閑話2:漆黒の天使は妹の夢を見るか?
これは、人類が「味覚」を手放した後の世界の物語です。
今回もちょっと寄り道です。
エラータウンの地下深くで、
テリヤキの香ばしい匂いが人々の理性を溶かしていた頃。
地上数百メートルにそびえ立つ、塔の直轄区「白亜の司令室」は、それとは対照的な冷たい静寂に包まれていた。
壁一面のモニターには、エラータウン全域のエネルギー動態や人口密度が青白いグラフとなって流れている。そこには、地下の喧騒や油の爆ぜる音、笑い声といった「ノイズ」が入る余地などないはずだった。
「……ネメシス。報告を。あの不届き者たちの動向はどうなっている」
執行官グリードは、寸分の狂いもなくアイロンがけされた軍服に身を包み、重厚な革張りの椅子に深く腰掛けていた。
彼の傍らで、空間を細かく震わせながら漆黒のボディスーツを纏った少女のホログラムが実体化する。
セラの姉妹型AIであり、究極の制圧兵器〈オメガ〉の頭脳――ネメシスだ。
『はい、マスター・グリード。
対象、シオン・グレイスとその同行個体セラは現在、地下エラータウンの廃工場跡に潜伏中。……現在、彼らは『テリヤキ』と称される不合理な化学反応の生成、およびその摂取に夢中になっているようです。熱源探知によれば、その熱量は通常の調理を遥かに超え、一種の儀式に近い熱狂を帯びています』
グリードは不快そうに眉間を指で押さえた。
「テリヤキ……。またあの毒々しい茶褐色のソースか。感情に支配された者の末路だな。腹を満たすためだけに命を懸け、資源を浪費するなど、旧人類が自滅した愚かな歴史をなぞっているに過ぎん。……実に非効率、かつ不衛生だ」
グリードの声は、絶対零度の氷のように冷徹だった。
だが、その冷たい言葉とは裏腹に、彼の視線は手元のプライベート端末に吸い寄せられていた。そこには、軍の極秘資料に紛れて、一枚の「古ぼけた画像」が表示されている。
解像度が低く、ノイズの混じったその画像には、まだ幼い少年時代のグリードと、彼の手を引く小さな妹の姿があった。二人の手には、管理社会では決して許されない「甘い菓子」の包み紙が握られている。
『マスター。……あなたの心拍数が〇・五%上昇。同時に発汗量が増加し、視線は画像フォルダ『亡き妹との追憶』のインデックス番号〇〇四に固定されています。論理的に分析すれば、あなたは今、強いノスタルジーによる精神的混乱状態にあります。……非常に非理性的です』
「……っ! 黙れネメシス!
これは、敵であるシオンたちの心理を理解するための、高度な精神分析だ。過去の遺物に執着する愚かさを、身をもって再確認しているに過ぎない」
『左様ですか。では、その分析に没頭するあまり、私の機能チェックを怠るのはいかがなものでしょう』
ネメシスは無表情なまま、ふわりとグリードの至近距離まで浮遊した。漆黒のリボンが揺れる。
『分析の仕上げとして、私のリボンの結び方を変えていただけますか? 私のアーカイブにある『旧時代育児資料』によれば、あなたの妹君は、右側に大きな輪を作る結び方を好んでいたようです。対象をより深く知るため、再現を推奨します』
「…………。……許可する。あくまで、再現実験のためだ。誤差をなくすためのな」
グリードは顔を耳まで真っ赤に染めながら、手袋を脱ぎ、ぎこちない手つきで空中に手を伸ばした。
ネメシスのホログラムには、最新の触覚フィードバック機能が備わっている。指先に伝わるのは、実体がないはずの、しかし確かにそこに存在する絹のような滑らかな感触。
グリードは震える指先で、丁寧に、そして驚くほど優しく漆黒のリボンを形作っていく。その様子は、冷徹な執行官ではなく、ただ妹を愛した一人の兄の姿そのものだった。
ネメシスはその様子を、感情を読み取らせない瞳で見つめていた。彼女のプロセッサーの中には、姉であるセラへの激しい対抗心が、静かな炎のように燃えている。
(お姉様……。あなたの選んだマスターは、バーガー中毒の、ただの野生児ですが、私のマスターは……ご覧の通り、失われた過去を追いかける重度のシスコンです)
リボンが結び直される。
右側に大きな輪。それは、グリードが守りたかった、けれど守れなかった小さな幸せの形。
グリードは完成したリボンを見て、ふっと一瞬だけ、誰にも見せないような悲しげな笑みを浮かべた。
だが、すぐに彼は鉄の仮面を被り直し、再び椅子に深く腰掛けた。
『マスター。髪の乱れも修正して差し上げましょうか? 非常に非理性的ですが、私の計算によれば、今のあなたの精神状態を安定させるには『家族の温もり』を模した接触が最適解です』
「……余計な世話だ、ネメシス」
グリードは吐き捨てるように言ったが、ネメシスがその細い指先で彼の襟元を整えるのを拒もうとはしなかった。
白亜の司令室。ここは、完璧な秩序を維持するための玉座。けれど、その玉座に座る男と、彼に仕える黒い天使もまた、この不毛な世界で「満たされない何か」を求めてもがいている。
『どうやら、私たち天使の苦労は、どちらがマスターでも絶えないようですね。……ですが、この「非合理」こそが、あなたの強さの源であることも、私は学習済みです』
ネメシスの言葉が、冷たい部屋に静かに溶けていく。
テリヤキの匂いが立ち込める地下も、この清潔で孤独な司令室も。本質的には、何一つ変わらない。誰もが、何かに飢えているのだ。
グリードは再びモニターに映るシオンの反応を睨みつけながら、密かに誓う。
(シオン・グレイス。貴様がその『テリヤキ』とやらで世界を変えるつもりなら……私はこの『秩序』という名の檻で、貴様を、そしてこの世界を迎え撃ってやる。……リボンの結び方を、忘れないうちに、な)
漆黒の天使は、主の心拍数を聞きながら、静かに微笑んだ気がした
『……今のやり取り、記録としては不要だった気もするけれど。
マスターの心拍数が、少しだけ基準値を超えたのは事実ね。
こういう誤差は、今後も増えるでしょう。
それが良いか悪いかは……あなた自身で判断しなさい。
続きは明日16:30。
このログを保存しておくかどうかも、あなた次第よ。』
――ネメシス




