琥珀の誓い―マスター・シェフの目覚め―
これは、人類が「味覚」を手放した後の世界の物語です。
静寂。
セラのホログラムがわずかに揺れた。
『……シオン。……一つだけ……一つだけ方法があります』
セラの声が、一瞬だけ揺らいだように聞こえた。
「方法……? 教えてくれ、セラ。あのレシピを解凍できるなら、なんだってやる」
『……私の演算リソースの一部を、あなたの「右腕(義手)」を通じて、脳内の情動回路と直結させます。……私はAIですから、幸福な「記憶」は持っていません。ですが、あなたが過去に「テリヤキ」の幻影を追い求めた際に生じた、脳内のスパイク……その残響を、私が「本物の幸福」にまで増幅・偽装します』
「……そんなことできんのか?」
『……極めて危険です。脳に直接、演算負荷を流し込みます。……最悪の場合、あなたは「テリヤキの夢」の中で一生目覚めないかもしれません。……でも、私も、見てみたいのです。……あなたが見る“美味しい世界”というものを。……それでも、やりますか?』
シオンは短く笑った。
「決まってんだろ。……俺がこの手で、本物のソースを煮込むまでは、死んでも死にきれねぇよ!」
『了解しました。……マスター。……「美味しい」という概念が、本当に存在すると信じるあなたの非論理性を、今だけ、私の計算式の中心に据えます』
セラのホログラムが、シオンの背後から彼を包み込むように重なった。 冷たいはずのAIの身体が、なぜか一瞬、ひどく熱く感じられた。
「……ぐ、あぁぁぁぁぁぁっ!!」
シオンの脳内に、爆流のような情報が流れ込んだ。 それは記憶ではない。セラがシオンの「渇望」を元に再構成した、数千通りの「味のシミュレーション」だ。
焦げた醤油の香ばしさ。 黒糖の深い甘み。 生姜の微かな刺激。 それらが肉の脂と混ざり合い、熱々の鉄板の上で踊る音——。
「……これだ。……これが、俺たちが失った……『情動』か!」
シオンの右腕、情動増幅回路が、限界を超えた熱を発する。 そのエネルギーがサーバーへ流れ込んだ瞬間、モニターのロックが砕け散った。
【認証完了。……レシピ・データを解凍します】
と同時に、セラフィオンの機体色が変貌した。 これまでの無機質な黄金色ではない。より深く、より温かみのある、まるで熟成されたソースのような琥珀色——「バーン・アンバー」へと。
「……何をした、シオン君! その不浄な光は……!」
『解析不能、何!?この光は……』
動揺するカイザーとタナトス。
シオンは琥珀色の光を纏い、地を蹴った。そのスピードは、先ほどまでの比ではない。
「……お前に教えてやるよ。カイザー・オルグレイとやら……。レシピってのはな、ただのデータじゃねぇんだ。……誰かが誰かのために、最高に旨いものを食わせようって思った……『意地』なんだよ!」
セラフィオンの右拳が、琥珀色のエネルギーを纏って巨大な質量へと膨れ上がる。
「……セラ! 出力を全開にしろ! デザートは後回しだ!」
『……言われるまでもありません。……出力三〇〇%開放。……噛み締めなさい、広域殲滅執行官カイザー・オルグレイ。そして、タナトス。これが「味」を知る者の……一撃です!』
シオンの拳が、琥珀の閃光を引き裂きながら、イプシロンの弾幕を――粉砕した。
空間が、まるでソースを煮詰めるように“焦げた”。
『マスター・カイザー。セラフィオンのエネルギー計測値が三倍以上に跳ね上がっています。これ以上の戦闘続行は危険です』
イプシロンの戦闘AIタナトスが叫ぶ。しかし、その判断はすでに遅かった。
琥珀色の輝きを放つセラフィオンの一撃に、広域殲滅執行官カイザーとタナトスのイプシロンは撤退を余儀なくされた。静寂が戻ったプラントの最奥。シオンが解除したレシピ・サーバーの奥から、予備電源の作動音が響いた。
暗闇が、低く鳴動した。
まるで巨大な竈が再び息を吹き返すように。
ゆっくりと、一つの「影」が浮かび上がる。
それは人型ではなく、無数の調理アームと複数の電子眼を備えた、円筒形の自律防衛ユニットだった。
『……生体反応を確認。……味蕾への刺激を司る脳波パターン、著しく不安定。……論理的思考力、低。……空腹指数、極大』
「なんだ、こいつ……。まだ敵がいるのか?」
シオンは警戒し、セラフィオンの右拳を構える。
『……待ってください、マスター。……この個体からは、攻撃的なプログラムではなく、管理・維持用の古いプロトコルを感じます。……彼は、このプラントの主です』
セラの言葉に応えるように、
その巨大な影——アーカイブAI『マスター・シェフ』の電子眼が赤く点滅した。
『私は、プロジェクト・アンバーの最終管理者。……三〇〇年前、人類が「最後の晩餐」を終えた後も、レシピが再び「望まれる時」を待つよう命じられた者だ。……若造。貴様は、このデータを持ち帰ってどうするつもりだ?』
「決まってんだろ。本物のテリヤキを作って、この腹にぶち込む。それから……」
シオンは隣に浮かぶセラのホログラムをちらりと見た。
「……こいつにも、食わせてやる。こいつが、俺が作るのを手伝うって言ったんだ」
『……了解しました。……マスター。……では、私はその時、あなたの隣で“味覚”を観測します』
セラの声は、わずかに震えていた。
その答えに、マスター・シェフの電子眼が、するどい光を放った。
次回、続きます。




