さよなら、天使の産声
これは、人類が「味覚」を手放した後の世界の物語です。
「お袋」の心臓部であるリアクターがテリヤキの芳香によって「汚染」された瞬間、その影響は全居住区の管理回路へと即座に波及した。
三〇〇年間、人々の生殺与奪を握り続けてきた無機質なシステムが、断末魔のようなノイズを立てて次々とシャットダウンしていく。照明は明滅し、清浄な空気を送り続けていた換気扇は、喉を詰まらせた獣のような異音を立てて停止した。
だが、この混沌の中で最も早く「適応」したのは、システムのバグとして隅に追いやられていた、エラータウンの住人たちだった。
「うわぁぁぁん! 街が、街が真っ暗だぁ! これじゃあスープの灰汁が見えないよぉぉぉ!」
瓦礫の山となった大通りで、泣き虫料理人のジャックが中華鍋を抱えて絶叫していた。
しかし、その足取りに迷いはない。彼は涙で目を腫らしながらも、持ち前の過剰な「悲哀」を燃料に変え、暗闇の中を疾走する。
「ジャック、うるさい。……暗いなら、自分たちで灯を点ければいいだけでしょ」
隣を歩くミアが、気だるげに、しかし確かな手つきでマッチを擦る。シュボッ、と小さな火が灯り、彼女が手に持っていた密造オイルランプに引火した。
その光に照らされたのは、彼らだけではない。感情のバグを抱え、社会の歯車になれなかった「不良品」たちが、それぞれに武器や調理器具を手に取って集まっていた。
「おい、見ろよ……天井が……割れてやがる」
誰かが指差した先。三〇〇年前の遺物である巨大な鉄骨の隙間から、冷たくも命の気配を感じさせる「本物の月光」が差し込んでいた。
住人たちは、三〇〇年ぶりに「空」を見上げた。
「シオンの野郎……本当にやりやがったんだな」
その時、背後の闇から不気味な駆動音が響いた。心臓部を失ってもなお、残存するサブシステムに縛られた自律型防衛ドローンの群れだ。
「ちっ、しつけーな。お袋の説教はもう聞き飽きたんだよ!」
ジャックが中華鍋を構えた瞬間、頭上から一筋の漆黒のレーザーが降り注いだ。
ドローンの一群が一瞬で蒸発し、砂塵を巻き上げて巨大な影が着地する。
「……騎士道に悖る、無粋な機械人形共め。……今の私は、極めて機嫌が悪いのだ」
執行官グリード・ゼノフィスだった。
彼の愛機〈オメガ〉は、先ほどの死闘で装甲の大半を失い、内部のフレームを剥き出しにしている。だが、その眼光は以前の冷徹な管理者のものではなく、獲物を狙う誇り高き狼のそれであった。
『マスター。……補足します。正確には「機嫌が悪い」のではなく、「空腹による血糖値の低下で、極めて攻撃的なポエムしか思い浮かばない状態」です』
ネメシスの冷徹なツッコミが響く。
「黙れネメシス! ……エラータウンの民草よ、シオン・グレイスは今、最上階で『世界の味』を繋ぎ止めた。……この場は、私が、いや、我ら騎士団が食い止める!」
「……騎士団って、あんた一人じゃない」
ミアがジト目で指摘するが、グリードはボロボロのマントを翻して胸を張った。
「一人ではない! 私の胸の中には、奴に叩き込まれた『テリヤキの衝撃』が、不滅の灯火として燃えているのだからな!」
それは狂気にも似た宣言だった。
だが、住人たちには何よりの激励に聞こえた。
「味」を知った人間は、もう、ただの部品には戻れない。
「よっしゃあ! 腹ペコの意地、見せてやるぜぇぇぇ!」
地下三〇〇メートルの奈落で、最も人間らしい反乱が火蓋を切った。
一方、崩壊する中央塔の頂上。シオンとセラは、崩れゆく床の上で対峙していた。
『マスター……お袋のメインサーバーが完全に沈黙しました。……ですが、これにより、都市を支えていた重力制御も一時間以内に全停止します。……このレグナスは、崩壊します』
セラのホログラムが、これまでにないほど激しいノイズに塗れながら告げる。
「……へっ。望むところだ。メニューのないレストランに行くようなもんだろ。何が出てくるか分からない方が、ワクワクするぜ」
シオンは笑い、消えゆくセラの半透明の手を握ろうとした。だが、指先は虚しく空を切る。
『……警告。……塔の崩壊に伴い、私のメイン・ストレージへの接続が断絶されました。……現在、私はあなたの義手にあるバックアップ・チップのみで稼働しています……。残存電力、〇・〇一%。……さよなら、……シオン』
「ふざけんな! セラ、勝手に消えるんじゃねえ! まだ、本物のテリヤキを食わせてねえだろ!」
――返事はなかった。
また、大切なものを失うのか!?アリシアの面影が脳裏をよぎる。
その時、リアクターから溢れ出した膨大な情報生命エネルギー「エーテル・リンク」が、シオンの絶叫と、セラの中に残る「セラフィナの記憶」に激しく反応した。
お袋が三〇〇年かけて蓄積した、人類のあらゆる生理データ。
それが逆流し、セラの電子人格という「設計図」を核にして、
周囲のナノマシンを強引に再構成し始めたのだ。
光の渦の中で、セラの絶叫が響く。
それはエラー音ではなく、生命が産声を上げる時の、生々しい震えだった。
『……何、これ……冷たい……痛い……重い……私の回路が、「熱」を感じている?』
光の粒子が寄り集まり、骨を作り、筋肉を編み、血管を走らせる。
そして、三〇〇年前に失われたセラフィナの遺伝子情報を元に、プラチナシルバーの髪を持つ一人の少女が、シオンの腕の中に「質量」を伴って現れた。
次回、第一章最終話です。ここまで読んでくださり、ありがとうございます。
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最終話。明日21時00分にお会いしましょう。




