豆田町のニーナ
九州に小京都と呼ばれる町はいくつか存在するが、この大分県日田市の豆田町は、何とも言えない可愛らしい名をしているではないか。
この豆田町は、季節折々の行事があり、大分県の他の観光名所とも名を連ねている。
私は、実家の小さな菓子屋が存在するこの豆田町で生まれ育った。
私にとって豆田町はいつも、何となく不便で古臭く感じられて、観光客がいるのが当たり前なのも嫌であった。
そのため私が大学や県庁のある方へ出て来たからには、再び戻ることはないと思っていたのである。
対して母は、元々豆田町の人ではなく、父の実家に嫁入りしたひとだ。母は、父を早くに亡くした後もこの豆田町と菓子屋である父の実家を捨てずに生活していた。豆田町を愛していたのである。
数ヶ月前、そんな母が急死した。
私はと言うと酷くそれが堪えた。だが、勤めて葬式のときも気丈に振る舞い、精神力を使い果たしていた。
そんな精神状態も影響したのだろうか。他人の手へと渡る我が家を見たとき、何とも心細く淋しく感じられて、無我夢中のうちに大学を止めて、住んでいたアパートさえも契約を解除し、いつの間にやらまたこの豆田町へと舞い戻って来ていた。
それから私の豆田町での生活が始まったのである。
実際に暮らしてみると、歴史ある城下町の良さがわかって来たのか、何とも趣深く、可愛らしささえ感じられてくるではないか。
兎にも角にも、私にとってこの豆田町は思い入れの強い場所であることは間違いない。
九州では主に、二月上旬から中旬頃まで梅が咲き誇る。古から、春の季節の代名詞のように言われるのは桜であるが、私はどちらかと言うと、この梅の方が好ましく思える。
そんな梅の咲く季節、近々に迫った雛祭りのイベントに向けて豆田町は準備を始めた。
このイベントは非常に可愛らしい。煌びやかな和服を着飾った幼子達が、流し雛をするのである。
私も幼い頃、このイベントのために新しく和服をこしらえて、瞳に輝きを灯してやった記憶がある。
私のカフェに、隣の家の少女が新しく仕立てた和服を披露しに来ていた。
「髪飾りが可愛らしいでしょう」
「可愛らしい。長い髪に映えて似合っている」
この少女は鞠菜と言って、私がカフェを始めた頃から毎日遊びに来ている。
カフェを始めたばかりの頃、私の心は母を失った悲しみと不安で溢れていた。そのためこの少女の存在は心の支えとなっていたから、実は私はこの少女に頭が上がらないのである。
と、そんなことを考えていた私であるが、鞠菜は何か少女らしい可愛らしい思考を巡らせていたらしい。
「お姉ちゃんも和服で私と流し雛ができたら良いのに」
「私?」
一瞬の驚きと、後のむず痒さが体を駆け抜ける。
「まさか」
少女達に囲まれ和服で流し雛をする自分の姿と言うものは、想像してみるとなかなか滑稽なものだ。
私はその滑稽さに笑いを堪えるのが必死であった。なぜならば、私と違って鞠菜はきっと、真剣なのだから。
「私、母さんにお姉ちゃんの和服を仕立てもらえるか聞いてくるわ。きっと、大丈夫」
彼女が真剣な目をしているのが可笑しくて、私は駆け出した鞠菜を引き留めることもできずに、キュッと口唇を結んでいるしか術がない。
あぁ、どうしようか。きっと彼女はその幼くも真剣な考えを母親に話したりなんかしたら、それこそ笑われてしまうだろう。
そうして、その何気ない笑い声は、彼女の自尊心をほんのちょっとだけ傷つけてしまうのだ。
予想通り、数時間後に彼女は目の下を紅に染めて私の所に来たのである。私のカフェにはその数時間の間に、たった一人、客が来ただけだった。
私より二、三歳が上に見えるその男性は、見慣れた顔ではなかったからきっと、観光客なのであろう。
彼はブレンドコーヒー、と一言呟き、それからは一言も話さなかった。
その無口な彼は、あの日から決まって午前中、鞠菜が帰ってしまってから来る。
店にいる間一言も話さずに、こちらを伺うようにコーヒーを口にする。
私はふと思った。彼、甘味は嫌いなのかしら。
そうかもしれない。だから毎日ブレンドコーヒーばかり。ああ、そうに違いないわ。ああ、甘味が嫌いなお客様のこと、考えていなかった!
