わたしがわたしを盗んだ日
「――もういい、水希!今日はそこまで!」
コーチの張りのある声が、タイルと水に反響する。びり、と空気が震える感覚。私は息を継ぎながら、ぼんやりと天井のライトを見上げた。水中にいる時とは違う、乾いた塩素の匂いが肺を満たす。もう何時間、この水と戯れていただろう。指先はとうにふやけ、体中の筋肉が心地よい悲鳴をあげていた。地方大会の表彰台。その景色だけを追い求めて、私は誰よりも長く水に身を浸してきた。
「お先に失礼します」
チームメイトたちの声が遠ざかっていく。シャワーの音、ロッカーの扉が閉まる金属音、そして、やがてそれら全てが吸い込まれたかのような静寂。巨大な箱のような室内プールに、私一人だけが取り残された。
コーチの指示は絶対だ。分かっている。でも、もう少しだけ。この静けさを、この満ち足りた疲労感を、もう少しだけ味わっていたかった。
ゆっくりとプールサイドに腰を下ろす。
見て、と誰に言うでもなく心で呟いた。誰もいないプール。私が今まで起こしてきた波は完全に収まり、水面はそこにあるのかも分からないほど完璧な静止状態にあった。まるで、巨大な黒曜石の板がどこまでも続いているかのようだ。
思わず、その完璧な鏡を覗き込む。
そこに、私がいた。
疲れているはずなのに、水に映る自分の瞳は爛々と輝いて見える。濡れた髪の一本一本、ゴーグルの跡が残る目元、固く結ばれた唇。それは間違いなく私だったが、まるで魂だけを抜き取って、そこに飾られた標本のような、奇妙な実在感があった。
目が、離せない。
水面の私は、何を考えているのだろう。何を、見ているのだろう。
吸い寄せられるように、顔を近づけていく。水面の私と、現実の私の額が触れ合う寸前――。
ふ、と。
世界の音が、完全に消えた。
いや、違う。消えたのではなく、分厚いガラスの向こう側へ追いやられたような感覚。肌を撫でる空気は、先ほどまでの湿った温かさを失い、ひんやりと重みを増している。世界全体が、ほんのりと青みを帯びていた。まるで、深い水の底から地上を見上げているかのような、静かで、冷たい光。
何……?
違和感の正体を探して、私は自分が覗き込んでいた水面に視線を戻した。
「え……」
声は、出なかった。喉が凍り付いたように動かない。
そこに、私は、いなかった。
完璧な鏡であったはずの水面は、ただ静かに、青みがかった天井の照明を映しているだけ。私の姿だけが、綺麗にそこから消え失せていた。
混乱する頭で立ち上がろうとした、その時。
「水希?どこだー?」
コーチの声。だが、その声は水中で聞くようにくぐもって、遠い。すぐそこの入り口から聞こえているはずなのに。
姿が見えた。コーチが心配そうな顔で、プールの中をキョロキョロと見回している。
「コーチ!ここにいます!」
叫んだはずの声は、音にならなかった。空気が喉を滑り抜けていくだけ。パニックで駆け寄り、その背中に触れようと手を伸ばす。お願い、気づいて。
その手は、コーチの背中を、何の抵抗もなく――すり抜けた。
氷の彫刻を撫でるような、いや、それよりももっと希薄な感覚。触れているのに、そこには何もない。コーチは私の存在に全く気づくことなく、首を傾げながらプールの反対側へと歩いて行ってしまう。
「待って……」
か細い声が、ようやく漏れた。だが、彼には届かない。
何が起きているの?
