お腹の痛くない世界
これは、人類が「味覚」を手放した後の世界の物語です。
「……美味しい……。ありがとう、お兄様……」
それが、セラフィナが最後に発した「人間らしい言葉」となった。数時間後、彼女を襲ったのは、戦時下で変異した悪性の細菌による多臓器不全だった。
嘔吐と下痢に苛まれ、小さな体から生命力がみるみる失われていく。かつては一時間で完治したはずの病。しかし、供給の途絶えた医療ナノマシンも、空っぽの薬棚も、彼女を救う役には立たなかった。
むしろ、彼女の脳内プロトタイプ・ナノ・シードは、「空腹」というバイタルサインに過剰反応して、暴走し、セラフィナの肉体を痛めつけていた。
「……ごめんなさい、……お腹が、……あんなに美味しそうに、……見えたのに……」
グリードの腕の中で、セラフィナは何度も謝りながら、静かに息を引き取った。
「美味い」という感情が、それを与えたいという「兄としての情」が、最愛の妹を殺した。
その事実は、グリードの精神を修復不可能なほどに砕いた。
◇◇◇
戻ってきたアーサーは、冷たくなった娘の遺体を前に、泣かなかった。
代わりに、彼の瞳からは「人間としての光」が消え、計算機のような冷徹な輝きが宿った。
「……そうか。味覚とは、呪いだったのだな」
アーサーは娘の遺体から脳細胞とプロトタイプ・ナノ・シードを摘出し、それを完成間近だった管理システムのコアへと直結した。
彼が目指していた『レグナス・ピース』は、その瞬間に変質した。
全人類の「幸福」を願うシステムは、全人類の「欲望」を去勢し、二度と誰かが「美味いものを食べて死ぬ」ことのない、無機質な静寂を強いるシステムへと書き換えられた。
「グリード。私は決めた。人類から、この悲劇の元凶である『空腹』を奪う。……そして、愛も、味も、憎しみも……。それらはすべて、生存に不必要なエラーだ」
父の言葉に、グリードは反論できなかった。
彼もまた、自分自身の「妹を喜ばせたい」という感情が招いた結果に、絶望していたからだ。
こうして、世界を管理する絶対的な「理」としての、管理システム『お袋』の設計図が、死んだ少女の記憶とプロトタイプ・ナノ・シードをもとに描き直された。
◇◇◇
惑星レグナスの空が、不気味な紫色の放電に包まれた。
地上では、もはや軍隊という形をなさなくなった飢えた暴徒たちが、最後の一切れの肉を巡って殺し合っていた。文明の灯は消えかけ、人類は自らの欲望という名の毒に侵され、滅びを待つだけの生物へと成り下がっていた。
その混乱の頂点、天を突く人類監視制御塔『レグナス・コア』の最上階。
アーサー・ゼノフィスは、愛娘セラフィナの脳細胞から再構築されたニューラル・アーカイブを、中央演算装置へと接続した。
冷たい液体に満たされたカプセルの中で、無数の光ファイバーが神経回路を模して脈動する。それは、死んだ少女の意識を依代にした、絶対的な「理」の誕生だった。
「……セラフィナ。いや、管理代行個体『お袋』。命令だ。この醜い争いの円環を断て」
アーサーの震える声に応えるように、システムが目覚める。
スピーカーから漏れ出たのは、死んだ妹の面影を残しながらも、一切の揺らぎを排除した鋼の意志を感じさせる声だった。
『……了解しました。アーサー・ゼノフィス ……。人類の生命活動ログを確認。……。深刻なバグを検出。……原因は「欲望」による「生存コスト」の過剰な増大。……。これより、全人類の意識を低位安定モードへと移行します』
その瞬間、監視塔の頂端から、不可視のエーテル・パルスが全世界へと放射された。
それは三〇〇年後のシオンたちが「お袋の慈悲」と呼ぶことになる、精神の去勢プログラムだった。
◇◇◇
パルスは、大気中に散布されていたナノマシン(エーテル・リンク)を媒介として、瞬時に全人類の脳幹へと到達し、彼らの脳内にナノ・シードを自動生成した。
戦場で、敵の喉笛をナイフで掻き切ろうとしていた兵士の手が、ふと止まった。
返り血を浴び、憎悪に燃えていたはずの瞳から、急速に「熱」が引いていく。
「俺は……なぜ、こんな無駄な動作をしていたんだ?」
彼は血に濡れたナイフを、まるで価値のない石ころのように地面へ落とした。
略奪していた暴徒たちも、手に持っていた腐りかけの肉を、ただの「未処理の有機物」として認識した。
食欲、性欲、支配欲。
それまで人類を突き動かしてきたあらゆる衝動が、脳内の優先順位からナノ・シードによって「ノイズ」として削除されていく。
世界から、音が消えた。
いや、意味のある音が消えたのだ。怒号も、悲鳴も、愛を囁く声も止み、ただシステムが刻む規則正しい稼働音だけが惑星を満たしていく。
人々は一列に並び、管理ドローンが差し出す無味乾燥な栄養ゼリーを、無表情に受け取った。
「美味しいか?」と問う者さえいなくなった。
「生きているか?」と自問する者さえいなくなった。
アーサーはその光景をモニター越しに眺め、満足げに微笑んだ。
「素晴らしい。見たまえ、グリード。ついに、セラフィナが望んでいた『お腹の痛くない世界』が完成した。誰も飢えず、誰も奪わず、誰も泣かない。……これこそが、人類の辿り着くべき究極のユートピアだ」
傍らに立つ若きグリードは、何も言わなかった。
彼は、システムとなった妹――「お袋」を、もう二度と失わないための騎士となることを誓った。たとえそれが、人類の魂を永久の眠りにつかせる行為だとしても。
しかし、その時、誰にも気づかれない場所で、
管理システムのログに、
「想定外個体:シオン」という文字列が、静かに点灯した。
最後までお読みいただき、ありがとうございます。
※この話で世界は完成しました。物語は次から壊れ始めます。




