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 病室に戻り、私はシャーペンと新しい原稿用紙を取り出した。

「誰もが起こるかもしれない、夢物語」

「一人じゃないよ」

「隣にいてくれる人」

「大切がなくても」

「虹の橋を心に描き、人を結ぶ」

「橋は人を結んでいます」

「信用すれば信頼も自ずとついてくる」

 私はいくつもの案を原稿用紙に書き出すが、どれも違う。どれも綺麗すぎるのだ。

 私はなんとなく適当に読んでいく。


「隣にいなくても」


 ある一節で目が止まった。『隣にいてくれる人』と『大切がなくても』が合わさったらしいその文は綺麗事のように見えるが、書けそうだった。

 私は原稿用紙を裏返し、題名を書く。そして頭に浮かんだ言葉をメモのように書き出す。

 浮かんでは消え、浮かんでは消えを繰り返している言葉はとても多く、すべてを書ききれなかった。

 一時間程書いていたのか、集中が途切れ、私は窓を見ると夕方になっていた。

 その時、ベットの隣に両親がいたのに気づいた。

「何書いてるの?」

 そう聞かれるかと思ったのに両親は本を取り出し、どの本を交換するか、と紙に書いて聞いた。

 私はホッとして原稿をそのままに本を何冊か取り出して両親に渡した。両親は本を受け取り、かばんに戻すと頼まれていた原稿用紙とペン、その他に万年筆を買ってきてくれた。

「万年筆は長く使えるからな」

 父はそう書いて恥ずかしそうに笑った。どうやら万年筆は父のアイディアらしい。

「いっぱい使ってね」

 母は楽しそうに話す。この日は看護師が時間だと伝える時まで両親は病室に留まっていた。


 週末、2人の友人がそろって病室に来てくれた。

 私は読んでいた本に栞を挟んで閉じ、本棚に戻す。

 そして2人はバッグの中から用意して来たかのように『原稿』という文字がプリントされた紙を持っていた。文字が読めるから逆さで持ってくれているのだろう。

 私は2人に向かって呆れた笑いがこぼれた。私の体調を心配するより本が進んでいるかの心配とは、流石本好きの親友たちだ。

 私は引き出しから3枚ほどの原稿用紙のコピーを1部ずつ2人に渡す。友人に渡すためにコピーをしたいと看護師に伝えると嬉しそうに看護師はコピーをしてくれた。

 2人は何も言わずに受け取り、ベッドの隣に椅子を置き、原稿に目を通していた。

 なんて言われるかわからない。逆さ病のことを書こうとしたのに方向性が異なってしまったことに激怒するかも知れない。はたまた、これはいいと褒めてくれるかも知れない。2人は私の書いた文を読んでどう思うのだろうか。

 私は2人の反応を見ることができず、窓の外を見る。2人に否定されればこの話はもう書けない気がした。

 静かな病室に紙をめくる音と何かを書く音がする。おそらく律が読み終わったのだろう。律はいつも読み終わるのが早い。

 肩を叩かれ、2人の方を向く。2人とも原稿を膝の上に置いているため、読み終わったらしい。

「よかった」

「逆さ病のこと書かなかったんだ」

「私は好きだよ」

「絵本とか児童書向けに似てる」

 どんどんと感想が書かれている。私は照れくさくなりながら書かれた文字を読む。すると、1つの文が目にとまった。

「希代らしい」

 2人ともそう書いている。『私らしい』とはなんだろう。

 私は新しい紙を取り出し、「希代らしいってなに?」と聞いた。

 それを読んだ2人は顔を見合わせるといつものように楽しそうに笑った。2人は「希代っぽい」「希代しか書かない」などとよくわからない文が作られていった。

「もし、私が本に誤字があったらふせんで訂正する」

「私だったら出版社に電話をする」

「これが私らしい」

 そう笑って書いた文字を見せた。

 なるほど。私は2人を見ながら優佳と律ならやりかねないと考えていた。

「続き、楽しみにしてる。少し知り合いに声かけてみる」

「辞書も使って校閲してくる。少し待ってて」

 と丸い字と角ばった字が並んだ。2つの字は私の書いた行書の『希代らしい』という字を囲むように書かれていた。まるで1人じゃないことを伝えるようだった。

「るばんが。うとがりあ」

 私は言いたいことを反対で伝えた。久しぶりに看護師以外と話をしようとした。

 2人は泣きそうな顔をして「ありがとう」と言った。私が聞き取れたから反対で伝えてくれたのだろう。

 それから、私はなんだか恥ずかしくなって別の紙に次回の話や構成を書き出した。

 2人もその紙を見ている。そして書いていく文字の脇に律は締切日を、優佳は私がひらがなで書いた文字を漢字に直している。

 3人はもう話そうとしなかったが、3人の中央には1枚の計画用紙があった。書かれている文を見ると、会話は用紙の中で成立しているかのように書かれていた。


 それから希代は段々と普通の人の暮らしを取り戻して行った。

 そして病院を退院する頃には本が3分の2ほど完成していた。退院する際、両親が休みを取れず、律と優佳の2人が迎えに来てくれた。

 退院すると通院は月に1回になり、処方された薬も飲むようにすれば規制はないと看護師から伝えられた。

 そして説明が終わると私は病院から逃れて晴れて自由の身になる予定だった。

 退院をするとこれまでスマホを使わなかった反動からか友人からは毎日のように連絡が届き、そして行動範囲が増えたことで買い物も母と一緒に行き、父とはよくドライブに連れ出されるようになった。

