琥珀の遺産―レシピの眠る真鍮色の心臓部―
これは、人類が「味覚」を手放した後の世界の物語です。
「……セラ、俺はもうダメだ。今度こそ、俺の人生のハッピーエンドが見えた。……目の前で、巨大なテリヤキバーガーが、俺に『こっちにおいで』って手招きしてやがる……」
シオン・グレイスは、煤けたコンクリートの壁に背を預け、虚ろな目で地下通路の天井を見上げていた。
『マスター、その「ハッピーエンド」は、医学用語では「栄養失調による幻覚」と定義されます。あなたの網膜が捉えているのは、ただのひび割れた配管と、三〇〇年分の埃が堆積した排気ファンです。テリヤキの要素は、あなたの脳内の汚染されたストレージ以外、どこにも存在しません』
シオンの脳内に、いつもの冷徹で、そして透き通るように美しい声が響く。自律思考型管理AI、セラ。彼女のホログラムがシオンの鼻先に浮かび上がり、呆れたように銀色の髪をかき上げた。
「……うるせえよ。俺の義手がな、さっきからカチカチ鳴ってんだよ。これは『近くに最高にヤバい獲物がある』って、俺の胃袋にダイレクトに通信を送ってきてる証拠なんだ」
シオンは右腕——鈍くプラチナシルバーに光る義手を持ち上げた。それは、「お袋」が支配する地上で、テリヤキバーガーの香りに惹かれて地下へ転落した際、セラフィオンを起動させるための「鍵」として彼に与えられたものだ。
今、その義手は確かに、微かな熱を帯びていた。
『……。……否定できませんね。私の外部スキャナーにも、奇妙な反応が入っています。この大深度地下街、「エラータウン」のさらに外縁部。……本来、管理システムの記録上では「完全に封鎖された廃棄プラント」のはずのエリアから、微弱な……かつ、極めて不規則な熱源を感知しました』
セラの瞳が、一瞬だけ鋭い演算光を放つ。
「熱源……? それって、旨いもんを焼いてる熱か?」
『……。あなたの脳細胞は、熱力学を「調理」としか認識できないのですか? ですが、その不合理な推論も、あながち間違いではないかもしれません。……この先にあるのは、三〇〇年前の「自動調理・備蓄複合プラント」。……人類が味覚を奪われる直前まで、最先端の「食」を研究していた場所です』
その言葉を聞いた瞬間、シオンの目に、戦闘時以上の鋭い光が宿った。
「……それ、早く言えよ、セラ! 研究施設ってことは、そこには……あるかもしれないんだな? 『本物』の、テリヤキソースの正体が!」
『成功率は〇・〇〇三%以下です。ですが、現在の劣悪な栄養状態を放置し、あなたが餓死して私の再封印が早まるよりは、そのわずかな可能性に賭ける方が、私の論理回路においては「マシな選択」と出力されました。……行きますよ、マスター・テリヤキ。……その「脂っこい期待」を、機動力に変換しなさい』
シオンはセラフィオンを「隠匿モード」で起動させ、闇に沈む地下通路を進んだ。 厚さ一メートルの防壁を、義手のハッキング機能でこじ開ける。そこにあったのは、地上の「清潔な白」とも、地下の「錆びた茶」とも違う、くすんだ真鍮色の世界だった。
「……なんだこれ。デカい鍋が、山ほど並んでるみたいだ」
シオンが息を呑む。 広大な空間を埋め尽くしていたのは、複雑に絡み合うパイプラインと、巨大な加圧タンクの群れ。かつて、この場所で何千、何万という人々のための「幸福」が煮込まれていた名残だ。
『ここは、かつての食料生産の心臓部。……そして、現在、私たちが「お袋」と呼んでいるシステムが、最初に「整理」の対象とした場所です。……見てください。どのタンクも、レーザーによって徹底的に破壊されています。「味」という名の多様性を、一律の「効率」に変換するために』
セラの言葉通り、施設は無惨に破壊されていた。しかし、最奥部。 厳重に閉ざされた一画だけが、奇跡的に戦火と時間の腐食を免れていた。
そこには、錆び一つない白銀のサーバーケースと、その横に置かれた、古風な「石造りの炉」のような装置があった。
「……あれか?」
シオンが歩み寄る。義手が、これまでになく激しく脈動した。カチカチカチカチッ。警告音に近いその音は、もはや歓喜の悲鳴だった。
サーバーのモニターには、掠れた文字でこう記されていた。
【PROJECT〈AMBER〉:究極のテリヤキソース・最終配合レシピ】
「……あった。……本物だ。……『お袋』のシミュレーションじゃない、三〇〇年前の人間が、本気で旨いって笑い合ってた時代の……最後の欠片だ!」
シオンの手が、震えながらコンソールに伸びる。
『……待ちなさい、マスター。……嫌な予感がします。このデータ、ただのパスワードでは保護されていません。……「情動同期型・生体認証ロック」です』
「なんだよ、それ。俺が旨いって思えば開くのか?」
『……。もっと厄介です。……「特定の幸福な記憶、あるいは強い愛情を伴う情動データ」が流し込まれない限り、このファイルは永久に解凍されません。……そして、この施設には、もう一つの「不純物」が紛れ込んでいるようです』
セラの言葉が終わるより早く、背後の真鍮色の壁が、一瞬で「深紅」に塗りつぶされた。
次回、続きます。




