序章01 自称英雄の少女
序章第一話 自称英雄の少女
▼1
午後一時十七分。
台湾の夏は、二年二組の教室を真っ白に焼いていた。閉め切れていないカーテンの隙間から光が斜めに差し込み、ちょうど教壇の横の席——一ヶ月前から空いたままの席に落ちている。机にはうっすらと埃が積もっていた。その埃に誰かが指で「黄君語」と書き、それもいつの間にか誰かの袖で擦れて、今では一本の曲線しか残っていない。ポニーテールに見えなくもない形だった。
チャイムが鳴る。担任は咳払いをして、今月だけでもう何度目か分からない例の説明をバインダーから引っぱり出した。
「今日も黄君語さんについては、特に連絡はない」彼はできるだけ平らな声で言った。「みんな、余計な想像はしないように。保護者の方とは先生が連絡を取れている。交通事故に遭って、今も療養中だ。よし、授業を始めるぞ」
後ろの席の誰かが、声をひそめて口を挟む。「一ヶ月も療養? 駆け落ちとかじゃないの」
「彼氏も一緒に消えたって聞いたけど」
「宇宙人だって」誰かが吹き出した。「紫ポニテ、宇宙人にさらわれたんだよ」
笑い声はすぐにやんだ。しばらくざわついたあと、黒板を叩くチョークの音がまた響きはじめる。今日の授業は三角関数。残念ながら、三角関数にあの空席は救えない。
章瑾萱は、鼻の上の黒縁メガネを押し上げた。あの机に目をやるのは、今日だけでもう十九回目だ。ノートの余白にはペン先でぐるぐると円が描かれ、その中には公式ではなく、何度もなぞった「語」の一文字だけがあった。
(君語、あんたいったいどこ行っちゃったのよ。電話は繋がらないし、メッセージは既読無視。あんたの部屋の明かり、一ヶ月ずっと消えたままじゃない。これもうサボりじゃ説明つかないでしょ)
彼女は腕に顎をのせた。メガネのフレームに、チョークの粉がうっすらと白く積もっている。
二人は小学校からの付き合いで、クラスが分かれたことはほとんどない。以前の黄君語はクラス公認の明るい優等生だった。成績はいつもトップ3、運動会では誰よりもまぶしく笑い、ちょっとおバカなくらいまっすぐで、誰かがいじめられていれば真っ先に立ち上がる子だった。家のことでいつも仏頂面をしていた瑾萱を、毎日お弁当や宿題に引っぱり込んでいたのも君語だ。あの元気いっぱいの声で、こう言いながら。
「小萱って、笑ってないとめちゃくちゃ怖いんだよ! ほら、笑って笑って!」
退屈な担任に二人でツッコミを入れ、模試の前の晩にはコンビニのおでんを食べ尽くし、屋上に忍び込んで、大人になったら何になりたいかを語り合った。あの頃の君語のノートに描かれていたのは、かわいいイラストときれいに並んだ公式だけ。騎士も怪獣も出てこなかったし、「正義のヒーロー、颯爽登場!」なんて、四階から飛び降りたくなるほど恥ずかしい台詞はどこにもなかった。
全部、夢人とかいう男が現れてから変わったのだ。
二人はカラオケの合コンで知り合った。あの男は冷めた顔でツッコミばかり入れるくせに、瑾萱の目の前で君語と「特撮における正義とは何か」を大真面目に論じ合い、子供だましのヒーローショーに連れていっては、光るグッズを山ほど買わせた。それ以来、君語のノートにはマントや必殺技の名前が増えていった。成績はまだ上のほうを保っていたけれど、瑾萱と過ごす時間はどんどん減っていった。
それを見るたびに、瑾萱は歯がゆくてたまらなかった。嫉妬は隠しようもなかった。
(あの男さえいなければ、君語は今ごろ私と一緒に宿題の文句を言って、相変わらずの「万年一位のおバカさん」でいたはずなのに)
