9、最後なんて永遠に来ない
最初に会った時からカイゼクスとカロリーヌは子どもではなかった。子どもの姿をしているのに、思考は大人だった。
理解力と判断力に優れ、頭の回転が速く、勘が異常に鋭かった。
カイゼクスとカロリーヌはオリヴィアとは比較にならないほどに社交界を熟知しており、貴族社会の事情に精通していた。
だから。
15歳のオリヴィアが、壮麗なローエングリム公爵邸に萎縮していることも、自分の趣味を皆と共有したいと思っていても臆病になっていることも、いち早く気付いたのはカイゼクスとカロリーヌだった。
オリヴィアの趣味は、未知の世界と言ってもいいほどに前代未聞の新しさであった。肯定と否定をともなうであろう常識破りだった。
花めけば時代の改革となるだろうが、下手をすれば悪魔憑きと憎悪されて処刑される紙一重であることをカイゼクスとカロリーヌは早々に認識をしたのである。
故にオリヴィアが貴族社会の贄とならぬように、まず空気をつくった。
新鮮で。
興味深く。
刺激的で。
魅力的な。
至福なまでに楽しい、という空気をバラ撒いたのだ。
空気という名の呼吸は伝染する。
噂となって伝播して、時に社会に浸透してゆく。
噂は一番簡単な目に見えない刃だ。無記名の免罪符でもある。火のように速いのに火のように煙を上げて存在を知らせることもない。どこにでもある悪気のない悪意は真実を熟るる毒に変化させ事実を滴る腐蝕にしてしまう。そんなつもりではなかった、は残酷な言葉である。そして誰かが何かを失い誰かが何かを得るのだ。
人は人を見ている、見られているのだ。
噂は善意の顔をした無責任な攻撃手段として角度の正確な刃となる場合もあるが、社会現象となって効果的に大輪の花を咲かせることもある。
聡明なカイゼクスと狡猾なカロリーヌは空気の吐息を有効に利用して、最大限の果実を実らせ収穫をしたのだ。
オリヴィアのために。
オリヴィアが趣味を続けることができるように。
ローエングリム公爵邸を足場として。
透明で濁りのない安全な空気をつくったのである。
ゆるニャンなオリヴィアであるが前世の知識がある分、用心深い。魔女の火炙りや異端審問は、元の名字がラスボスであるだけに頭から離れたことはない。前世があるという現実は、ラスボス令嬢時代には恐怖をうっすらと薄く引きのばした日常をオリヴィアに与えた。が、それを癒やしてくれたのはカイゼクスとカロリーヌであった。
オリヴィアは順調すぎる流行の道がローエングリム公爵家の組織的な力添えによるものだと理解していた。情報を巧みに操作して、始まりをつくったのはカイゼクスとカロリーヌだとオリヴィアは察していたのだ。
17歳になってもオリヴィアの右にはカイゼクスがいて左にはカロリーヌがいて、背後にはニャイケルたちガードドッグたちがいる。15歳の時と同じように。この幸せが心地よくて、オリヴィアは15歳の時に小指を絡ませた「ずっといっしょだよ」という約束を胸の奥底に沈めている。
いつかカイゼクスとカロリーヌが成長してオリヴィアから離れていっても思い出が残るように、大切に抱きしめているのだ。
オリヴィアはローエングリム公爵家の第二夫人で、結婚しているのだからと不貞などという考えが根本的になかった。
左右から温もりを与えてくれるカイゼクスとカロリーヌがいずれ飛び立ってしまうのは寂しいが、覚悟はしていた。
しかし、当のカイゼクスとカロリーヌは飛び立つ予定はサラサラない。そのことをオリヴィアは知らない。オリヴィアと、カイゼクスとカロリーヌの温度差が非常にはなはだしく違うし矢印の方向の重さも大きく異なるが、何も知らないオリヴィアは今の幸福を思いっきり堪能することにした。
左右にカイゼクスとカロリーヌがいてくれて、楽しい時間を共有できる今を満喫するのだ。
