汚れた天使の帰還
※16:30更新です。
今日も荒野で肉を焼いてます。
気楽に読んでもらえたら嬉しいです!
地上の様相は、一晩にして混乱の極致へと叩き落とされていた。
昨日まで、そこには「お袋」が丹念に作り上げた、
無機質で清潔な静寂があった。誰もが微笑み、誰もが満足し、
誰もが思考を放棄していた、地上では、昨日まで整然と並んでいた歩道が割れ、
自律清掃ドローンが炎を噴いて転がっていた。
「……はは。……。……地上も、随分と……にぎやかになったもんだな」
セラフィオンの焼け焦げた右腕の振動が伝わるコクピットで、
シオンは口内に溜まった血の混じった唾を吐き捨てた。
そして、焦げた金属の匂いの中で、シオンはふと思った。——腹が減ったな、と。
全天周囲モニターに映し出されるのは、
シオンにとっての「かつての日常」が粉々に砕け散った無残な光景だ。
空の天井が砕け、三〇〇年ぶりの直射日光が街を灼いている。
路地では、ナノ・シードの強制信号に抗えなくなった人々が頭を抱えて
のたうち回り、制御を失った自律走行車が炎を上げて転がっている。
そして、その混乱の渦を「排除」しようと、
空を埋め尽くす赤い監視ドローンの群れが、
無慈悲なレーザーを掃射し続けていた。
『……マスター。状況分析。
……市民の三二%に、回復不能なレベルの精神損傷を確認。
……彼らの脳は、もう二度と「お袋」が保障していた無菌状態の幸福には戻れません。……これが、あなたの望んだ結果なのですか?』
セラの声は冷たかった。
だが、その応答には、通常より0.2秒の遅延があった。
彼女の論理回路は、この甚大な損害を「シオン・グレイスによるテロの結果」として冷徹に計算し続けている。演算領域を埋め尽くす膨大な死傷者リストが、彼女にシオンを「罪人」だと告げている。
「……ああ。……地獄だよな。……でもよ、セラ」
シオンは激痛を堪え、義手の指先でモニターに映る一人の少年を指差した。
少年は泣き叫び、嘔吐しながらも、必死に母の腕を掴もうとしていた。
ある男は、初めて自分で焼いたパンを落として泣いた。
「死んだみたいに笑ってるより、……泣きながら『痛い』って叫ぶ方が、
……ずっと生きてる感じがするぜ。不味いもんは不味い、痛いもんは痛い。……それが人間だろうが」
シオンは前を見据えた。
「お袋! 見てるか!……。お前が隠してた『本当の空』、
……みんなに見せてやったぜ! ……。次は、その塔のテッペンで、
お前の『隠し味』を全部ぶちまけてやる!」
白銀の機体セラフィオンが、琥珀色の火花を散らして加速を開始した。
だが、その背後から追い風のように吹いてきたのは、絶望の叫びだけではなかった。
地下から、地獄の底から這い上がってきたリナ、ニナ、タク、そしてエラータウンの人々の、腹の底からの「自由への叫び」が、目に見えない圧力となって機体を押し上げていたのだ。
エラータウンの人々は逞しかった。
シオンが地下の天井に風穴を開けて以来、彼らの変化は劇的だった。もともとナノ・シードに適合できず、システムから「エラー」と弾かれたはみ出し者たちは、皮肉にもその「不全」ゆえに、お袋の精神操作から目覚めるのも早かった。
彼らはもう、自分自身の感情を抑えることをやめた。
広場では、ある者は笑いたい時に大声で笑い、ある者は昨日までの鬱憤を晴らすように怒鳴り散らした。だが、それは決して無秩序な暴力ではない。彼らをつなぎ止めていたのは、もっと本能的で、もっと根源的な「食」への渇望だった。
ニナとタクは、いち早く行動を起こしていた。
あの旧・物流ターミナルの「箱舟」の残骸から、三〇〇年前の遺産を掘り起こしたのだ。
そこにあったのは、単なる食料の備蓄だけではなかった。
「お兄ちゃん、芽が出たよ! 三〇〇年前の種なのに、こんなに元気!」
タクの声が通信網に混じる。
箱舟の中に保存されていた、何千種類もの植物の種子。そして、最先端の培養ポッドに残されていた家畜の遺伝子情報。
セラの精密な指導と協力のもと、地下の廃熱を利用した人工農園が、一気に生命を吹き返していた。
豚の鳴き声が響き、鶏が走り回り、牛が悠然と反芻する。かつてこの箱舟を計画した者たちは、この星に見切りをつけ、新天地で「本当の食生活」を再建しようと本気で願っていたのだろう。
鉄と油の墓場だったエラータウンは、今や生命が爆発する「緑の揺り籠」へと変貌を遂げようとしていた。
「奇跡じゃない。ただ、全員が必死だっただけだ……。これに、あのマスター・シェフの幻のレシピが加わったら、一体どんな『味』になっちまうんだろうな」
シオンは、口元に笑みを浮かべた。
地上の管理社会から見れば、彼らはただの「汚染された不良品」だ。だが、その不良品たちが今、システムからの洗脳を完全に断ち切り、自分たちの足で大地を踏みしめ、次々と地上へと這い出してきている。
お袋の構築した「無菌のユートピア」にとって、これ以上の脅威はないだろう。
泣き、笑い、そして何よりも「美味いものを食いたい」と願う人間という名の不確定要素が、管理の鎖を食いちぎり始めたのだ。
この変化はもう、誰にも止められない。
シオンとセラの物語は、救われた人々の祈りと、
奪われた人々の叫びをすべてその肩に乗せて、未知なる空の下へと走り出す。
「行くぜ、セラ。……『お袋の味』を書き換えるためにな!」
『……。了解、マスター。……。あなたの非論理的なわがままに、最後までお供します』
セラの声に、わずかな、だが確かな「自負」が混じった。
セラフィオンは琥珀色の翼を広げ、本物の青空を切り裂いて、
そびえ立つ管理塔へとその切っ先を向けた。
読んでいただきありがとうございます!
今回より、第一章の終わりに向けて物語が大きく動きます。
この物語は閑話、サイドストーリーを含め第2章・第3章まであります。
明日も16:30更新予定です。
よければブクマして続きを待ってもらえると便利になります。




