初めての来訪者
庭に持ち込まれた「死」の匂い。蒼は葛藤の末、手製のポーションで瀕死の女騎士を救う。それは彼の想像を絶する奇跡の治癒だった。命の恩人と崇める女騎士イリアとの出会いが、彼の穏やかなスローライフを思いもよらない方向へと導いていく。
庭の生垣を突き破り、血まみれの女騎士が倒れ込んできた。その光景に、蒼は一瞬、思考が停止した。穏やかで平和だった彼の聖域に、初めて「死」の匂いが持ち込まれたのだ。背後から迫っていた魔獣は、庭の見えない結界に阻まれて森へ帰っていったが、問題は目の前で倒れている彼女だった。
銀色の鎧は無残にへこみ、その隙間から見える衣服は血で赤黒く染まっている。特に肩口の傷は深く、浅い呼吸を繰り返す彼女の命が、今まさに尽きようとしているのが素人目にもわかった。関わるべきではない。面倒ごとに巻き込まれるのはごめんだ。そう合理的な思考が警鐘を鳴らす。しかし、蒼の良心は、目の前の命を見捨てることを許さなかった。
「……仕方ない」
蒼は小さく呟くと、意を決して彼女に駆け寄った。そして、ポケットから先ほど生成したミントのポーションを取り出す。これが本当に効果があるのか、そもそも人体に使っていいものなのか、確証はない。だが、何もしなければ彼女は確実に死ぬ。それならば、試す価値はあるはずだ。
彼は女騎士の上体をそっと抱え起こし、兜の隙間から、震える手でポーションを彼女の口元へと運んだ。
「しっかりしてください。薬です、飲んでください」
声をかけると、彼女はうっすらと目を開け、蒼の顔をぼんやりと見つめた。そして、何かを察したのか、こくりとわずかに頷く。蒼は慎重に小瓶を傾け、緑色の液体を彼女の口へと流し込んだ。
その瞬間、信じられないことが起こった。ポーションを飲み込んだ彼女の体から、ふわりと温かい光が溢れ出したのだ。光は特に傷の深い肩口に集まり、まるで早送り映像のように、裂けていた皮膚が再生し、塞がっていく。鎧の隙間から見えていた無数の切り傷も、みるみるうちに消え失せた。数秒後、光が収まった時、彼女の体にはおびただしい量の血痕だけが残り、傷そのものは跡形もなく消え去っていた。
「……え?」
奇跡を目の当たりにしたのは、当の女騎士本人も同じだった。彼女は自分の肩に触れ、そこに傷ひとつないことを確認すると、信じられないといった表情で蒼を見上げた。さっきまで死の淵をさまよっていたとは思えないほど、その瞳には力が戻っている。
「あなたは…一体…?これは、女神様の奇跡…?」
女騎士は、蒼の手の中にある空の小瓶と、彼の顔を交互に見比べながら、かすれた声で尋ねた。
「いや、これはただのミントで…」
蒼が正直に答えようとすると、彼女はゆっくりと立ち上がり、その場で膝をついて深く頭を下げた。
「我が名はイリア!王国騎士団に所属する者です!この御恩は、生涯をかけて必ずやお返しいたします!あなた様は、我が命の恩人です!」
その真摯で力強い言葉に、蒼はたじろいだ。ただ趣味で育てていたミントが、人一人の命を救ってしまった。そして、そのことで大げさなほどの感謝を捧げられている。彼の想像をはるかに超えた出来事に、頭が追いつかない。
「あ、あの、とりあえず立ってください。そんな、大したことじゃ…」
「いいえ、大したことです!あなたは私の、そしておそらくはこの荒廃した世界にとっての希望の光だ!」
イリアは顔を上げ、きっぱりと言い切った。その瞳は、蒼をまるで神か聖者のように見つめている。蒼は、自分の日常が、もはや後戻りできないほど大きく変わってしまったことを、この時、はっきりと悟るのだった。彼の静かなスローライフは、最初の来訪者によって、思いもよらない方向へと舵を切られようとしていた。