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白日の墓

作者: 有栖川 幽蘭

朝の光が、障子を通して乳白色の四角い形を畳の上に投げかけている。その光の中を、無数の塵が、まるで意思を持っているかのように、ゆっくりと生まれ、きらめき、そして消えてゆく。遠くで豆腐屋の喇叭の音が聞こえる。ぽお、と、気の抜けたような、それでいてのどかな響き。それは、私がいるこの部屋とは全く別の、健やかな世界の音だった。


私の世界は、この一組の布団の中だけで完結していた。


布団は、私のための墓であり、同時に、唯一の砦だった。 外の空気はまだ肌寒く、その冷たさから私を守ってくれるのは、この使い古された綿の厚みだけだ。日に干された木綿の匂いと、私の眠りの匂いが混じり合った、生温かい空気がそこには満ちている。この中に身を沈めている限り、私は誰でもなく、何もする必要のない、ただの呼吸する塊でいることが許される。昨日も、その前の日も、こうして私は世界の始まりを、この砦の中からやり過ごしてきた。


しかし、その安寧は、いつしか私を蝕む毒となる。


瞼はとっくに開いているというのに、身体を動かすことができない。上に掛かった布団が、水をたっぷりと吸った綿のように、ずしりと重い。 それは私の胸を圧迫し、手足を縛り、私という存在をこの寝床の底へと縫い付けようとする。起き上がらなければならない、という意識だけが、その重圧の下で、もがき苦しむ小さな虫けらのように、空しく蠢いている。


起き上がって、何をするというのだ。顔を洗い、着物を替え、あの書斎の机に向かうのか。そして、昨日と同じように、ただの一行も書けないまま、インクの染みを眺めて一日を終えるのか。言葉は枯れ果て、思考は干上がり、私の内側はがらんどうの洞窟と化している。その空虚さを、私は誰よりもよく知っている。だからこそ、この布団の重みが、むしろ心地よくさえ感じられるのだ。この重さに身を任せていれば、自分の空っぽさと向き合わずに済む。


私は寝返りを打ち、壁の方を向いた。土壁の染みを、じっと見つめる。 それは、ある部分では古い地図のようにも見え、またある部分では、見たこともない獣の横顔のようにも見えた。意味のない形に、意味を見出そうとすること。それが、今の私にできる、唯一の精神活動だった。私の主観的な知覚だけが、この停滞した部屋の中で、かろうじて生きている世界の断片だった。


不意に、階下から聞こえてくる味噌汁の匂いが、私の孤独を鋭く抉った。家族の誰かが、新しい一日を始めている。食卓を囲み、言葉を交わし、今日という日を生きてゆくのだろう。私だけが、この時の流れから取り残されて、温かい墓の中で、ゆっくりと腐敗してゆく。


このままではいけない。


その焦燥は、熱を伴わない、冷たい炎のように内側から私を焼いた。私は、ゆっくりと、一本の腕を布団の外へ伸ばしてみた。まるで、それが自分のものではない、どこか別の生き物であるかのように、ぎこちなく。


腕に触れた空気は、刃物のように冷たかった。肌の表面で、鳥肌が立つのが分かった。しかし、その鋭い感覚が、麻痺していた私の意識を、無理やりに覚醒させる。そうだ、私はまだ、感じることができるのだ。


私は、その腕に全ての意志を込めて、布団の縁を掴んだ。そして、あたかも深海の底から浮上するかのように、ゆっくり、ゆっくりと、上半身を起こした。


重い綿の塊が、滑り落ちてゆく。解放された私の身体は、あまりに軽く、頼りなく感じられた。部屋の空気が、剥き出しになった肌にまとわりつく。砦は、もうない。守ってくれるものは、何もなかった。


私は、乱れた寝間着のまま、しばらく畳の上で座っていた。目の前には、朝の光に照らされた、ありのままの部屋の姿があった。埃の舞う、静かで、がらんとした空間。


虚しい。しかし、不思議と、あの布団の中にいた時のような息苦しさはなかった。私は、重力の法則に従って、ただそこに座っている。それだけのことだったが、それは一つの、確かな勝利であるように思えた。


やがて私は、おぼつかない足取りで立ち上がり、障子を少しだけ開けた。街の騒音が、生々しい現実となって部屋の中へ流れ込んでくる。私はそれを、ただ黙って受け止めていた。

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