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独白と嘘

 律は寝起きの眠たげな顔で作文用紙を受け取り、目を細めながらゆっくりと読み進める。目を細めるのは寝起きの律の癖だった。

 律は読みながら鼻の奥がツンとするのがわかった。

神様はなんて、なんてひどいことをするんだろう。私は心の底から神を、世界を恨みたくなった。


 私は希代が『逆さ病』なんていうおとぎ話のような不可思議な病気にかかったと連絡が来た時、大声で笑った。だってそんな病気、知らなかったし、普通に考えてあり得なかった。

 全部が逆さ?読み書きが逆さになる?そんな事があってたまるか。そう、思っていた。

 優佳だってそう思っていたはずだった。

 それから律は小馬鹿にしながら、疲れた体を癒すように床でゴロゴロし、ついでのように『逆さ病』について調べた。そして、調べていくうちに血の気が引いてくるのが自分でも分かった。疲れたなんてことを忘れて食い入るように読んだ。

 読む場所を躊躇うことはなかった。だって遺族の言葉しか残っていなかったし、ほとんど「いい子だった」とか「逆さ病にならなければ」とか、書いてあるのは後悔か懺悔、そして死後の幸せを願うものだけだった。大体そういう事を言っておけばいいみたいな風習がある気がして辟易した。

 その他に見つけたのはせいぜい病気の内容や見つけた人の名前。そして治療法がないこと。ほとんど自殺を選んでしまっていること。

「冗談きついって…」

 律は出版社の近くに借りた1LDKのアパートの自室で食い入るように見ていたスマホを投げるように放り、目元に手の甲を当て、乾いた笑いを漏らした。

 すべて、すべて冗談だったらよかった。『ドッキリ大成功!』なんて看板を持って二人が入ってくるのを望んでいた。なのに優佳からも連絡は来ないし、玄関に来る足音もない。ただ希代からのメールに書かれた文が、「元気でね」という最後の一文が、本当のことだと物語っていた。

 勝手にいなくなるなんて許さない。その思いだけが燻っていた。

 一人、辛い思いをして死んでいくなんて、許さない。

 私は体を反動をつけて起こし、放り出したスマホを探す。スマホはソファの脚の下にあった。スマホが放った反動で滑ってしまい、ソファの脚に当たったのだろう。

 律は優佳に一文を送った。

『作らせよう』

 たった一文。何を、なぜ、いつ作らせるのかを考えず、その五文字を優佳に送った。主語も補語も入れたくなかった。


 優佳が連絡をもらった日は恋人の誕生日だった。誕生日プレゼントを渡し、嬉しそうに恋人が笑い、幸せを感じていた時だった。優佳は恋人に断りを入れてからスマホでメールを開き、目を通す。

 宛先は希代からだった。

『ごめん、逆さ病になっちゃったから連絡しなくていいよ。治んないらしいし、大変だから。さようなら』

 たった数文。『大変だから』という言葉は越えられない境界線を引くようで、それ以上踏み込ませてくれないように感じた。希代が『さようなら』と言うのだから、深刻なものなのだろう。

『逆さ病』

 優佳は急いでその病名をスマホで検索した。簡略化された文を流し読みし、大体の内容を把握した時、私は目の前が真っ暗になった気がした。

 こんな不思議な病気があるなんて、知らなかった。しかも治らない。信じられなかった。いや、信じる要素が1つもなかった。

 スマホを持つ手が震え、恋人に「大丈夫?」と心配された。恋人は心配したように顔を合わせ、

「どうしたの?」

 と聞いた。

 優佳はその二言で涙をためていたダムが崩壊したようにとめどなく泣いた。

 恋人はおろおろとしてから、何も聞かずに優佳の頭にそっと手を置き、そっぽを向いた。泣き顔を見ないようするためだろう。優佳はらしいなと思いながら涙が止まるまでそのままだった。

 その翌日、律から『作らせよう』とたった一文だけが送られてきた。何を、どうやって作らせるのかの記述がなく、ただその文だけがスマホに浮かんでいた。

 優佳も律も希代を一人でどこか手が届かない場所に行ってしまうのをとても怖がった。


 『病気』だと判明し、私たちは会わないように、傷つかないように蓋をすることだって出来た。希代にとってはそれが一番良かったのだろう。でも私たちはそんなこと出来なかった。

