漁師町の旅館息子、異世界の勇者に選ばれる
なんでもない日本の港町が、とんでもない勇者誕生の地になることを、誰が想像出来ただろうか。
「――おーい、湊! 干物の注文票まだか!」
「はーい!」
俺は富津にある港町の旅館の息子、富津湊。
小さい頃から漁師の親父の手伝いをしながら、今は母さんの実家である旅館を継ぐ準備をしている。
地元の観光客は減ったけど、夏の海水浴シーズンと潮干狩りの時期はまだまだ人が来る。だから俺の毎日は、漁の手伝いと旅館の仕事で埋まっていた。
――普通の、なんでもない日常。
そう思っていた、あの夜までは。
◆
その日は漁の片付けが遅れて、富津岬の灯台近くに寄った。
夜の海は真っ暗で、沖のほうに漁船の灯りが点々と見える。潮の匂いに混じって、どこか鉄のような焦げたような匂いがした。
「……なんだ? 火事か?」
次の瞬間、空が裂けた。
いや、本当に“裂けた”としか言いようがない。灯台の先に、巨大な光の縦穴が開いたのだ。
ドオオオォォ――ッッ!!
地響きと共に、海面が爆発したみたいに盛り上がる。
そこから出てきたのは――
「……嘘だろ、魚じゃねぇ」
全身が甲殻に覆われた巨大な怪物。鋏を持った蟹のようでいて、背中には触手が蠢いている。
俺は腰を抜かしかけた。けど、次の瞬間、怪物は富津の港の方へと突進していった。
「やばい! 旅館の方に行っちまう!」
気づいた時には、俺の足は勝手に走り出していた。
◆
港では既に騒ぎになっていた。
親父や漁師仲間が棒や網を手に立ち向かおうとしていたが、怪物の鋏が一振りされるだけで船小屋が粉々に砕ける。
「逃げろ! あんなもん相手にできるか!」
誰かが叫ぶ。けど、俺の目に映ったのは旅館の前に立ち尽くす妹――美咲の姿だった。
「美咲!」
俺は叫びながら走り、妹を庇うように飛び出した。
その瞬間――
――光が俺を包んだ。
◆
『……選定完了。勇者に認定します』
頭の中に、知らない声が響いた。
視界が一瞬真っ白に染まる。気づけば、俺の右手には見たことのない長槍が握られていた。
「な、なんだこれ……?」
海に使う銛に似てるけど、先端は青白く光っていて、柄には波の紋様が刻まれている。
怪物が俺に向かって突進してきた。
恐怖で身体が震えたが――不思議と逃げようとは思わなかった。
「来いよ化け物……! 俺は漁師町の息子だぞ!」
振り下ろされた鋏を、俺は反射的に槍で受け止めた。
ガキィィン!
火花が散る。と同時に、槍から水しぶきのような衝撃波が放たれ、怪物の甲殻を弾き飛ばした。
「な、なんだ今の……!? 俺がやったのか!?」
◆
戦いは混乱の連続だった。
怪物は鋏だけでなく、背中の触手からも黒い液体を噴き出し、地面を溶かしていく。
親父たちが網を投げて動きを封じようとするが、すぐに引き裂かれてしまう。
「兄ちゃん!」
「美咲、下がってろ!」
妹の叫びを背に、俺は槍を構え直す。
頭の中の声が再び響いた。
『漁師の知識を起動。対象:魔獣。弱点:腹部の柔組織』
「……腹か!」
俺は飛び込んだ。波止場を蹴って一気に跳び、槍を怪物の腹に突き刺す。
ズブリ、と手応え。光が弾け、怪物が断末魔の叫びをあげて崩れ落ちた。
その瞬間、光の門が一時的に収縮した。
◆
「……湊、お前……今の……」
呆然とする親父や町の人々の視線が俺に集まる。
俺は荒い息を吐きながら槍を握りしめた。
『勇者よ。使命を告げます。この門の向こう、異世界〈ラ=アール〉が滅亡の危機に瀕しています。あなたの力で救わなければ、こちらの世界も共に滅びるでしょう』
「はぁ!? 滅亡!? 俺が勇者って……冗談だろ!」
頭の中で誰かが勝手に運命を決めている。だが、目の前には守りたい町と家族がいる。
「……くそ、ふざけんなよ。でも――逃げられねぇよな」
俺は槍を肩に担ぎ、光の門を睨んだ。
門の向こうから、まだ何かが蠢いている。
美咲が俺の背中に小さく声をかけた。
「兄ちゃん……行くの?」
「ああ。けど心配すんな。俺は必ず帰ってくる。だって俺は――漁師町の旅館息子だからな!」
門が再び大きく開く。光に包まれる瞬間、俺は旅館の灯りを一度振り返った。
あの灯りに必ず戻ると誓いながら、俺は異世界へと足を踏み出した。
――こうして、なんでもない富津の町から、とんでもない勇者譚が始まったのだ。