年ぐらい。まだ人の温もりを求めていた頃。


「未来の僕…学校生活は楽しいかい?」


 何とも中身の無い質問。


「俺のこの顔を見てよくそんな事を言えるな」

「だって未来の僕の顔が無いんだもの」


 そうだった。いつの間にか対話が成立していたからいつもの調子に戻っていた。顔なんか記号でしかないのに。


「まぁ…訊くまでもないけどさ」


 と可愛らしい溜め息をつく少年。


「君は僕だから」

「………」


 何かを悟ったかのような柔らかな表情だった。服装は小学生らしい軽い物だが、中身はあの頃の自分とは随分違うように感じた。少なくとも当時の俺はこんなに含蓄にとんだ顔付きはしていなかった、と思う。


「自分なのに分からないんだね」


 少年も表情は有るもののその中に笑顔は無かった。


「そんな事無いよ。未来の僕が笑顔がどんな物か忘れているだけさ。僕は君とは違ってちゃんとした感情を持ち合わせているからね」


 こんなにませたガキだったかな?なにか不安になる。


「不安になる?ふん、いつもの事じゃないか。今に始まった事じゃないよ、その君の臆病病は」


 この自分より随分と年下のガキに言われたい放題だったが、それは全て図星で何も言い返す事が出来なかった。


「笑わせないでくれよ、僕はここに何も説教するために来たんじゃないんだからさ」


 とすまし顔。


「…そう言えばちょっと前にどこぞのお姉ちゃんにほっぺにちゅーされてたね?どんな気持ちだった?」


 次はニヤニヤと俺を見る。俺と違って本当に表情を持っている子だった。


「…なぜ、そんな事を訊く」

「なーにクールぶっちゃってるの。嬉しかったんでしょ?ねぇ!?」


 ニヤニヤ顔は止まらない。あの時の、あの空白の時間の前の事を思い出そうとすると感じる右胸の痛みは何だろうか。ただ奥の方がギュッと締め付けられて苦しい。…この感覚、何処かで…。


「…苦しかった」

「はぁ?…どういう事?未来の僕は他人の好意ですら痛みと捉えてしまうほど、童貞君なのかい、それとも救い様の無い厨二病か…」


 過去の俺はいったいぜんたいどこからそんな言葉を仕入れたのか。


「…なぜだろうな。確かに嬉しかった…でもそれ以前に苦しかったんだ。誰かの温もりに触れるのは…傷付くのが怖くて…」

「………」


 少年は黙ったままだった。


「もう誰かを失望させるのは懲り懲りだ。もう自分に嘘をつくのも、欺くのも疲れた…。ありのままの俺でいたい…素直になりたかった。でも、なれっこないだろ…何年も他人と関わるのをなるべく避けて、傷付くのから逃げて来た俺が…俺が…っ」


 いつの間にか拳を握っていた。強く、強く。


「まだ大丈夫さ、未来の俺。まだ間に合うよ」


 前を見ると既にそこには誰も居なかった。声だけが微睡みの中で響く。


「まだ間に合う…って」


 ふと身体の感覚が有ることに気づく。


「待たせている人がいるんだろう?…迎えに行きなよ」

「でも…こんな俺に…」


 自然に頭を垂れて俯てしまう。やっぱり折角のチャンスも…。


「じゃあ、走りな」


 一度は止まりかけた心臓が全身に脈を打つ。それが身体に伝わる…まだ生きてる。


「今の君なら走れるさ、さぁ!」


 目の前の光の光度がみるみるうちに増して行く。


「行けるか…今の俺に」


 光を目の前に自分の影が気になる。あと一歩が踏み出せない。


「…待ってる、またね」



 とんっと優しく光の中に押された。その中を落ちていく。ふと振り返るとそこには見覚えのある女性が、笑っていた。

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