そう考えたらいてもたってもいられなくて、私は甘味のない、しかしコーヒーにとても合うクッキーの試作に取りかかった。
「良かったら。試作なんです」
私は試作のクッキーを、あの人に食べてもらうことにした。だって、彼の意見が一番参考になるもの。
すると彼は、一瞬驚いたような顔をして、
「いえ、僕は」
と。
断られることは想定していたから、素直に言う。
「あなたに召し上がっていただきたいのよ」
「君がそこまで言うなら」
彼の容姿は、毎日来ている黒いハイネックの似合う、涼しげな雰囲気をまとっている。そのためか、大きく長いその指が、シンプルな可愛らしいクッキーを掴み取り、その口に持って行く様は、少しむず痒かった。
私はつい笑ってしまいそうで、やはり口唇をキュッと結んでいるしか術がなかったのである。
そうして彼の滑稽な様を見ていると、何だか親しみさえ沸いてきて、自然と話しかけていた。
「最近越してきたの? うちの近所かしら」
「知らないのか」
私の質問に、意外そうにそう応えた。
「ごめんなさい」
何だか失礼なことでもしてしまったかと思って、謝る。私は時に情報に疎い時があった。
「いや、鞠菜が毎日ここに来ているようだから」
「鞠菜を知っているの?」
「知っているも何も、僕は彼女の叔父ですから。仕事で豆田町に来ているのです」
そう言えば、鞠菜から叔父が来ていると聞いていた。
「叔父ってあなただったんだ。でも、私叔父って言うから、もっと年が上だと」
「僕は鞠菜から君のことを聞いていましたよ。ニーナさん」
新名。それは私の名字であり、近所でもそう呼ばれていた。
「そうなんだ。あなたはやはり、八木田さんと言うの?」
八木田と言うのは鞠菜の名字である。
「俊彦で良いです。僕もニーナさんと呼ばせてくれますか?」
「八木田俊彦さん。そうね、八木田はお隣さん皆だし、俊彦さんと呼ばせてもらいます」
それから私達は、数時間互いのことについて話した。俊彦さんは、やはり私より三つ年上で、私も読む地方雑誌のライターをしているらしい。
「あの日、鞠菜が隣のお姉ちゃんにも和服を仕立てて上げるんだって、義姉さんに泣きついたのを見ましてね」
「あ、やっぱり泣いたんですね」
「流し雛ですか。ともかく子供のとんでもない提案を許したその人に一目会いたくなりまして」
「いえ」
それは、私が笑いを堪えるのに必死で、彼女を引き留めることができなかったからだ。
「大変言いにくいのですけれど、私笑っていたの」
ことの詳細を話すのは気が引けたけれど、まさか私が流し雛のイベントを一緒にしたいと考えたと思われたくはなく、仕方なしに打ち明けた。
「そう言うことだったんだ」
「私、すぐに笑ってしまうんです。笑うと何もできなくなって……あ、」
私は先程の、俊彦さんがクッキーを食べる様を思い出してしまったのだ。
「ふ、ふふふ。もう、だめ」
私が口を手で覆って笑っていると、俊彦さんは極まり悪そうに頬を染めて、目線を反らした。しまった、やっちゃったかな。
「だから嫌だったのに。僕、自分が菓子が似合わない男だってことくらいわかっているんですよ」
その頭を垂れて恥ずかしそうにする様がまた、滑稽で。
「ふふふ」
「君は本当に意地悪だ」
「ふふふ」
いつまでも笑っている私の前にいることがいたたまれなくなったのか、俊彦さんは会計を済ませようとした。
「ごめんなさい。私、何だか笑だすと止まらないのよ。でも、その代わり滅多に笑わないのです」
「僕のことはあんなに笑ってらしたのに」
「怒ったかしら」
「……君の、その悪びれない笑い方は、本当に意地悪い」
俊彦さんはああ言って店を出たけれど、試作のクッキーは四枚全て平らげていた。
早速、明日からコーヒーのセットメニューに決定。
「ニーナさん」
「あら俊彦さんいらっしゃい」
あんなことがあった次の日なのに、俊彦さんはまたやって来た。今日は、午前中にもかかわらず、三軒先の玉樹君が先に来ていた。
「玉樹君、こちら八木田さんの弟さん」
「玉樹です。君が文彦さんの」
「はじめまして。先客がありましたか。こんにちは、ニーナさん。僕、昨日のクッキーの感想ちゃんと伝えていなかったから」
「ああ、それならば、完食なさっていたから。今日からメニュー入りです」
俊彦さんは意外そうな顔をした。不安がよぎる。
「あれ。もしかして、メニューにするのは不味かったかしら」
「いえ、」
俊彦さんは、そこで言葉を切った。
玉樹君は、そんな私達のやり取りで新メニューのことが気になったようである。
「おや、新しく増えたのかい。新名さん、試作のメニューは僕にと言ってあるだろう」
この甘味の大好きな玉樹君には、デザートの意見をいつも伺っている。年も私より一つ下だから、相談しやすくて良いのだ。