考えれば考えるほど腹が立って、担任が出席を取ったのにも気づかなかった。後ろの席の「宇宙人駆け落ち説」はまだ盛り上がっている。でも、それが全部デタラメだと知っているのは彼女だけだ——昨日の夜も、こっそり君語の家の前まで行ってきた。二階の君語の部屋の窓は真っ暗で、隣の窓にだけ明かりがついていた。窓の向こうには君語のお父さんがひとりで立っていて、不安そうな顔をしていた。その表情は、口にされない「私にも分からないんだ」をはっきりと語っていた。
(絶対またあの男のせいだ。ニュースに出てくるDV彼氏だって、最初はみんなあんな感じなんだから)
そのとき、教室の後ろのドアから小さな音がした。慣れない扉を肩で押し開けるような音だった。
瑾萱は顔を上げた。
紫のポニーテール、マフラー、すっきりとしたシルエット。一ヶ月消えていた本人が、うつむいたまま教室に入ってきた。足取りが慎重すぎて、授業に戻ってきたというより、ちょっと通りがかっただけのように見えた。
クラス中が半秒だけ静まり返り、すぐに押し殺した驚きの声があちこちで弾けた。担任のチョークが宙で止まる。
「黄君語さん?」先生はぽかんとした。「もう……体は大丈夫なのか? 事故のあとのリハビリは……」
紫のポニーテールが顔を上げた。その笑顔はひどくぎこちなく、まるで誰かの顔を借りてきたみたいだった。声も記憶より低く、少しかすれている。
「……はい、もう大丈夫です。ご心配をおかけしました」
瑾萱の椅子が床をこすり、耳障りな音を立てた。彼女は駆け寄ってその手首をつかみ、自分の隣の空いている席まで引っぱっていった。手首は記憶より細かったのに、女子高生のものとは思えない力がこもっていた。
「あんた、この一ヶ月どこ行ってたのよ!」声をひそめながら、舌を噛みそうな勢いでまくしたてる。「夢人とどこ行ってたの!? 死ぬほど心配したんだからね! 私が毎晩あんたの家の前まで行って、部屋の明かりがついてるか見てたの知ってる!? おじさんも何も教えてくれないし!」
つかまれたほうは自分の手首を見下ろし、一瞬ぼうっとした。この肌がいったい誰のものなのか、確かめているみたいに。しばらくして、ようやくゆっくりと口を開いた。
「……ごめん。心配かけた、瑾萱」
瑾萱の手が、少しゆるんだ。
(……瑾萱?)
君語が自分をフルネームで呼んだことなんて一度もない。いつもは「小萱」、機嫌がいいときは甘えて「萱妹」。今の呼び方は、他人のものに聞こえた。座り方も変だ。背筋が伸びすぎていて、膝はぴったり閉じすぎている。初めてスカートをはいた人が、重力と相談しているみたいだった。しゃべり方からも、いつもの元気いっぱいの中二っぽさが抜けて、無理やり押さえつけたような落ち着きがにじんでいる。
瑾萱は目を細め、耳元に顔を寄せた。シャンプーの香りは君語のものだ。でもその奥に、病院の消毒液の匂いがかすかに残っていた。薄いのに、どうしても消えない匂いだった。
「あんた、あの夢人に何かされたんじゃないの?」瑾萱は問いつめた。「正直に言って。あいつに何かされたんでしょ? 私、もともとあの男のこと好きじゃないんだから。あんたが変わっちゃったのも、絶対あいつのせいだと思ってるし」
その体は目に見えて固まり、耳の裏がじわじわと赤く染まっていった。あまりにも正直な赤さで、とても嘘をついているようには見えなかった。
★ ★ ★
▼2
(くそっ——この体、「夢人」って単語に反応しすぎだろ)
黄君語の席に座った夢人は、手のひらにびっしょりと汗をかいていた。その汗がスカートの裾を太ももに張りつかせる。教室の光も、チョークの粉も、さっき瑾萱につかまれた手の温もりも、すべてが記憶の中の世界よりずっと近くに迫ってくる。この体は、近づいてくるものに対して勝手に反応してしまうのだ。耳の裏は熱く、鼻の奥は君語がいつも使っていたシャンプーの香りでいっぱいだった。いい匂いすぎて、マフラーに顔ごとうずめたくなる。その衝動を、彼はすぐさま意志の力でひねりつぶした。