私は、ここにいるのに。
確かに、ここに立っているのに。
世界から、私だけが拒絶されている。そんな絶望的な感覚に襲われ、私はその場にへなへなと座り込んだ。
ふと、視界の端に何かが映った。
プールサイドにできた、小さな水たまり。清掃用のホースから漏れた水だろうか。そのわずか数センチの水たまりを、何気なく覗き込む。
そこには、見慣れた私の顔ではなく、見たこともない夜の街のネオンが、鮮やかに映り込んでいた。まるで、その小さな水たまりが、どこか遠い場所へと繋がる窓であるかのように。
ぞわり、と背筋に悪寒が走る。
私は、一体どこに迷い込んでしまったのだろうか。
青く静まり返った世界で、私はたった一人、途方に暮れていた。
ぞわり、と背筋に悪寒が走る。
私は、一体どこに迷い込んでしまったのだろうか。
青く静まり返った世界で、私はたった一人、途方に暮れていた。夜の街のネオンを映す小さな水たまりは、まるで底なしの井戸のように、私の心を吸い込んでいく。
その、静寂を破ったのは、唐突な存在だった。
にゃ、と短い鳴き声。
はっとして顔を上げると、一匹の黒猫が、悠然とこちらに歩いてくるところだった。こんなところに、猫?いや、ここは「どこ」なんだ。
猫は私の存在など意にも介さず、しなやかな足取りで進んでくる。その目的地は、偶然にも私が覗き込んでいた、あの小さな水たまりのようだった。何気なく、その上を通り過ぎようとしている。
やめて。
なぜそう思ったのか分からない。この青い世界で唯一出会った「生き物」。孤独に耐えかねたのか、それとも、この不可解な窓を汚されたくなかったのか。私は衝動的に手を伸ばし、猫のふかふかした胴体を掴んだ。
その瞬間、信じられないことが起きた。
猫の体が、ぐにゃり、と歪む。まるで水にインクを垂らした時のように輪郭が滲み、私の手は水たまりの冷たい感触を通り越して、確かに温かい毛皮を掴んでいた。手応えがあった。引き上げる。水面を通り抜けた黒猫は、完全にこの青い世界に実体化していた。
「……!」
驚きに目を見開く私と、引きずり込まれた黒猫の琥珀色の瞳がかち合う。
次の瞬間、猫は全身の毛を逆立てて硬直した。知らない世界、知らない匂い、そして私という未知の存在。その小さな体に宿る本能が、最大限の警報を鳴らしたのだろう。
「うにゃにゃにゃーーーっ!!」
甲高い絶叫。猫は私の腕を鋭い爪で引っ掻くと、拘束から逃れて床に飛び降りた。そして、脱兎のごとく走り出す。ばばばばっ、と軽い足音が、この静寂の世界ではやけに大きく響いた。
待って、行かないで!
声にならない叫びも虚しく、黒猫は一直線に、巨大な水鏡――プールへと向かっていく。そして、一切のためらいもなく、その静かな水面へとその身を躍らせた。
ばしゃん!!
水面が大きく揺れ、波紋が広がる。そして、猫の姿はそこから完全に消えた。
入れ替わるように、ガラスの向こう側から、くぐもった声が響く。
「な、なんだっ!?」
コーチの声だ。探し回って、またプールに戻ってきていたらしい。ガラス越しに見る彼は、信じられないものを見たという顔で、猫が飛び出したあたり――何もないはずのプールの中心――を凝視している。
「い、いま……突然、プールから猫が飛び出して来たように見えたが……?」
その声と光景が、私の精神を繋ぎとめていた最後の糸を、ぷつりと断ち切った。
ああ、そうか。
あそこからなら、帰れるんだ。
でも、私は……?