パチン。
オリヴィアが指を鳴らすと部屋の中が水中へと変化する。オリヴィアの幻影魔法であった。
「オリヴィア、これは第二小劇場の水中映像だね」
と部屋を見回すカイゼクス。
「綺麗だわ。水中って神秘的よね」
と微笑むカロリーヌ。
「私のお気に入りの映像なの。いっしょに見たいと思って。今日は疲れたし、水は心身を調整してくれるらしいし」
とオリヴィアが言った。
オリヴィアが前世の水中映像を蘇らせて魔法でなぞる。
天井が水面となって光を孕んで揺らぐ。
水面から差し込む光は屈折して、硝子の切断部みたい美しい。
キラキラと。
太陽の欠片のように。
月の破片のように。
揺り籠のごとく光がユラユラと煌めく。五線譜みたいな光は音のない音楽のようだ。
水底には白骨のような倒木が沈み横たわっている。
緑の森はなくとも宝石のような珊瑚の森があり。
風は吹かなくとも水がゆるやかに流れ。
鳥は飛ばずとも色鮮やかな魚が泳ぎ。
水の中には生命が溢れていた。
長い髪を水に靡かせているのは人魚の少女たちである。
白い手が水をかき。
人魚の少女たちが水と戯れるみたいに泳ぐ。
幻の海で人魚の真珠色の尾が妖精の翅のように優雅に閃き、魔法で淡い光を纏った波紋を描いた。
花びらのごとく。
ひとひら。
ふたひら。
波紋と波紋が響きあい。
響きが響きを織って波となり。
やわらかい旋律を奏でて。
そうして半透明の焔のような波紋は儚く、すぅと泡のように消えた。
幻想の海。
夢幻的な人魚。
たまゆらの夢のように美しい水の世界。
「素敵よね。ねぇ、夏になったら海に行かない? 今日の『ラスボス劇場』のオープンでたくさん働いたし、ご褒美に」
うっとりと幻の海に酔いしれて提案するカロリーヌにカイゼクスが頷く。
「領地の東に港町があるからそこに行こう。島も幾つかあるし、船にも乗ろうか?」
「賛成。そういえばローエングリム公爵家には軍船もあったわよね」
「規模は小さいけど海軍を保有するからね。海賊対策に」
「海賊なんて一気に現実的な話よね。あーあ、現実の海には人魚がいないものね。つまんない」
「うーん、でも伝説はあるんだし、もしかしたら?」
「そうよね。海の全部が探検されているわけではないものね」
「人魚がいるかも、なの?」
オリヴィアが尋ねると、カイゼクスが笑った。
「伝説があるんだよ。人魚と人間の恋のね。最後は人魚を裏切った人間が食べられるんだ」
ぴゃ、とオリヴィアが肩をすくめた。
「食べられちゃうの?」
「人間の男が悪い。大金に目がくらんで恋人の人魚を売ろうとしたから、人魚の姉妹が怒るんだよ。それで首だけになった男を、海の底で人魚の恋人がいつまでも愛し続ける話なんだ」
「……悲恋なのかしら?」
「それで恋人の人魚が流す涙が真珠になる、ってところでお仕舞い」
「真珠かぁ……」
オリヴィアが呟く。前世でも真珠は人魚の涙と呼ばれていた。
「オリヴィア、今度お揃いの真珠のアクセサリーを作りましょうよ」
「僕もまぜてよ。ブローチなら男女お揃いのデザインでも大丈夫じゃないかな?」
カロリーヌとカイゼクスがオリヴィアに向かって明るい声で言った。オリヴィアが応える。
「真珠のブローチのお揃いなんて楽しみだわ」
また一つ増えた約束にオリヴィアは胸をときめかせて微笑む。同時に思った。
いつか最後の日がくるのだろう。
最後に手を繋いだ日。
最後に抱きしめた日。
最後に頬にキスをした日。
多くの最後がカイゼクスとカロリーヌの成長とともにやって来るのだと。オリヴィアではなく他の誰かの手をとる日が来るのだと。
けれども、そんな最後の日は永遠に来ないことをオリヴィアは知らないのであった。
読んでいただき、ありがとうございました。