(落ち着け。今しゃべってるのは彼女の口だ。冷静に。筋肉の記憶に振り回されるな)
彼は乾いた笑いを二度漏らした。まるで笑えていなかった。
「ち、違うって。ちょっと……事故に遭っただけ。もう平気だから」少しかすれた声で、そう付け足す。「夢人は今も、馬偕記念病院の二〇一号室で寝たきりなんだ」
瑾萱が目を見開いて問いつめようとした瞬間、チャイムが割って入った。とはいえ、それも一時しのぎにすぎない。瑾萱という人間は、チャイムごときで引き下がるタマではないのだ。
数学の授業中、夢人は生まれて初めて三角関数を真面目に聞いた。急に数学が好きになったわけじゃない。君語の指が勝手にペンを握って、数字をきっちりと書き並べていくからだ。ところが書いているうちに、ペン先はページの端にこっそり小さなヘルメットを描きはじめた。慌てて黒く塗りつぶしたちょうどそのとき、後ろの席の誰かが紫のポニーテールを見ながらひそひそと話しているのに気づいた。
(彼女のクラスメイトが俺を見てる。いや、見てるのは彼女のほうだ。俺は授業を受けに来た幽霊なんだから)
終業のチャイムは思っていたより耳に刺さった。この耳が、元の自分のものよりずっと敏感だからだ。廊下を歩くスニーカーの音、自販機に缶ジュースが落ちる音、それから「黄君語、ほんとに戻ってきたんだ」という声。全部が一度に流れ込んでくる。彼はうなずいた。角度はいつもの君語のものだったが、うなずいたあとに笑うのを忘れた。その無表情にクラスメイトが半歩あとずさった隙に、瑾萱がまた彼の手首をつかんだ。
瑾萱は彼を女子トイレへと引っぱっていく。入り口のピンクのマークが、近づくにつれてどんどん大きくなっていく。彼は入り口でしばらく固まった。死地に赴く戦士のような顔だった。瑾萱が後ろからドンと背中を押す。
「今日どうしたのよ、あんた。ドアは噛みついたりしないって」
個室のドアが閉まる。スカートの問題は、どんな理屈よりも現実的だった。彼は自分にしか聞こえないほどの小声で毒づいた。
「……不便すぎるだろ。このスカート、どうしろってんだよ」
隣の個室から、こらえきれずに漏れたような、小さな息の音がした。笑いたいけれど笑っちゃいけないと思っている、そんな音だった。
(聞かれた。終わった。ヒーローの初陣が、まさか女子トイレだとはな)
昼休みの屋上は風が強かった。紫のポニーテールが顔に打ちつけられて、目が痛くなるほどだ。二人は給水タンクの影に座ってお弁当を食べた。お弁当は瑾萱が作ってきたもので、卵焼きがハートの形をしていた。夢人がひと切れつまんで口に入れると、理不尽なくらいおいしかった。
(君語っていつもこんなかわいいもの食べてたのか? 全然気づかなかった。……くそ、この体、またヒーローのポーズを取りたがってる。我慢しろ)
瑾萱は自分のお弁当に箸を突き立て、わざとらしく聞いた。「で、彼氏の具合はどうなの? ひどい事故だったんでしょ?」
指先の箸が小さく震え、顔がまた熱くなる。マフラーの下で心臓がドクン、ドクンと打っている。打つたびに「夢人」と叫んでいるみたいだった——いや違う、これはこの体の鼓動だ。
「あいつは……しばらく休学」彼は声を平らに保った。「医者には、もう目を覚まさないかもしれないって言われてる」
瑾萱はフンと鼻を鳴らした。その冷たい鼻息には、本気の嫌悪と、隠しきれなかった安堵が混じっていた。
「私、もともとあの男が嫌いだったのよ。あんたが変わっちゃったのも、あいつのせいだと思ってるし。それが今じゃ……」彼女は半拍置き、「死んでせいせいした」という言葉を半分だけ飲み込んで、飲み込みきれずに漏らした。「……フン」