ぐるぐると世界が回り始める。青い光が明滅し、コーチの姿が滲んでいく。自分の名前を呼ばれているような気がした。遠く、遠くで、水の中から聞こえるみたいに。
「みずき……おい、水希……!」
その声を最後に、私の意識は深い、深い闇へと沈んでいった。
消毒液の、ツンとした匂い。
それから、機械の規則的な電子音。
ぴっ、ぴっ、ぴっ……。
重い瞼をこじ開けると、視界に飛び込んできたのは、見慣れたプールの天井ではなく、殺風景な白い天井だった。体を起こそうとして、腕に繋がれた点滴のチューブに気づく。
「……ここは」
掠れた声で呟くと、ベッドの脇でうたた寝をしていた母が、はっと顔を上げた。
「水希!気がついたの!?」
「お母さん……?どうして……」
「どうしてじゃないわよ!あなた、プールの更衣室で倒れてたのよ!コーチが見つけてくださらなかったら、どうなっていたか……!」
更衣室?違う、私はプールサイドにいたはず。あの、青い世界に。
混乱する私に、心配そうに顔を覗き込んだコーチが部屋に入ってきた。
「水希、気分はどうだ?覚えてるか?突然、大きな音がして、君が倒れてたんだ」
コーチの言葉に、私はあの時の光景を思い出す。
猫、水たまり、コーチをすり抜けた手、そして……プールから飛び出す猫を目撃した彼の驚愕の顔。
「先生……猫、見ませんでしたか?プールから、黒い猫が……」
そう口にした途端、コーチは一瞬、言葉に詰まったように目を見開いた。そして、何かをごまかすように、乾いた笑いを浮かべた。
「猫?はは、何を言ってるんだ。疲れてたんだよ、君は。……まあ、ゆっくり休め」
明らかに、何かを隠している瞳だった。
彼は知っている。私が見たものが、ただの幻覚ではないということを。
私は、ただ倒れていただけじゃない。
確かに、あの世界にいたのだ。そして――あの猫は、私が引きずり込んだのだ。
病院の白いベッドの上で、私は一人、誰にも言えない秘密の重みに、静かに身を震わせるしかなかった。
退院の日まで、私は努めて「普通」を演じた。倒れたのは過労のせい。猫の幻覚を見たのも、きっとそのせい。そう言って、心配する母やコーチを安心させた。けれど、私の心の中では、あの青い世界の記憶が、まるで昨日のことのように鮮明に焼き付いていた。
あれは、夢じゃなかった。
その確信は、退院間近の夜、ふとした瞬間に証明された。
深夜、喉の渇きを覚えて目を覚まし、病室を出て共同の洗面所へ向かった。煌々と光る蛍光灯の下、陶器の洗面台が並んでいる。その一つに、誰かが使った後なのだろう、水が半分ほど張られていた。
また、だ。
波一つない静かな水面。鏡のように、私の疲れた顔を映している。
あの時と同じ、吸い寄せられるような感覚。私はゴクリと唾を飲み込み、恐る恐るその水面を覗き込んだ。
ふ、と。
世界の色が変わる。
やはり、来た。
ほんのりと青みがかった世界。だが、あのプールサイドで見た時のような、息が詰まるほどの深い青ではない。もっと淡く、静かな色合い。まるで薄い青色のセロファンを通して世界を見ているようだ。
私はゆっくりと顔を上げた。目の前の鏡には、案の定、私の姿は映っていない。
前回と違うのは、私に焦りがないことだった。むしろ、好奇心が勝っていた。
一歩、また一歩と、青い世界を歩いてみる。足音はしない。空気はひんやりとしていて、どこまでも静かだ。
冷静になって周りを見渡すと、面白いことに気がついた。
壁にかかった鏡、窓ガラス、床にこぼれた水の小さな滴。光を反射するもの、何かを映し出すものすべてが、異なる景色を内包していた。まるで、無数のテレビモニターが壁に埋め込まれているかのようだ。ある窓ガラスには賑やかな交差点が、別の鏡には鬱蒼とした森が、そして床の水滴には、星が瞬く夜空が映り込んでいる。
ここは、あらゆる「水鏡」が繋がる、中継地点のような場所なのかもしれない。