 となれば自由の時間は専ら昼間しかなかった。

 私は昼間に浮かんだ文字を殴り書きし、次の日に取捨選択、そして少しずつ文章にしていった。

 文章が全体構成を確実に、はっきりと見せたのはそれから二ヶ月もあとだった。

 二ヶ月後、私は二人を呼び出し、あらすじを最初から最後まで簡潔に書いた紙のコピーを渡して読んでもらった。

 ニ人はまた「私らしい」と言ってくれるのだろうか。それとも違う言葉で褒めてくれるのだろうか、などとわくわくしながら感想を待っていると、読み終わった2人は何も言わずに書いた紙を置いて部屋を出てしまった。私はそれを見てやっぱり受け入れられなかったんだと悟った。私の書いた物語のテーマは「死」。そして最後は誰とも話すことなく歩き続けている場面で終わる。

 あの場面は私が寝不足の時に無理やりに入れたものだ。でもそれ以上の結末が思いつかず、ギリギリまで悩んでなんとか形に合わせた言わば偽物だ。

 例えば四角い箱に同じ大きさの三角を入れようとしても隙間が空いたり、入らなかったりする。それを私は力尽くで無理に押し込んだ。三角だったものは角が平たくなり、入らなかった場所は切り取られているだろう。

 私はぽつんと取り残されたが、何も考えなかった。物語を書くのは楽しかった。でも、読むより何倍も難しかった。

 私はせっかくだから戻ってくるまで、それか次の日になるまで眠ることにした。どうせ時間は余るほどある。逆さの生活に慣れ、人の会話は雑音にすら聞こえないし、誰にも話しかけられないし、話すことができない。それはとても楽で、とても苦しいことだった。助けを求める相手も話ができる相手もいない、ただの孤独と同じだった。

 私が夢の中へ誘われ始めた時、律が扉を大きな音を立てて開けた。手にはスマホを持っている。

「!代希」

 息を整えながら律はこちらに歩いてきた。

 そして手を握り、話した。

「よるす版出」

 その後ろでは優佳が紙に付箋と赤ペンでありえない数の文字を書き連ねている。

「どけうらもてえ変は後最」

 私が逆さ病というのを忘れているのか、律はどんどんと私の聞き取れない言語で話していく。所々、独特のイントネーションのせいか、「いい」や「逆さ」は聞き取れるが、他は全くと言って分からない。

 混乱しているのを優佳が悟ったのか、銃を連射しているように話す律を止め、私が逆さ病で聞き取れていないことなどを説明してくれているのだろう。

 律はハッとしてこちらを見ると両手を合わせて軽く謝った。私はため息をついて諦めたように首を振った。律はいつも軽く謝る。それがどれだけ重くても、軽くても同じように謝る。謝って許されるなら警察や法は要らないと思うが、律は悪いと思わないときは絶対に謝らない。悪いと思ったときにしかこの対応をしない。

「いいよ」

 私は逆さで相手に伝わるように言った。律は安心したように笑って「ありがとう」と逆さで言った。

 その様子を優佳も見て微笑ましいと思ったのか、2人の頭を雑に撫でてくれた。

 それからは優佳のチェックをした部分を整え、最後を考えることに徹した。きちんと私の考える箱に一切の隙もないように、そして削られる場所もないくらいに自分で納得できるような結末を作る。

 私は紙にこうでもない、ああでもないと書いては捨て、書いては候補にあげてを繰り返した。

 私が休憩を兼ねて、本を読んでいるとある一節が目にとまった。

 ある人が質問し、それを淡々と伝えている場面。

 ある人が会話している相手にとって文字とは何かを説いている、ただの一節。

『文字は私にとって生きる糧。そして過去のことを未来につなぐための重要なものでもある。だから私は人の言葉より文字に触れる』

 私はこの一節を読んで率直に恐怖を抱いた。なぜこの小説家は人の心ではなく、文字なのだろう。人の心を知るには、対話が一番いい。文字では淡々とし、伝えたいことが正確に伝わらない。対話をすれば真意が分かる。私はそう思っていた。だから小説にもそう書いた。

「文字で会話…」

 今の時代、この結末は文句を言われるかも知れない。出版を取り消されるかも知れない。でも、結末を変えることはできない。箱に入らないなら入れる形を変えればいい。はみ出してしまったのならすき間に埋めればいい。

 そうだ。そんな簡単なことだったんだ。

 私は晴れ晴れとした気持ちで父からもらった万年筆を持ち、小説のラストを調整し始める。

 どうせなら、希望を見出そう、と。

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