恋のパンデミック:監察官ルナの情動バグ
※生きることは、食べることという物語です。
「……セラ、ここが本当に人の住んでる街か?
墓場より静かじゃねぇか」
シオンはキッチンカーの窓から外を眺め、
顔をしかめた。
研究都市エイドス。
そこにある建物はすべて無機質なライトグレーで統一され、
行き交う人々は一糸乱れぬ足取りで、
手元の端末だけを見つめて歩いている。
会話はない。笑い声もない。
ただ、空調の作動音と規則正しい靴音だけが街に響いていた。
「マスター、この都市のバイタル・スキャンを完了。
……驚くべき数値です」
続けて。
「全住民のセロトニンおよびオキシトシンの分泌量が、
通常の三%以下」
そして。
「一方で、思考効率に特化したアドレナリンだけが
異常に安定しています」
「つまりなんだ、
みんな『機械』になろうとしてるってことか?」
「正確には「情愛という非効率なノイズの排除」です。
ここでは、誰かに惹かれることも、誰かのために胸を焦がすことも、
社会的な「バグ」として摘発の対象となります」
シオンが街の中央広場にキッチンカーを停め、
鉄板に火を入れたその時だった。
「……未許可の車両を検知。
公衆秩序維持法第三条に基づき、即刻の退去を命じます」
現れたのは、銀縁の眼鏡をかけ、
完璧にプレスされた制服を纏った女性監察官、
ルナだった。
彼女の瞳には一切の光がなく、
まるで高性能なAIと対峙しているような錯覚を覚える。
「なんだよ、飯を食うのに許可がいるのか?
腹が減ったら食う、それが人間だろ」
「エイドスにおいて、
食事は指定のカプセルによる栄養摂取で完結しています」
「カプセルだって?」
「味覚刺激による脳の覚醒は、
思考の純粋性を損なう『不純物』」
「何?」
「……特に、あなたの車から漂うその香ばしい醤油の匂いは、
住民の集中力を著しく削いでいます」
ルナは端末を操作し、
キッチンカーを「強制隔離対象」としてロックしようとする。
シオンはニヤリと笑い、
あらかじめ用意していた「秘密兵器」をカウンターに置いた。
「……だったらよ、監察官。
あんたがこれを食べて、一ミリも心が動かなかったら、
俺はおとなしくこの街から消えてやるよ」
それは、シオンがエラータウンで
サブリナから教わった「快楽のスパイス」と、
地上のカカオを融合させた特製ソースを絡めた、
厚切りのテリヤキ・ポークバーガーだった。
「無意味です。
私の情動回路は、三年前の成人式において完全に抑制……」
ルナの言葉が止まった。
シオンが無理やり鼻先に突き出したバーガーから、
甘く、切なく。
どこか「誰かに甘えたくなるような」魅惑的な香りが
溢れ出したからだ。
「……ッ。これは……何なのですか。成分分析の結果にない、
この……胸の奥を締め付けるような感覚は」
「そいつはな、監察官。
……あんたが計算式で消したはずの、『ときめき』ってやつだよ」
ルナは、
拒絶しようとする右手を左手で押さえつけながら、
吸い寄せられるようにバーガーを一口、齧った。
「…………っ!?
…………あ、……ああ……っ」
その瞬間、
ルナの眼鏡が曇るほどの熱気が彼女の体中を駆け巡った。
濃厚なテリヤキのコクと、カカオのほろ苦い甘み。
それは、かつて彼女が「効率」のために捨てた、
幼い頃に母の手を握った記憶や、
誰かに名前を呼ばれて嬉しかった記憶を、
暴力的に呼び覚ます味だった。
「……認めない……。こんな、……こんな非論理的な美味しさ……。
……はぁ、はぁ……。……シオン・グレイス。
貴様、……私に、何を……毒を盛ったのですか……」
ルナの頬が、桜色に染まっていく。
「マスター。監察官の脳内に、大規模な「恋情バグ」が発生しました。
……エイドスの計算式が、今、崩壊を開始しました」
監察官ルナがシオンのバーガーを一口食べたその瞬間。
彼女の胸元に装着されていた
「感情監視デバイス」が真っ赤に点滅し、
街中にアラートが鳴り響いた。
「警告。個体番号R-102・ルナ監察官の情動指数が、
規定値の500%を突破。
……深刻な『恋愛初期症状』と断定します」
しかし、異変は彼女だけではなかった。
シオンのキッチンカーから漂う、
甘辛く、そしてどこか官能的なテリヤキ・ショコラの香りは、
換気ダクトを通じて街全体へと拡散していった。
「……なんだ、この香りは。効率が下がるはずなのに、
キーボードを叩く手が止まらない」
「隣の席の君の、うなじの曲線が
……なぜか黄金比に見えてくる……」
あちこちで、
数式とグラフしか見つめていなかった研究者たちが、
顔を赤らめて隣人を見つめ始めた。
エイドス始まって以来の、
未曾有の「恋のパンデミック」の幕開けだった。
「……全住民のIQが15ポイントも低下している。
これは最早、バイオテロだ」
混乱する広場に、一人の男が悠然と現れた。
エイドス最高評議会の若き天才、ヴィクター。
彼はルナの幼馴染であり、
「恋愛はホルモンのバグによる一時的な精神錯乱である」
という論文で博士号を取った、究極の理詰め男だった。
「シオン・グレイス。君が提供しているのは食料ではない。
脳内の神経伝達物質を不当に操作する『電子ドラッグ』だ」
そして。
「……ルナ、君もだ。
監察官でありながら、その程度の糖分に理性を屈させるとは」
「ヴィ、ヴィクター……。違うの、これは、
ただの……『美味しい』という……」
ルナは震える手でバーガーを隠すが、
その瞳にはまだ、熱い潤みが残っていた。
次回へ続きます。