その無数の景色の中に、ふと見知った顔を見つけて、私は足を止めた。
病室のドアについている、小さなガラス窓。そこに映っていたのは、病院の裏口らしき薄暗い路地だった。そして、そこにいたのは……クラスメイトの早乙女さんだった。
彼女は、いつも物静かで、本ばかり読んでいるような子だ。その彼女が、見るからに柄の悪そうな数人の男子生徒に囲まれていた。リーダー格らしい少年が、何かを詰問するように早乙女さんの肩を乱暴に揺さぶっている。彼女は恐怖に顔を強張らせ、ただ俯いているだけだった。
何とかしてあげたい。
その一心で、私はガラス窓に映るその光景に意識を集中した。すると、どうだろう。ぼんやりとしていた路地の景色が、ぐっと解像度を増し、彼らの声までが微かに聞こえてくる。まるで、その場にいるかのように、世界が明瞭になった。
「おい、聞いてんのかよ!」
「……ごめんなさい」
「金、持ってんだろ。貸せって言ってんだよ」
許せない。
気づけば、私の体はガラス窓を通り抜け、薄暗い路地の中に立っていた。相変わらず、世界は淡い青色に包まれている。
「やめなさい!」
叫び、早乙女さんとリーダー格の少年の間に割って入る。だが、彼らは私の存在に全く気づかない。私の体は、彼らにとって透明な空気でしかないのだ。
悔しさに唇を噛み、リーダー格の少年の頬を思い切り叩いてみた。
ばしん、という手応えはない。私の手は、彼の顔を抵抗なくすり抜けた。だが、まるでヤスリで擦ったかのように、自分の手のひらがヒリヒリと痛む。見ると、うっすらと皮が剥けていた。
やはり、触れられない。私は、この世界の「観測者」でしかないのか。
歯がゆさに周りを見渡すと、足元に古びたプラスチックのバケツが転がっていた。それは、路地の風景の一部として、そこに「映り込んで」いるものだ。
どうしようもない苛立ちに任せ、私はそのバケ-ツを掴んだ。
すると、驚いたことに、それは確かに手に取れた。ひんやりとしたプラスチックの感触。重ささえも感じる。
もしかして……。
一縷の望みをかけて、私はそのバケツを、リーダー格の少年に向かって力任せに投げつけた。
放物線を描いた青みがかったバケツが、少年の頭部に吸い込まれていく――。
ばこっ!!
鈍い音が響いた。
「いってぇ!」
少年は頭を押さえてその場にうずくまる。突然、どこからともなく飛んできたバケツに、取り巻きたちも早乙女さんも、何が起きたのか分からず呆然としていた。
やった……当たった!
驚きと興奮で心臓が激しく鳴る。どうやら、この青い世界では、私自身は干渉できないけれど、元からその景色に「映り込んでいる」無機物であれば、掴み、動かすことができるらしい。
まだ呆然としている彼らを尻目に、私は確かな手応えを感じていた。
この力を使えば、何かを変えられるかもしれない。
ただ迷い込んだだけではなかった。私はこの世界で、ただの無力な観測者ではないのだ。
まだ頭を押さえてうずくまっているリーダー格の少年。取り巻きたちは「なんだよ今のは!?」「どこからだよ!?」と、明後日の方向を見回している。好機は今しかない。
私はすぐさま、近くに転がっていた空き缶を掴んだ。そして、別の少年の足元めがけて投げつける。
カランッ!
金属音が路地に響き、少年は「うおっ!」と驚いて飛びのいた。続けざまに、壁際に積まれていた古い雑誌の束を掴み、別の方向から投げつける。ばさばさっと紙の塊が彼らの頭上に降り注いだ。
「なんなんだよ、これ!」「誰かいるのか!?」「ポルターガイストかよ!」
彼らは完全にパニックに陥っていた。見えない誰かから、次々と物が飛んでくるのだ。その恐怖は計り知れないだろう。私はこの青い世界で、彼らにとっての「不可解な現象」そのものになっていた。
仕上げに、一番大きかったゴミ箱の蓋を掴み、渾身の力で彼らの真ん中に向かって投げつけた。
ガシャーーーン!!
