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その味は、祈りだった

これは、人類が「味覚」を手放した後の世界の物語です。


プラント内に、重く低い振動が走った。

鉄と油の匂いが、わずかに震える。


『……合格だ』


マスター・シェフの無数のアームが、生き物のようにうごめいた。


『知識は器に過ぎぬ。情熱は燃料に過ぎぬ。……だが、「誰かのために」という願いこそが、味を完成させる「スパイス」だ。……よし、若造。貴様に最後の試練を与える。……このプラントに残る、最後の一セットの「本物の材料」を使って、最高のテリヤキを作ってみせろ』


プラントの中央にある、巨大な石造りの調理台に火が灯った。

それは、地上の「お袋」が管理する無菌の熱源ではなく、古臭くて荒々しい、本物の「火」だった。

シオンはセラフィオンを降り、慣れない手つきで調理台に立つ。 目の前には、厳重に冷凍保管されていた極上の肉、そしてセラの計算によって正確に配合された「テリヤキソース」の原材料が並んでいた。


「……セラ、指示をくれ。温度管理、一ミリ単位で狂わせるなよ」


『了解しました。……マスター、あなたの心拍数を四二%下げなさい。手の震えは風味を損ないます。……火加減は、私のレーザースキャナーでリアルタイムに補正します。……行きますよ。……三、二、一、……点火クッキング・スタート!』


ジューッ、という激しい音が、静まり返ったプラントに響き渡った。 醤油が焦げる芳醇な香りが、一気に空間を満たす。


『……醤油の揮発成分、想定を三%上回っています。シオン、あと〇・五秒早く肉を裏返しなさい!』

「うるせえ! 俺の“腹の勘”は、焦げが歌ってるって言ってんだよ!」

『……非論理的な比喩ですね。……ですが、脳波の快楽中枢が急上昇。――続けなさい!』


毒舌と怒号が飛び交う、異様な「戦場」。

だが、その光景を見守るマスター・シェフの電子眼には、どこか慈しみのような光が宿っていた。


一方、損傷したイプシロンを修復ドックに入れたカイザー・オルグレイとタナトスは、薄暗い自室で二人、己の手に残る「熱」を見つめていた。


「……あれは、何だったのだ」


『解析不能……。私のストレージには該当する項目はありません』


セラフィオンが放った、琥珀色の輝き。 それは、彼が「お袋」から教わった「不純な欲望」という言葉では片付けられない、圧倒的な生の肯定だった。


『……マスター。心拍数の乱れを検知。精神安定剤の投与を推奨しますが?』


パートナー戦闘AIのタナトスが、無機質な、それでも心配げな声をかける。


「……いや、不要だ。……タナトス、かつての記録を検索しろ。……人類が「味」を捨てた本当の理由は、争いを止めるためだけだったのか? ……あるいは、我々が「守らされている」今の平和は……」


カイザーは言葉を飲み込み、「お袋」(システム)からの教えを思い出していた。「情動は不安定なノイズに過ぎない」「理性こそ善」「喜びの裏には誰かの不幸がある」「情動は管理されてこそ価値がある」論理的には間違いなどないはずだ。だが、一度芽生えた疑問はなかなか心の中から去ろうとはしない。


「……煮えたぎる紅いの衝動。……舌の上が、熱い。……あれは、呪いか。……それとも、失われた「祈り」なのか」


その時、カイザーの通信端末に「お袋」からの最優先緊急指令プライオリティ・ワンが入った。


【廃棄プラントを完全に消滅させよ。

レシピ・データの回収は不要。全リソースを破壊に回せ】


「……全リソースを、破壊に?」


その言葉が部屋に落ちた瞬間、空調の音さえ止まった気がした。

世界が静かに、何かを見限った。


『大丈夫ですか?……マスター・カイザー』


タナトスの声に、カイザーの瞳が、一瞬だけ揺れた。


◇◇◇


「……できた。……これが、俺たちの……『テリヤキ』だ」


シオンは、震える手で皿を差し出した。

こんがりと焼き色のついた肉の上には、琥珀色のとろりとしたソースが美しく輝き、立ち昇る湯気は甘く香ばしい、暴力的なまでの多幸感を放っている。


『……成分解析完了。……完璧です。三〇〇年前の黄金比を完全に再現しています』


セラのホログラムが、その皿をじっと見つめる。彼女の瞳には、いつもの冷徹な計算式ではなく、初めて見る「憧憬」の色が浮かんでいた。


「食えよ、セラ。お前の演算がなきゃ、この味にはならなかった。……俺たち、二人でこれを作ったんだ」


『……私はAIです。物理的な摂取は……』


セラの言葉を遮るように、シオンはスプーンを取った。

空気が止まる。

熱と香りが、世界の重力を奪う。

そして、彼はゆっくりと一口を運び――目を閉じた。


「……あ…………うめぇ。……うめぇよ、セラ……!!」


シオンの脳内を、爆発的な情報が駆け巡る。

甘みが舌を包み込み、醤油の塩気が肉の旨味を極限まで引き立てる。

焦げたソースの香りが鼻を抜け、それは「お袋」が提供する栄養ペースト(泥)とは正反対の、「生きているという実感」そのものだった。


『……マスターの情動回路、測定不能なレベルまでオーバーロード。……熱い。……私も、あなたの回路を通じて、この「味」を感じています。……これが、人が守ろうとした……「幸せ」の正体なのですか?』


セラの頬を、光るプログラムの残滓が、涙のように伝い落ちた。

シオンはひたすらに食べた。まるで一口一口を後悔しないように、ただ、ひたすらに……。

その味は、祈りだった。

AIと人間が初めて“同じ幸福”を味わった、夜明けの祈り。

次回、続きます。

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