スパイスの狂気と煮えたぎる王の深淵
※生きることは、食べることという物語です。
カリー・ハーンの門を潜った瞬間、
シオンは呼吸を止めた。
街中に漂うのは、喉を直接焼くような
刺激的なスパイスの芳香だ。
蛇口からは水ではなく、濁ったスパイス水が流れ出し、
住人たちは異常な高揚感で目を血走らせている。
「見てなさい、シオン。この街の異常さは、
ただの食文化の問題じゃないわ」
リナは貨物船のハッチを閉め、
防塵マスクをシオンに投げ渡した。
彼女はハバラ・アーキで仕入れた「マヨネーズ神殿」の
記録を端末で確認しながら、街の構造を冷静に分析している。
「ここの住人が常に興奮してるのは、
王が街全体に散布している気化スパイスのせいよ」
そして。
「感覚を麻痺させて、
『お袋』の管理から逃れるための彼らなりの自衛手段。
でも、度が過ぎてるわね」
「……リナ、珍しくまともな分析です。
ですが、私の演算によれば、原因はもっと物理的なものです」
「珍しいは余計よ!」
「この街の空気には、
微細な攻撃的ナノマシンが含まれています。
マスター、あなたがこのまま鼻を垂らして歩けば、
三分後には全人類をカレーの具材にするために暴れ出すでしょうね」
セラの毒舌は、
高熱環境への不快感でさらに尖っていた。
彼女はセラフィオンの環境制御システムを最大に広げ、
シオンの周囲に薄い中和膜を張る。
「うるせえな、俺の理性を信じろよ!
それよりリナ、あの中心にある馬鹿デカい鍋はなんだ?」
シオンが指差したのは、街の中央に聳え立つ、
旧時代の工場跡地を改造した巨大な厨房だった。
そこは「マヨネーズ神殿」をも凌ぐ熱気に包まれ、
絶えず黄色い蒸気が立ち昇っている。
「あれが砂漠の王の玉座、通称『大鍋の間』よ。
王は三〇〇年前から一度も火を消さず、
あの鍋を煮込み続けてる」
そして。
「さあ、タク、ニナ。
あんたたちはここでレアカードの露店を開いて、
街のパニックレベルを下げなさい。
あたしはシオンのバックアップに回るわ」
リナの指示は的確だった。
ニナとタクが掲げた「おまけシール」や「カードゲーム」の
キラキラした輝きは、殺気立っていた住人たちの足を止め、
彼らに束の間の「遊び」という正気を取り戻させていく。
◇◇◇
カリー・ハーンの街は、
狂気と活気が不気味に同居していた。
人々はスパイスを求めて街中の露店に群がり、
灼熱のスパイス水を浴びるように飲んでは、
充血した目で笑い、叫んでいる。
しかし、その笑顔の裏には、三〇〇年間「刺激」を
摂取し続けなければ精神が崩壊してしまうという、
深刻な依存と絶望が張り付いていた。
「……見てよシオン。あそこの子供たち、
お腹は空かせてるのに、スパイス入りの飴を
舐めることしか考えてない。
栄養なんて二の次、ただ刺激が欲しいだけなのよ」
リナが眉をひそめ、
広場の隅で虚ろな目をした子供たちを指差す。
彼女は商売人として多くの街を見てきたが、
これほど「未来」を感じさせない場所はなかった。
「この街の経済はスパイスを中心に回ってる。
でもそれは循環じゃなくて、王による一方的な支配よ」
続けて。
「王が吐き出すスパイスの霧がなければ、
ここの連中は禁断症状で一日も持たない。
みんな、王の巨大な鍋の具材にされてるのと変わらないわ」
「……救いようがありませんね。
マスター、この街の住人の平均心拍数は通常の一・五倍。
常に戦闘態勢に近い状態で、脳が疲弊しきっています」
「一・五倍だと!?」
「このままでは数年以内に全住人の神経系が焼き切れるでしょう。
論理的に言えば、ここは「生きている街」ではなく
「死ぬのを忘れた街」です」
セラの言葉は冷酷だが、現実を射抜いていた。
シオンは、道端で「刺激が足りない」と自分の腕を
掻きむしる男の姿を見て、拳を強く握りしめた。
「セラ、こいつらは、飯を食って『幸せ』なんじゃねえ。
ただ『痛みを忘れるための毒』を煽ってるだけだ。
……ハバラ・アーキの連中がマヨネーズで取り戻そうとした情熱とは、
決定的に何かが違う」
「そうね。ここは情熱じゃない、
ただの暴走よ」
リナが重い口を開く。
「シオン、
あんたがあの『砂漠の王』に会わなきゃいけない理由は、
レシピのためだけじゃないわ」
そして。
「この街の『お袋』への抵抗システムが、
すでに自食を始めてるの。王を止めなきゃ、
この街はスパイスの海に沈んで消えるわよ」
「……分かってる。
俺のテリヤキは、誰かを支配するための道具じゃねえ。
美味い飯を食って、明日もまた頑張ろうって笑うためのもんだ」
シオンの動機は、怒りから確信へと変わった。
王が三〇〇年煮込み続けているのは、ただのカレーではない。
街の人々の命そのものを煮込み、刺激という名の鎖で縛り付けているのだ。
「リナ、タクとニナに頼んで、広場で一番目立つ場所を確保してくれ。
王に会うための『通行手形』を、今から俺が作る。
……王様を、あの巨大な厨房から引きずり出してやる!」
シオンはセラフィオンのハッチを開け、
ハバラ・アーキで手に入れた「黒胡椒」の小瓶を取り出した。
「レシピを奪うんじゃない。
俺がアイツに、本当の『食わせる喜び』を思い出させてやるんだ。
……セラ、最高火力の準備をしろ。この街の喉元を、
テリヤキの香りでぶん殴ってやる!」
次回へ続きます。