派手な金属音が鳴り響き、それが決定打となった。
「やべえよ、ここ!」「呪われてる!」「逃げろ!」
少年たちは悲鳴を上げ、蜘蛛の子を散らすように路地裏から逃げ去って行った。
あっという間に、路地には静寂が戻る。
残されたのは、恐怖でその場に座り込み、小さく震えている早乙女さんだけだった。彼女は怯えた目で、物が散乱した周囲をきょろきょろと見回している。
「……だれか……いるんですか……?」
か細い声が、私の心に突き刺さる。
助けられた。でも、その声に私は応えられない。私はここにいるのに、彼女の世界にはいないのだから。
無力感と、何かを成し遂げたという奇妙な達成感が入り混じる。彼女の震える背中を見つめていると、急に視界がぐにゃりと歪み始めた。
まずい。
集中力が切れたのか、それともこの世界にいられる時間に制限があるのか。
青い世界が急速に色を失い、ぐらり、と体が傾く。早乙女さんの姿が遠ざかっていく。
そこで、私の意識はプツンと途切れた。
ぴっ、ぴっ、ぴっ……。
まただ。
消毒液の匂いと、規則的な電子音。
重い瞼を開けると、そこは再び、見慣れてしまった病院の白い天井だった。
「水希!また倒れてたのよ、洗面所で!」
駆け寄ってきた母の焦った声が、ぼんやりとした頭に響く。腕には、またしても点滴のチューブが繋がれていた。
「……また……?」
「そうよ!一体どうしちゃったの、本当に。お医者様も、ただの過労にしては頻繁すぎるって……精密検査も考えましょうって言ってるのよ」
母の心配そうな顔を見ながら、私は自分の手のひらを見つめた。あの少年を叩こうとして、すり剥けたはずの場所。そこには、うっすらと赤い擦り傷が、確かに残っていた。
夢じゃない。幻覚でもない。
私は確かにあの青い世界へ行き、力を使い、早乙女さんを助けたのだ。
そして、倒れる。まるで、力を使い果たしたかのように。
あの世界での活動は、私の体に相当な負担をかけるらしい。それは、ただの精神的なものではなく、擦り傷のような物理的なフィードバックさえ伴うのだ。
「水希、聞いてる?」
「……うん。ごめん、心配かけて」
力には、代償が伴う。
そのことを、私はこの時、はっきりと理解した。
窓の外は、もうすっかり朝になっていた。ガラスに映る自分の顔を見つめながら、私は思う。
あの世界は、一体何なのか。
そして、この力で、私はこれからどうすればいいのだろう。
誰にも言えない秘密は、確かな手応えと、未知なるリスクを伴って、私の日常に深く根を下ろし始めていた。
その日を境に、私の日常は二つの顔を持つようになった。
昼は、回復に努める普通の高校生。そして夜、誰もが寝静まった頃、私は水鏡を通り抜けて「観測者」となる。
何度も繰り返すうちに、コツのようなものが分かってきた。
あの世界にいられる時間は、私の精神力、あるいは体力に比例するらしい。そして、干渉すればするほど、消耗は激しくなる。だから、無駄な力の行使は避けるようになった。
私は、様々な水鏡から世界を覗いた。
街角のショーウィンドウ、雨上がりの水たまり、誰かの瞳に映る景色。そこには、数え切れないほどの日常があった。喧嘩する恋人、笑い合う親子、道端でうずくまる孤独な老人。私はただ、それらを眺める。時には、そっと小石を投げて猫を驚かせ、危機を知らせてやることもあった。それは、さながら神様ごっこのようだった。この力は、誰にも知られてはいけない、私だけの秘密。私だけの、正義。
そんなある日、私はいつものように、自分の病室の窓ガラスから、外の世界を覗き込んでいた。
時間は深夜。病院のロータリーに、一台の車が停まっているのが見えた。その車窓に、何気なく意識を向ける。
そこに映っていたのは、夜のプールだった。
私がすべての始まりを経験した、あのスポーツクラブのプールだ。