 すぐに縁が切れるような、生半可な絆ではなかった。

 それから律と優佳は時間ができるとメールでやり取りをした。律は夜に返信し、優佳は昼間に返信する。時間も、寝る時間も正反対の2人が久しぶりに会うことになった。仕事が始まってから互いが互いを気遣って連絡を取らなかったのが嘘のように2人は寝る時間を削ってまでどうなって希代に作らせるかを話し合った。週に一度休みの日に会い、何度も相談し、昔のことに花を咲かせた。そして、希代のことを思い出して目を伏せ、すぐに内容に戻る、を繰り返した。


「作るっていったら何がいいかな」

 どちらかが聞く。その会話は今日の夕飯に何を作ろうか、というニュアンスがあるのではないかと錯覚してしまうような、そんな軽いボールだった。

「さあ?」

「『さあ』って…」

「だって私も初めてだし」

「誰だってそうだよ」

「じゃあ、私たちの得意分野でいいんじゃない?」

「あ、確かに」

 そんな軽い会話で希代に小説を書かせることにした。


 それから、希代と会うまでの期間、逆さ病のことを調べ、どうやって会話をするか、断られた場合の対応を何通りも考え、穴を埋めていった。

 律と優佳は希代へ、一人でどこかに行ってしまわないようにするための足枷となるように、どこか祈りを込めて。

 希代と再会した時、希代のかわり具合に肝を冷やした。昔のどこかのんびりとした雰囲気はあるものの、大切なものをどこかに置いていってしまったような儚い印象を受けた。

 怖い、行かないで。そんな無責任な言葉がどこからともなく口から漏れそうになった。

 ニ人はそんな不安を押し込めるように準備してきた物を取り出して希代に見せ、説明する。断られてしまえば第二、第三の提案も用意してきた。どれだけ罵倒されようとも、迷惑になると言われても、何度も通うつもりだった。

 それが生きるための支えになるのだと信じて。


 それから数ヶ月、運良く希代が小説を書くということを承諾し、昔のような関わりを持つようになって、ホッとした。

 律は希代がご飯を食べるようになって、優佳は本をまた読むようになって、安堵した。

 そして今、希代がペンを握り、颯爽と、しかし恐怖や胸の高鳴りのせいで震えるその手で懸命に何かを書いているのを見てホッとした。一生懸命に文字を紡いでいる時の希代はまだ生きている実感があった。どこかに行ってしまうような、危うい雰囲気は小説を書くという目標に向かっているからか、病室で見たときより目に見えて減った。

 それを律も優佳も、そして家族もホッとした。まだ、私たちが入り込める隙があるのだと、まだ希代が生きたいと思ってくれているのだと思うことができたから。

 希代が時折苦しそうに、私たちを羨ましそうに見ているのに気づいていたのにも関わらず、私たちは何もしなかった。どうすればいいのかわからなかったし、励ましたところで意味がないことは明白だった。


 以前、希代の病室から帰る帰り道、優佳が律に聞いたことがあった。

 『本当に出版できるのか』と。

 律は空を見ながら少し迷った素振りをして『今のところ、無理』と声のトーンを落として言った。

 当たり前だ。素人が病気になったからと言って小説を書いて売れればそれは小説ではなく、ただの報告書。文章が得意だったとしても確実に本になるとは限らない。どれだけ上手くても編集者が売れると信じ、読者が面白いと感じなければ本になることすら難しい時代だ。

「希代に、どう説明するの?」

 律は「いわないよ、なにも。自費出版でも何でも、本を作って一冊を希代、それと私たちが一冊ずつ持っていればそれでいい。別に、私は希代の書いた物語を売ろうとは考えてない」とはっきりと言った。続けて、こうも言った。

「希代の考えは善意が強すぎて、一定の人には毒になるかも知れない。だから、私たちが知っていればいい。悪意の塊が希代に向くのは嫌いだから」

「そっか」

 二人は話し終わると無言で駅まで歩いていった。 

 このことは二人の暗黙の了解で希代へ隠し通す必要のある秘密として共有した。そして、自分たちが案を出したからには最後まで見届けることを夕暮れ時の空と誓った。

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