三〇〇年ぶりの朝――核融合のその先で
これは、人類が「味覚」を手放した後の世界の物語です。
※第一章最終話です。
それは、人類が三〇〇年ぶりに経験する「本当の朝」だった。
レグナス中央塔の崩壊から数時間。地下都市を覆っていた巨大な天蓋は完全に剥がれ落ち、そこにはかつての「午後六時の紫」でも「午前六時の青」でもない、刻一刻と表情を変える本物の黎明が広がっていた。
地上の砂漠に不時着したセラフィオンのコクピットから、シオンはふらつく足取りで外へと踏み出した。初めて踏みしめる土の感触。鼻を突くのは、循環システムを通さない、少し埃っぽくて、それでいて瑞々しい「外の世界」の匂いだ。
「……まぶし、すぎんだろ」
シオンは腕で目を覆った。地平線の向こうから、巨大な黄金の塊――本物の太陽が姿を現し、世界を再定義していく。
隣で、少女が小さく喘いだ。
「……。……。マスター……。心臓が、うるさいわ。……。それに、この『空気』っていうのは、……こんなに冷たくて、……おいしいものだったのね」
シオンは隣を振り返り、改めて息を呑んだ。
そこにいたのは、半透明の光るホログラムではない。
乱れたプラチナシルバーの髪、朝日を反射して琥珀色に輝く瞳、そして――寒さに小さく震える、柔らかな「肉体」を持った一人の少女だ。
シオンは、おずおずと手を伸ばした。
指先が彼女の頬に触れる。
柔らかい。そして、驚くほど熱い。
三〇〇年前、アーサー・ゼノフィスが閉じ込めようとした「天使」は、今、シオンの手によって一人の「人間」としてこの地に産み落とされたのだ。
シオンは震える手で焚き火を起こした。
瓦礫から拾い集めた古い木材がパチパチとはぜ、オレンジ色の光が二人の顔を照らす。
彼は、セラフィオンのストレージから大切に持ち出した「最後の一塊の肉」を取り出した。
「お待たせ、セラ……。約束通り、最高の一皿だ」
シオンは、使い古されたフライパンを火にかける。
炎が安定するまで、二人は言葉を交わさなかった。
ジュワァァァァァ……!
肉が焼ける野蛮な音が静寂の中に響き渡る。
シオンはそこに、命懸けで守り抜いた「究極の醤油ソース」を回し入れた。
立ち上る湯気が、セラの鼻腔を直撃する。
彼女は思わず、ゴクリと唾を飲み込んだ。
「……。……。はいよ。世界で一番不格好で、世界で一番美味い、俺たちのバーガーだ」
シオンは、こんがりと焼けた厚いパティをバンズで挟み、セラの手へと握らせた。
セラは、初めて感じる「食べ物の重み」と「熱さ」に戸惑いながらも、それを敬虔な儀式のように両手で掲げた。
そして、一口。
前歯がバンズを突き破り、中から溢れ出した肉汁と、
甘辛い醤油ソースの奔流が彼女の舌の上にある味蕾を爆発させた。
「……!……っ……。……あ……」
セラの目から、一筋の大きな涙がこぼれ落ちた。
甘い。辛い。香ばしい。
そして、その奥にある、わずかな焦げの苦味。
それは「お袋」のシミュレーションには決して存在しなかった、不完全で、残酷で、けれど愛おしい「生命の味」だった。
「……おいしい。マスター……。……。すっごく、すっごく乱暴で……。あったかい味がする」
セラは、口の周りをソースだらけにしながら、ひたすらに食べ続けた。
シオンはそれを見て、ようやく肩の力を抜き、空を見上げた。
それは、美味しい明日の始まりだった。
「……おい、シオン。……セラ。勝手に感動に浸るな」
背後から、ボロボロになったグリードが歩み寄ってきた。
彼は、人間となったセラの姿を見て一瞬だけ言葉を失い、それから照れ隠しのように水筒をシオンに投げ渡した。
「……ふん、血色が良すぎるぞ。セラフィナ……いや、セラ。少しは淑やかな食事というものを覚えることだ」
「お断りよ、シスコン・マスター。私はこれからシオンと一緒に、世界中の『未知の味』を食べ尽くすって決めたんだから!」
セラは不敵に微笑み、グリードに向かってアッカンベーをして見せた。
グリードは呆気に取られた後、ふっと力を抜いて笑った。
「……ネメシス! 西の果てにある『伝説のマヨネーズ』の埋蔵地点を再計算しろ。
この無礼な娘に、本物の『伝統』を叩き込んでやらねばならん!」
『了解、マスター。……やれやれ、実体化しても騒がしさは変わらないようですね。……でも、少しだけ……嬉しそうですよ、お姉様』
遠くでは、エラータウンの住人たちが、朝日の中で力強く立ち上がっている。
ジャックは中華鍋で朝食を作り、ミアは空を見上げて欠伸をし、
リナたちは瓦礫を片付け始めている。
管理された「永遠の平穏」は終わった。
これからは、飢えることもある。争うこともあるだろう。
だが、人々はもう「味のない明日」を恐れてはいない。
「……さあ、行くか、セラ」
「ええ、シオン! 次は……特盛りの、マヨネーズがはみ出すくらいのやつを期待してるわよ!」
少年の空腹は、まだ始まったばかりだ。
プラチナシルバーの髪をなびかせ、少女は少年の手を強く握った。
二人の歩む地平線の先には、まだ誰も知らない、無限の「レシピ」が広がっている。
第一章:完
第一章、最後まで読んでくれてありがとうございます。
人類が三〇〇年ぶりに「本当の朝」を迎えたあの瞬間――いかがだったでしょうか。
ここまで読んでくれたあなたのおかげで、物語も無事に第一章を走り切ることができました。
さて、次章に入る前に少し雰囲気を変えて、ニヤリとできるコメディ回が6話続きます。
「あのキャラクター、こんなことやっちゃうの!?」と小さく笑いたくなったら、
ブクマして後で振り返るのがおすすめです。
読者のみなさんと一緒に、ちょっとした笑いを楽しみながら物語を進めていければ嬉しいです。
※本日21:30に皆さんにちょっとしたバレンタインデープレゼントをご用意しました。