懐かしさに、ふっと意識がそちらへ引き寄せられる。気づけば、私はあの静まり返ったプールサイドに立っていた。青みがかった、静寂の世界。
ああ、ここから始まったんだ。
感慨にふけりながら、私は巨大な水鏡――プールの水面へと近づいた。
いつものように、そこには私の姿は映っていない。ただ、青い天井が静かに揺らめいているだけ。
その、はずだった。
「――え?」
声にならない声が漏れる。
水面に、何かがいる。
それは、ゆっくりと形を結び、やがて、はっきりとした輪郭を持った。
私だった。
水泳用のジャージを着て、濡れた髪をした、私自身。
水面に映る「私」は、まるで底から浮かび上がってくるように、じっと、こちらを見つめている。その瞳は、ガラス玉のように冷たく、何の感情も映していなかった。
違う。これは鏡じゃない。
鏡なら、私が動けば、同じように動くはずだ。
だが、水面の「私」は、私が後ずさっても、微動だにしない。ただ、不気味なほど静かに、私を「観測」していた。
ぞくり、と全身の肌が粟立つ。
これは、私が今まで見てきた「景色」とは全く違う。異質で、危険な何かだ。
逃げなければ。
本能が警鐘を鳴らす。踵を返し、元来た窓――現実世界への出口へ向かって走り出そうとした、その瞬間。
水面から、ぬっ、と「それ」の腕が伸びた。
水でできているかのように透明な腕が、信じられない速さで私の足首を掴む。
「きゃっ……!」
冷たい!氷のように冷たい何かが、私の体に直接触れている。今まで、この世界ではありえなかったことだ。抵抗しようにも、力が全く入らない。まるで、魂だけを吸い取られていくような感覚。
「いや……離して……!」
「それ」は無表情のまま、私を水面へと引きずり込んでいく。
私は必死にもがき、近くにあったビート板を掴んで投げつけようとした。だが、掴んだはずのビート板は、砂のように指の間からサラサラとこぼれ落ちていく。力が、効かない。
水面に引きずられ、体が水鏡を通り抜ける。
その瞬間、世界が反転した。
青みがかった世界が色を取り戻し、肌に生暖かい空気と、塩素の匂いが戻ってくる。
成功した。戻れたんだ!
安堵したのも束の間、私は信じられない光景を目にした。
ずぶ濡れの「私」が、プールサイドにゆっくりと立ち上がるところだった。
水滴を滴らせながら、それは私の病室があった方角へと、おぼつかない足取りで歩き出す。そして、私の方を一度だけ振り返った。その口元が、ほんの少しだけ、歪んで笑ったように見えた。
「待って……!」
叫ぼうとした声は、音にならなかった。
手を伸ばしても、もう「それ」には触れられない。私は、再び青い世界に取り残されていた。いや、今度はもっと深い。もっと濃い青の世界に。
気を失えば、戻れるはずだ。
そう信じて意識を飛ばそうとしても、もう意識は途切れなかった。どれだけ願っても、どれだけ疲弊しても、私はこの青く冷たい牢獄から出られない。
時折、水鏡の向こうで、楽しそうに笑う「私」の姿が見える。母と腕を組み、友人たちと談笑し、私の日常を完璧に奪い去って生きている。
私は叫ぶ。水鏡を叩き、必死に存在を知らせようとする。
だが、もう誰も気づいてくれない。
たまに、迷い込んできた人間を、あの時の「私」のように引きずり込もうと試みることがある。だが、力が足りないのか、彼らの抵抗が強いのか、一度も成功したことはない。できることと言えば、物を投げて脅かしたり、不可解な現象を起こして、彼らの世界にほんの少しだけ波紋を起こすことだけ。
私は、ポルターガイストになったのだ。
誰かにとっての「不可解な現象」として、永遠にこの水鏡の世界を彷徨い続ける。
ああ、誰か。
誰か、この水面に映る、本当の私に気づいて――。
私の声は、もう、誰にも届かない。