奇跡の治癒
命を救われた女騎士イリアは、蒼のポーションが持つ価値と危険性を説く。彼女はこの世界の常識を語り、蒼の力を悪用しようとする者たちから守るため、王都に報告すべきだと主張する。二人の対話を通じて、蒼は自分の力が持つ影響の大きさを知ることになる。
肩の傷が跡形もなく消え去ったイリアは、しばらく自分の体に触れてその事実を確かめていたが、やがてハッと我に返り、改めて蒼に向き直った。その真剣な眼差しには、先ほどまでの混乱はなく、騎士としての理知的な光が宿っていた。
「改めて、自己紹介をさせていただきます。私はアステル王国騎士団、第三騎士隊に所属するイリア・フォン・クラウゼルと申します。あなた様のお名前をお聞かせ願えますか?」
その丁寧で格式ばった口調に、蒼は少し戸惑いながらも答えた。
「緑川…蒼です。イリアさん、ひとまず落ち着いてください。怪我がないなら良かったです」
「アオイ…様。その呼び方はご遠慮ください。あなたは我が命の恩人。どうかイリアとお呼びください」
イリアはきっぱりと言い切った。彼女のあまりの真剣さに、蒼は気圧されながらも頷くしかなかった。
「イリア、まずは何か温かいものでも。お腹も空いているでしょう」
蒼はイリアを促し、家のリビングへと招き入れた。ソファに座ったイリアは、モダンで機能的な日本の家屋のインテリアを、興味深そうにキョロキョロと見回している。蒼はキッチンに立つと、庭で採れたばかりのトマトとタマネギを取り出した。それらを手に乗せると、蒼のスキル【聖樹の祝福】が発動し、温かい湯気の立つ、食欲をそそる香りのミネストローネが入った木製の椀へと変化した。
「どうぞ」
差し出されたスープを受け取ったイリアは、その奇跡のような現象を目の当たりにして、またしても目を見開いた。
「これも…あなたの力なのですか?」
「ええ、まあ…。この庭の植物は、ちょっと特別みたいで」
蒼は曖昧に笑いながら答えた。イリアは恐る恐るスープを一口飲むと、その表情が驚きから至福へと変わった。
「美味しい…!なんて優しい味なのでしょう。それに、体の芯から力が湧いてくるような…」
彼女は夢中になってスープを飲み干した。空になった椀をテーブルに置き、彼女は深く息をつくと、真剣な表情で蒼に問いかけた。
「アオイ殿。失礼を承知でお尋ねします。先ほどの、私の傷を癒したあの薬…あれは一体何なのですか?あれほどの治癒効果を持つポーションは、国中の高位神官様や宮廷魔術師様でも作ることはできません。あれはまさに、伝説に謳われる『神の雫』そのものです」
「神の雫って…そんな大げさなものじゃないですよ。あれは、ほら、あそこのプランターに生えてるミントの葉から作っただけで…」
蒼が指さした先には、青々と茂るミントのプランターがあった。イリアはそのミントと蒼の顔を信じられないという目で見比べた。
「ただの…ミント…?ありえません。ミントは気付け薬や香料にはなりますが、再生効果など…。アオイ殿、あなたはご自身の力が、この世界においてどれほどの価値を持つか、理解しておいでですか?」
イリアの声には、切実な響きが込められていた。
「この世界では、治癒魔法やポーションは非常に貴重で高価なものです。一般的なポーションでは、小さな切り傷を塞ぐのがやっと。腕が折れれば、治るまでに数ヶ月を要し、後遺症が残ることも珍しくありません。ましてや、私が負ったような、臓腑に達するほどの深手を瞬時に、しかも傷跡一つ残さずに癒すなど、常識では考えられない奇跡なのです」
彼女は言葉を続けた。
「もし、その力が公になれば、どうなると思いますか?もちろん、多くの人々が救われるでしょう。しかし、同時に、その力を独占しようとする者たちが必ず現れます。権力に飢えた貴族、金にがめつい商人、そして力を求める無法者たち。彼らはあなたを手に入れるためなら、どんな汚い手でも使ってくるでしょう。誘拐、脅迫…最悪の場合、あなたの命を奪ってでも、この奇跡の庭を支配しようとするはずです」