夢人は言い返さなかった。口を開けば、この口から「それ、俺なんだけど」が飛び出しかねない。だから黙ってご飯を食べた。ご飯はおいしかった。それでも彼の意識の半分は、二〇一号室のベッドに横たわる、あのボロボロの体に向いていた。あの中には君語の魂が、この中には彼がいる。そして二人のあいだには、瑾萱にすべてを話すことのできない契約が横たわっていた。
不意に、瑾萱のスマホが鳴った。画面には「お父さん」の文字。眉をひそめて電話に出ると、受話口の向こうから異様にはしゃいだ声が聞こえてきた。
「小萱か! 投資アドバイザーの先生がな、暗号資産のこの波はもう待てないって言うんだ! 貯金、全部下ろしてきたぞ! 午後にあのカフェで契約するんだ。外で送金を手伝ってくれる人も待っててくれて——」
瑾萱の顔色が、たった三秒で苛立ちから真っ青に変わった。風が髪をあおり、メガネがずり落ちる。
「お父さん! それ詐欺だよ! まだサインしないで! 今すぐ行くから!」
電話を切った指は、まだ震えていた。瑾萱は「君語」を振り返った。一緒に飛び出してくれるのが当たり前だと信じている目だった。
夢人はとっくに立ち上がっていた。風がスカートの裾をめくり上げ、彼はとっさにそれを押さえた。動きはぎこちなかったが、目つきはすっと冷えていた。
(瑾萱と親父さんに何かあったら駄目だ。この体はまだ戦い慣れてない。でも、大事な人を守るって約束したんだ。君語の大事な人は、俺の大事な人だ)
「……一緒に行く」彼は言った。
瑾萱はちらりと彼を見たが、学校に戻ったばかりの事故の怪我人がなぜ走れるのかは聞かなかった。ただ彼の手を握った。その手は温かかった。彼女はそのまま彼を引っぱって階段を駆け下り、まだまぶしい午後の街へ飛び出していった。
★ ★ ★
▼3
カフェは路地の奥にあり、冷房が効きすぎていた。ガラスのドアには「本日のハンドドリップ」の貼り紙。スーツ姿の男が二人、テーブルに契約書を広げていて、瑾萱の父親の通帳が文鎮がわりに契約書の隅に置かれていた。入り口にはサングラスをかけた受け子の男が立っている。腕には落としきれていない機械油がこびりつき、目つきは陰険で、どう見てもただの使い走りには見えなかった。
瑾萱はドアを押し開けた。体より先に声が飛び込む。「お父さん! サインしないで!」
その場が三秒だけ混乱した。スーツの男はまだにやにやしながら「子供には投資のことは分からないよ」などと言っている。そのあいだに受け子の男はもう前に出て、通帳と印鑑に手を伸ばしていた。父親は慌てて、それを胸に抱え込む。
夢人の視界が急に狭まった。あの伸びてくる手しか見えなくなる。
(金を置け)
右手を握り込むと、手のひらが熱くなった。七色の光の紋様が指の関節をはい上がり、反動の小さいリボルバーの形に固まる——〈心のリボルバー〉。人間道でいちばんありふれた力は物質創造だが、彼はそれを「人を殺さない形」に作り変えた。正義のヒーローは人を殺してはいけないからだ。君語の指は彼のものより細いのに、グリップは不思議としっくりと手になじんだ。
「金を置け」彼は言った。冷たく低い声だった。女子高生のものとは思えないが、ぶれはなかった。
受け子の男は一瞬きょとんとし、すぐに凶暴な笑みを浮かべた。袖口から特殊警棒が滑り出し、彼の顔めがけて振り下ろされる。
夢人の体が、勝手に動いた。
だがそれは、彼がやろうとしたサイドステップではなかった。君語の筋肉の記憶だ——右足を横に踏み出し、マフラーをひるがえし、左手を腰に当てて、特撮で名乗りを上げるときのあのポーズでぴたりと止まる。警棒が鼻先をかすめ、風が頬を削っていく。自分の口が君語の声で、台詞の前半を叫ぶのが聞こえた。
「正義の——」
(くそっ! このポーズ恥ずかしすぎるだろ!)
