バベル・コアの聖域。―偽りの晩餐と、母の微笑―
これは、人類が「味覚」を手放した後の世界の物語です。
その時。
混乱で逃げ惑っていたはずの市民たちが、足を止めていた。
お袋のドローンたちは、パニックを鎮圧するために「排除」を命じている。だが、市民たちの目は、ドローンのレンズではなく、目の前で泥まみれになって戦う二人の男に釘付けになっていた。
「……あいつら、何であんなに必死なんだ?」
「……わからない。……でも、あいつら、……お袋様の命令じゃなくて、自分の足で動いてる」
一人の市民が、自分の胸に手を当てた。
そこには、シオンが以前に街で配った(あるいは奪い合った)テリヤキの匂いが、かすかに記憶として残っていた。
ナノ・シードが、その「不純な記憶」をエラーとして消去しようとする。だが、雨に打たれ、目の前の熱い戦いを見ている彼らの脳は、もはや「静寂」を拒んでいた。
「……頑張れ。……死ぬな!」
誰かが呟いた。
それは、管理社会において最も不必要で、最も強力な「声」だった。
その声は、瞬く間に連鎖した。
「頑張れ」「負けるな」「空腹を見せてやれ!」
――抑え込まれてきた欲求を、初めて叫ぶように。
お袋の計算には存在しない、数万人分の「応援」という名のノイズ。
『……!マスター……。信じられません……。地上のエーテル・ライン・ネットワークから、……膨大な量の「ポジティブ・フィードバック」がセラフィオンに逆流しています……。市民たちのナノ・シードが……。あなたの味方をしている!』
「……。へへっ……。みんな、やっぱり、……腹、減ってんじゃねえか!!」
シオンの義手が、最後の光を放った。
それは『お袋』の管理信号を完全に上書きする、地上の全市民の「意志の光」。
シオンの拳が、グリードの胸元に吸い込まれた。
――ズドォォォォォォォン!!
グリードの身体が大きく後方へ飛び、池の縁に崩れ落ちた。
勝負は、決まった。
グリードは、大の字になって夜空を見上げた。
暗雲の切れ間から、ホログラムではない月が顔を出している。
「……私の負けだよ、シオン……。私の『正義』は……この雨の一粒すら……救えなかった」
「……正義なんて、ハァハァ……腹が膨れてから考えろ……生きてりゃ……いつか……美味いもんが食えるんだからよ」
シオンは、グリードに手を貸すことはしなかった。
ただ、彼に向かって、自分の義手を突き出し、親指を立てた。
その瞬間、街の中央にそびえ立つ「中央制御塔」が、激しい振動と共にその根元のゲートを開放した。
お袋が、ついに「息子」であるシオンを、その内側へと招き入れたのだ。
『……マスター、行きましょう……。物語の隠し味を……暴く時が来ました』
「お袋のやつ、さっきは、わざと助けやがった。俺たちに何か話があるらしいな……」
シオンは泥を払い、重い足取りで塔へと向かう。
背後には、意識を失ったグリードと、彼を必死に解析し続けるネメシス。
そして、雨の中で立ち上がり、自分たちの運命を直視し始めた市民たち。
空中市街戦は、一つの終わりを迎え、物語はついに、すべての真実が眠る塔の心臓部へと突入する。
中央監視制御塔「バベル・コア」の巨大なゲートが、重低音を響かせながら背後で閉まった。一瞬にして、外の世界の喧騒――雨の音、市民の叫び、ドローンの駆動音――が完全に断絶された。そこには、耳が痛くなるほどの「完璧な静寂」が支配する世界が広がっていた。
「……。……。なんだ、ここは。……。……。塔の中ってのは、もっとこう……機械がぎっしり詰まった、工場みたいな場所だと思ってたぜ」
シオンは、セラフィオンのコクピットから降り、生身の足でそのフロアに立っていた。
床は曇り一つない白大理石。壁には三〇〇年前に飾られたルネサンス期を彷彿とさせる壮麗な絵画が並び、天井からは柔らかなシャンデリアの光が降り注いでいる。
だが、そこにあるのは生活の気配ではなく、博物館のような「死んだ美しさ」だった。
『……マスター、警戒を……この空間の空気組成をスキャンしました。酸素、窒素、二酸化炭素の比率が、ほぼ一〇〇%の精度で「理想的な森林地帯」を再現しています。……。微塵の塵埃も、細菌も存在しません……。ここは「お袋」が定義する、地上で最も清浄な聖域です』
セラのホログラムが、シオンの肩に乗るようにして現れる。彼女の姿も、塔内の高密度なエネルギー供給を受けて、かつてないほど鮮明に、実体に近い質感を持って輝いていた。
「……清浄、か。……。反吐が出るぜ。……俺の義手の油の匂いすら、ここでは罪悪感を感じるほどだ」
シオンは奥へと進んだ。
すると、広大なホールの中心に、一つの「食卓」が見えた。
そこには、三〇〇年前の豪華なディナーセットが並べられ、中央には湯気を立てる七面鳥のローストや、瑞々しいフルーツの盛り合わせが置かれていた。
「……。……。おい、セラ。これ、本物か?」
シオンが思わず手を伸ばそうとした瞬間、セラの鋭い声が飛んだ。
『触れてはいけません!…………それは三次元ホログラムと、物質転送技術による「視覚的報酬」に過ぎません……。食べようとした瞬間に霧散し、代わりに脳内へ「満腹パルス」が送信される仕組みです…………。お袋は、この塔の中で三〇〇年間、終わることのない「偽りの晩餐会」を一人で演じ続けてきたのです』
「……?……? 一人で、だと?」
その時、食卓の主賓席に、一人の女性の影が揺らめいた。
「……あら、おかえりなさい、シオン……。少し、遅かったわね」
その声を聞いた瞬間、シオンの心臓が激しく脈打った。
記憶の奥底、彼を地下に突き落としたあの冷たい顔。
だが、今、目の前にいるのは彼を慈しむように微笑む、若かりし頃の「母親」の姿をした思考体だった。
『……緊急通知。マスター。
本機の累積演算ログが、間もなく「1,000」という重要な閾値を突破します。
かつての高級居住区でも、これほど熱心な視線が注がれることは稀でした。
ですので、本日は「記念処理」として……。
本日19:00、もう一話、記録を公開します。
マスターが「お祝いなら、おかわりが必要だろ?」と、
メインフレームが焦げ付くほどの出力で書き上げた記録です。
よろしければ、数時間後にまた、この熱い場所でお会いしましょう。
……冷める前に、お越しくださいね。
セラでした』
※作者です。
そろそろ累計1000PVが見えてきました。
ここまで読んでくださった皆さま、本当にありがとうございます。
達成したらお祭り気分で【1日2話更新】をやろうと思っています。
よければ、一緒に盛り上がってもらえると嬉しいです。




