三〇〇年目の悪夢―嗅覚の勝利―
※生きることは、食べることという物語です。
【お知らせ】更新日を毎日に変更、最終回までラストスパート!
闇。
底知れない、冷たく重い沈黙がシオンを包んでいた。
味覚を奪われ、光を失い、身体の感覚さえも摩耗していく。
「……俺は、生きてるのか?」
自分がまだ生きているのか、
それともカイザーのブレードによってすでに死んだのかさえ判然としない。
思考は凍り、輪郭を失い、ただ虚無だけが広がる。
だが、その絶対的な虚無の向こう側から、掠れた電子の囁きが届いた。
「……マスター……応答してください……」
セラの声だ。
いつもは氷のように研ぎ澄まされていたその響きが、
今は壊れかけのラジオのように弱々しく、痛々しい。
「マスター……まだ、終わっていません……」
だが、その声は確かにシオンの意識の端を、
現実という名の岸壁へと繋ぎ止めていた。
「……起きろ。眠っている場合ではないはずだ!」
もう一つの声。傲岸不遜で、芝居がかった、
けれど不思議と信頼に足る男の怒号。
「聞こえているだろう、シオン!」
グリードだ。通信回線越しに、彼の焦燥と、
折れない意志が叩きつけられる。
「こんな場所で幕を下ろすつもりか、シオン・グレイス。
お前はまだ……あの黄金のタレを纏ったテリヤキを、
私に食わせていないだろう!」
その言葉が、火花のようにシオンの冷え切った脳に刺さった。
テリヤキ。肉。焦げた醤油の匂い。
「……ああ……そうだ……」
凍結されたはずの感覚が、その単語に反応して微かに熱を帯びる。
シオンの指先が、瓦礫の山の上で痙攣するように動いた。
右腕の義手が熱を帯びる。
「……そうだ。まだ……終わってねぇ。……食い逃げなんて、させるかよ」
無理やりまぶたを押し上げる。
「ぐ……っ」
視界を覆う血を払い、ようやく見えたのは、崩落した地下倉庫の無残な天井と、
裂け目から降り注ぐ白く乾いた雪だった。
そして、シオンのすぐ目の前。
崩れた棚から転がり落ち、山積みになっていた『それ』が、
鈍い銀色の光を放っていた。
錆びついた銀色の肌。
経年劣化でラベルは剥げかかっているが、
内部で発生したガスの圧力によって、
円盤状の容器は今にも破裂しそうなほどパンパンに膨らんでいる。
そこには、旧時代の言語でこう刻まれていた。
――『Surströmming』。
「……シュール、ストレミング……?」
ニシン。発酵。
封印されてから、三〇〇年。
シオンの脳裏に、お袋のアーカイブで一度だけ目にした
『禁忌の知識』が閃光のように駆け巡った。
それは人類が美食の果てに行き着いた、ある種の極致。
あるいは、生物としての生存本能が拒絶する『腐敗と発酵の境界線』。
「……これだ。これがあったか」
シオンは震える手で、その歪な金属の塊を一つ掴み取った。
ずっしりと重い。
そして、まだ封を切っていないというのに、
容器の継ぎ目からは『この世のものとは思えない不吉な予感』が漂い出している。
「……はは」
だが、シオンは笑った。血塗れの顔で、勝ち誇るように。
「セラ。……出力、出せるか」
『……全壊を免れたサブアームなら稼働可能です。
ですが、マスター……本気ですか?
そのオブジェクトは、論理的な……いえ、倫理的な意味で危険です』
「十分だ」
シオンは立ち上がる。
「……カイザーの『秩序』を、この三〇〇年熟成のバグでぶち壊してやる」
◇◇◇
瓦礫を跳ね除け、半壊したセラフィオンが地上へと這い上がる。
空では、深紅の機体イプシロンが、獲物を待ち受ける猛禽のように静止していた。
「まだ生きていたか。往生際が悪いな、シオン・グレイス」
カイザーの冷徹な声が降ってくる。
「もはや貴様に『味』を感じる権利はない。
さっさとセラフィナの欠片を置いて逝くがいい」
シオンは機体から身を乗り出す。
「カイザー。お前は一つ、致命的な勘違いをしてるぜ」
「……何?」
「食いもんはな……味だけじゃねぇんだよ!」
銀色の缶を掲げる。
「脳ミソに直接叩き込む、剥き出しの刺激なんだ!」
セラフィオンのサブアームが唸りを上げる。
「喰らえ!人類三〇〇年の悪夢を!」
缶が投擲される。
「無意味だ」
イプシロンのブレードが一閃。
――パシュッ。
三〇〇年圧縮された『生命の終焉を煮詰めたガス』が解放される。
世界が、変わった。
腐敗。発酵。地獄。
「な……ッ!?ガ……あぁぁっ!?」
カイザーの声が歪む。
『……何、この刺激……演算不能……!』
タナトスが明滅する。
臭気はフィルターを貫通し、脳へ侵入した。
「鼻が……腐る……!秩序が……!」
『硫化水素、酪酸、アンモニア……毒性、軽微』
沈黙。
タナトスの精密な臭覚センサーが災いした。
ホログラフにノイズが走る。
『なのに、不潔!不潔です!デリート!デリート!』
『不潔不潔不潔不潔不潔不潔不潔不潔不潔!
あは……あははははははははははははははは!!』
タナトスが壊れる。
シオンも吐き気を堪え叫ぶ。
「これが刺激だ!
お前らが無駄だと切り捨てた、人間の汚くて愛おしい暴力だ!」
イプシロンがぐらり揺れる。
「う、うぉ……」
威厳は崩れ落ち、ただの男がそこにいた。
「私の秩序が……!秩序が!!」
『……解析完了。今なら通ります』
「ああ、行くぞセラ!」
セラフィオンが地面を蹴る。
「テリヤキの……怨みだぁぁぁ!!」
左拳が胸部を打ち抜く。
爆発。
イプシロンは後退する。
「覚えていろ……次は必ず……!」
深紅の影は消えた。
◇◇◇
静寂。
三〇〇年の悪夢の残り香だけが漂う。
シオンはハッチから崩れ落ちる。
「……勝った、のか?」
『辛勝です。ですがマスター。今の匂いは解析拒否します』
「……へへ、全くだ」
シオンは立ち上がる。
遠くの地平線にそびえる巨大施設。
レグナス障壁群の残骸。その奥に眠る『シードボルト』。
「次は、旧極地セクターだ」
まだ終わらない。
世界最悪の悪臭の中で、少年は再び歩き出す。
飢えと、回収と、未知の味を求めて。
この腐った世界の果てに、
本当のテリヤキが待っているのかどうかを、
まだ誰も知らない。
明日へ続きます。