彼は台詞の後半を噛み殺し、引き金を引いた。
「底なしの懺悔に沈め! 己の悪を悔い——いや違う、まずは怒りだ!」真っ赤な弾丸が男の肩に撃ち込まれた。〈心の弾丸〉は肉を貫かない。撃ち抜くのは感情だ。男の目がたちまち血走り、動きがめちゃくちゃに荒れ狂った。振り回した警棒が、すぐ横にいた仲間のすねを打つ。仲間が悲鳴を上げ、スーツの男の手から契約書が舞い上がって、床一面に散らばった。
「てめえ、ふざけ——」男の罵声が途中で詰まる。「よくも俺の邪魔しやがったな!」
男が飛びかかってくる。夢人は続けざまに引き金を引いた。弾丸の色が三度変わった。だまされた人たちがどれほど痛かったかを思えば、弾は灰色になる。この男がどれだけ悔やむべきかを思えば、濁った金色になる。夜中に電話で叩き起こされたお年寄りがどれほど怖かったかを思えば、白く光る。色は彼の頭に浮かんだものについてくるだけで、決まった形はない。その一発一発が、正確に心の奥へと撃ち込まれていく。彼が思い描いた感覚を、そっくりそのまま相手の胸に押し込むのだ。男はまず膝から崩れ落ちた。その目に、自分がだました人たちの顔がよぎる。続いて警棒が手から落ち、男は頭を抱えてカフェのタイルの床を転げ回った。
「やめろ……もう思い出させないでくれ……うわあああっ!」
一歩踏み出した瞬間、夢人はスカートに引っぱられて転びかけた。それでもなんとか踏みとどまって通帳と現金を取り返し、震えている瑾萱の父親の手に押し込んだ。リボルバーは手のひらで光の粒になって散り、マフラーの中へ吸い込まれるように、跡形もなく消えた。
その一部始終を、瑾萱はその場に立ち尽くしたまま見ていた。メガネに、エアコンの吹き出し口の光が映り込んでいる。親友がまるで彼女らしくない冷静さで戦い、その手に光るリボルバーを握っているのを、ただ見ていた。それ以上に引っかかったのは——戦いのさなか、その親友が何度も筋肉の記憶のせいで背筋をヒーローみたいに伸ばし、「颯爽登場」と叫びかけては慌てて口をふさぎ、この世の終わりのような顔をしていたことだった。
代償は、銃声から半拍遅れてやってきた。夢人の指先がしびれはじめ、そのしびれがグリップから手首へとはい上がってくる。続いて、こめかみがズキズキと脈打つように痛みだした。〈マインドバレット〉はタダじゃない。タダなのは特撮の中だけだ。一発撃つたびに、彼は自分の精神力を使って、思い描いた痛みや悔いや恐怖をこねて形にし、それを他人の心にねじ込んでいる。撃てば撃つほど自分の中が空っぽになり、心が乱れ、消耗も激しくなる。足元がふらついた。マフラーの下で呼吸が浅くなっていく。それなのにこの体は、「正義のヒーロー、颯爽登場」で自分を奮い立たせようとする。彼は慌ててまた口をふさいだ。その動作も、瑾萱にばっちり見られていた。
カフェのBGMはまだラブソングを流していた。この状況にまったく似合っていない。店員はカウンターの陰に隠れていて、ドリップポットからはまだお湯がぽたぽたと落ちていた。
瑾萱がとうとうこらえきれず、小さな声で言った。「……あんた、今日ほんとに変だよ」
誰かが通報したらしく、パトカーのサイレンがまだ遠くで鳴っていた。
ドアの外では、サングラスが床に転がり、受け子の男がまだ泣いていた。その泣き声の中から、投資詐欺には似つかわしくない一言が絞り出された。「竹梅堂のシノギを潰しやがって……お前ら、終わりだぞ……」
夢人の耳にもそれは届いた。けれど、その言葉をどこに置けばいいのか、とっさには分からなかった。彼はまず瑾萱の父親を助け起こし、それから瑾萱の震える手を握った。騒ぎはどうやら終わったらしい。少なくとも、見た目の上では。
★ ★ ★
▼4
その日の夜、九時四十分。
瑾萱のマンションの屋上。物干し台にはまだ制服が二着干してあって、足元には街の明かりが一面に広がっていた。風は昼休みよりも冷たく、紫のポニーテールを横へなびかせる。昼間は必死に押さえ込んで「いつもの君語」を演じていた彼も、夜になると、それを続けるのが難しくなっていた。
瑾萱は腕を組み、声を震わせながらも、意地でも相手から目を離さなかった。
「あんた……あんた、いったい誰なの?」
紫のポニーテールの少女が振り返る。その顔には疲れと、やさしさと、それから瑾萱の胃の底を冷たくするような、見覚えのある何かがあった。彼女が嫌って、心配して、カラオケで白目をむきたくなった、あの男。その男が、彼のものではない瞳の奥からこちらを見ている。
彼は深く息を吸った。この体の肺は自分のものより小さくて、たいして空気が入らない。
「瑾萱、ごめん」彼は言った。「俺は、君語じゃない」
風が一秒だけやんだ。物干しのロープが、小さくきしむ音だけがした。
「俺は……夢人だ」