イリアの言葉は、平和な日本で生きてきた蒼にとって、にわかには想像しがたいものだった。しかし、彼女の真剣な瞳を見ていると、それがこの世界の厳しい現実なのだと理解せざるを得なかった。ただの趣味だったガーデニングが、今や自分の命を危険に晒す原因になりかねない。
「では、どうすれば…」
不安げに尋ねる蒼に、イリアはきっぱりと答えた。
「私に考えがあります。アオイ殿、どうか私と共に王都へ来ていただけませんか。そして、この奇跡の力を、国王陛下にご報告するのです。アステル王国の国王陛下は、賢君として名高いお方です。あなたの力を正しく理解し、必ずやあなたを庇護してくださるでしょう。あなたの力を国家の管理下に置くことで、悪意ある者たちからあなたを守り、そしてその恩恵を、より多くの民へと正しく分け与えることができるはずです」
王都へ行く。国王に会う。話がどんどん大きくなっていく。蒼は、穏やかでのんびりとしたスローライフを望んでいた。権力争いや国家間の問題など、想像しただけで頭が痛くなる。
「俺は、ただ静かにここで暮らしたいだけなんです。あまり大事にはしたくない…」
蒼が本音を漏らすと、イリアは彼の気持ちを察したように、少しだけ表情を和らげた。
「お気持ちは分かります。突然、見知らぬ世界に来て、これほどの力を得てしまったのですから、戸惑うのは当然のことでしょう。ですが、アオイ殿。あなたのその力は、もはやあなた一人のものではありません。それは、この戦乱と貧困に喘ぐ世界にとって、希望そのものなのです」
イリアは立ち上がると、窓から外の森を見つめた。
「私がなぜあのような深手を負ったか、お話しします。私は、近隣の村を襲う魔獣の群れを討伐する任務の最中でした。しかし、敵の数が予想をはるかに上回り、部隊は壊滅状態に陥りました。私は仲間を逃すために殿を務め、命からがらここまで逃げてきたのです。私の仲間たちは、今もどこかで傷つき、助けを待っているかもしれません。あなたの力があれば、彼らを救えるかもしれないのです」
その言葉は、蒼の心を強く打った。自分の力が、誰かを救える。目の前のイリアを救ったように。それは、面倒ごとであると同時に、抗いがたい魅力を持つ響きだった。
長い沈黙の後、蒼は口を開いた。
「…分かりました。すぐに王都へ行くという決心はつきませんが、あなたの仲間を助ける手伝いはさせてください」
その言葉に、イリアの表情がぱっと明るくなった。
「本当ですか!ありがとうございます、アオイ殿!」
「ただし、条件があります。俺はこの庭から離れられません。だから、あなたの仲間をここに連れてきてください。ここでなら、治療ができます」
「承知いたしました!それで十分です!」
イリアは深く頷いた。
「では、私はすぐに騎士団の駐屯地へ戻り、状況を報告してまいります。そして、必ずや信頼できる者だけを連れて、再びここへ参ります。それまで、どうかご無事で。この庭のことは、決して誰にも話さぬよう」
そう言うと、イリアは騎士として最敬礼をし、名残惜しそうにしながらも、庭を後にして森の中へと消えていった。
一人残された蒼は、リビングのソファに深く沈み込んだ。自分の庭、自分のスキル。それが、この世界の運命すら左右しかねない、とてつもないものであることを、彼は今、はっきりと自覚した。望むと望まざるとにかかわらず、彼はもう、ただのガーデニング好きの青年ではいられないのだ。これから何が起こるのか。期待と不安が入り混じった複雑な気持ちを抱えながら、蒼は窓の外に広がる、愛しくも恐ろしい自らの庭を、静かに見つめていた。