「今この体に入ってるのは、俺なんだ」
瑾萱のメガネが鼻先までずり落ちた。頭が真っ白になって、情けない声がひとつ出ただけだった。
「……はあ?」
「この秘密、守ってほしい」彼はゆっくりと言った。この喉がまた勝手にヒーローの台詞を叫び出さないように。「お前が彼女の親友だってことは知ってる。これからの学校生活……頼む」
「じゃあ、あの子はどこにいるのよ?」瑾萱は一歩踏み込み、昼間よりも強い力でマフラーの端をつかんだ。「それって、あの子を助けるのと関係あるの?」
「ある」彼はうなずいた。「ただ、契約のせいで詳しいことは話せない。なにしろ神様と交わした取引だからな」
瑾萱の指に力がこもり、マフラーに深いしわが寄った。
「事故」彼女は言った。「先生は事故って言って、あんたは病院って言って、今度は神様? この三つ、どうつなげろっていうのよ」
「伝奇小説なんて、だいたいそういうもんだろ」彼は遠くの明かりに目をやった。「いちばん大事なことだけ先に言う。あいつは生きてる。ただ、ここにはいない。目を覚まさない俺の体の中にいるんだ。俺が今あいつの体を借りて動いてるのは、あいつを取り戻すためだ」
「……神様」瑾萱はその一言を、中二病の台詞でも読み上げるみたいに繰り返した。本当は「また病気が出たの?」と言いたかった。でも、午後のあの銃も、あの色も、自分がだました人たちを思い出してタイルの床で泣き叫んでいた受け子の姿も、特撮では説明がつかない。彼女は「中二病」という言葉を飲み込んだ。そのかわりに、目の奥が熱くなった。
「わかったわよ」とても小さな声だった。「わ、わかった。……ほんとは全然わかってないけど、とりあえず信じる。信じないと、怒る気力も出ないし。あんたがあの子をどこにやったのか、いつ返してくれるのか、これからは全部私に話しなさいよ。『ノーコメント』とか言って仲間外れにしたら、絶対許さないから!」
「ああ、約束する」彼は言った。今度は「小萱」と呼んだ。ひどくぎこちなく、いかにも君語の真似をしたばかりという呼び方だった。
瑾萱は笑わなかった。ただ、ぐいっとメガネを押し上げた。
「それから」彼女は彼をにらみつけた。「これから学校では、あんた——あんたはちゃんと黄君語をやりなさい。あの子の空いた席は、もう一ヶ月も見たの。二度と見たくない」
屋上にまた風が吹き抜けた。遠くの路地から、バイクがカーブを曲がる音がかすかに聞こえてきた。
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▼5
路地の入り口の街灯がひとつ切れていて、その暗がりに、エンジンをかけたままのバイクが一台停まっていた。乗っている男はヘルメットをかぶっていない。腕には落ちない油の染みがあり、その横から入れ墨がのぞいている——梅の花に絡みつく竹の葉。
男は屋上を見上げていた。あの紫のポニーテールを。昼間、受け子を床に転がして泣かせた、あの「女」を。スマホの画面には、ピントの甘い写真が一枚表示されていて、その下にまだ送信していない一文があった。
「竹梅堂のシノギを潰したガキ。黄君語。高二。紫のポニーテール」
送信を押すと、画面が一瞬明るくなって、また暗くなった。さらに離れた場所では、ライトを消した二台目のバイクが、一度だけ咳き込むようにエンジンを鳴らして静かになった。彼らに立ち去るつもりはなかった。ただ見ているのだ——紫のポニーテールがいつ屋上から降りてくるのか。銃を生み出したあの手が、もう一度同じことをできるのか。
そのメッセージは、夜の闇にまぎれて静かに広まっていった。竹梅堂がやっているのは、投資なんかだけではない。投資は昼間の顔にすぎない。夜の顔はもっと短く、たったひと言で済む。「邪魔をした奴は、名簿から消す」
屋上で、夢人はくしゃみをした。君語の体が、勝手にマフラーをきつく引き寄せる。
(誰かが見てる。しかもその視線、あんまり友好的じゃないな)
彼は銃を呼ばなかった。銃は必要なときだけ出せばいい。今ここで出したって、瑾萱が安心して眠れなくなるだけだ。
病院では、二〇一号室の医療機器が今も規則正しく音を刻んでいる。あの体には君語が、この体には彼がいる。神様との契約は、まだ誰にも明かせない。それまでは一日一日をちゃんと生きて、地蔵王から託された任務をひとつずつ片づけていくしかない。
屋上の下では、マンションの明かりがひとつ、またひとつと灯っていく。まだ始まっていないカウントダウンのように。
だが、カウントダウンは——もう始まっていた。
——第一話 完
本作は、中国語の原案をAI翻訳によって日本語化したものです。
翻訳に不自然な点や、内容について気になることがありましたら、お気軽に教えてくださいね〜!