「今度、甘味の少ないデザートに挑戦したのよ。ニーズがあるかなと思って。玉樹君は甘党だから、参考にならないでしょう」
「文彦さんの弟さんはいかにも菓子が嫌いそうだ」
「でしょう」
昨日のやり取りで、菓子が似合わないと言っていたのを思い出す。
「あ、俊彦さん。今日もブレンドコーヒーで良いの?」
「ええ。あ、や、昨日の」
「クッキーのセットね。ふふふ」
玉樹君と世間話をする間、俊彦さんは無言だった。やっぱり、無口なひとなのかしら。
「じゃあ、僕はそろそろ。新名さん、次の試作は必ず頼みますよ」
「はいはい」
玉樹君はこれから流し雛の話し合いがあるらしい。彼は若くしてあのイベントの主催者である。
それまで無口だった俊彦さんが、徐に口を開いた。
「甘味が、嫌いな訳ではない」
「え?」
あまりに突然だったので、私は頓狂な声を出してしまった。
「僕は甘味、好きですよ」
「でも、昨日ああおっしゃったから」
「僕が菓子の似合わぬ男だと言う話しでしょう。確かにそうですが、それで甘味が嫌いになるわけではない」
「まぁ。そうなんですか」
「玉樹、と言いましたか。彼はいかにも甘党のようで羨ましいです」
そう言う俊彦さんの背中は丸まり、物憂げで、このひとは何とコロコロと様の変わるひとだろうと思うと、私はまた可笑しくなった。
「ふふふ。あ、お昼になっちゃいましたね。俊彦さん、カフェはね、コーヒーとデザートのためだけに有るのではないのですよ」
今度は全身に困惑 の雰囲気を纏った彼を横目に、私はパスタを茹で始めた。
「ついでにお食事はいかが。今日は奢りますよ」
俊彦さんは、今度は彼らしく、豪快にパスタを啜った。この食べるぷりならば、沢山作って良かったかもしれない。
つくづく、見ていて飽きないひとである。
「鞠菜から、お菓子の話ししか聞いていませんでした」
「鞠菜には、いつもケーキを出すのよ。だからかも知れません」
「おいしかった。今度から食事をしに来ます」
「ええ、いつでも」
食後にコーヒーを飲みながら、そんなことを話す。
「ところで、俊彦さんはライターとおっしゃっていたけど、いつまで豆田町に?」
「いえ、」
彼は少し決まり悪そうに、声を潜めてこう言った。
「僕、実は本職はライターではないんです」
「まあ」
「逃げてきたんですよ、豆田町に」
聞くと彼の本職は、小説家であると言う。
「小説家……ペンネームは?」
「その、何と言うか。一応、梛木沢晴と」
「まあ」
梛木沢晴は、世間一般では天才と歌われる人気作家である。
大分県出身とは聞いていたし、確かに地方雑誌に連載が組まれている。
「スランプなんですよ。それで、この豆田町から何かインスピレーションを得られないかと」
「そうなんだ」
私は特に小説を熱心に読むわけではないが、最近梛木沢晴の作品が出ていないと風の噂で聞いたことはあった。
「それで、インスピレーションはありましたか?」
「ええ、一応。この豆田町が舞台のものが一つ。だから、ここで執筆しているんです」「そう言うことだったの」
そう言った後俊彦さんは黙ってしまって、空になったティーカップを持て余していた。
「おかわり淹れますか?」
「いや、良い。それで、言いにくいのですがね。僕の作品が完成したら、まず君に読んで欲しいのです」
「私? えっと」
私は熱心ではないから、他の人が良いと思い、即座に断ろうとした。
「いや、そうでなく、ニーナさんに読んでいただきたい。ほら、君だって昨日僕にクッキーの味見を頼んだでしょう」
そう言われると、少し弱い。
「……狡いわ」
私は小説の件を承諾した。
それからは、執筆に集中しなくてはならないらしく、俊彦さんの顔を見かけることは少なくなった。
しかし、私が小説を読むのを承諾したことに彼なりに思うところが有るらしく、週に幾度か食事に来る。律儀なひとなのだろう。
流し雛のイベントまで数日に迫ったある日、鞠菜が来ていた。
「俊彦さん、元気?」
「何も食べないで書いてる」
「人気作家も大変ね」
俊彦さんが梛木沢晴であるという事実を知る人は、豆田町にはあまりいないようだった。
「お姉ちゃん、小説の件、引き受けたんだってね」
「まあ、ね」
「叔父ちゃん、喜ぶわ。お姉ちゃんに読んで欲しいみたいだったから」
「はあ」
それから、流し雛までの数日間で、俊彦さんの小説は仕上がったらしい。何も告げぬまま豆田町を去った彼から、原稿のコピーが郵送されて来た。
私はと言うと、あれ以来姿を見せない彼に寂しさを感じていたから、鞠菜から帰京の話を聞き裏切られた気持ちでいた。
小説を読む気にもなれず、まるで彼の存在を忘れようとしているかのように私は働いた。
イベントに向けて期間限定のデザートを作る必要があったのだ。
そうして私が重大なことに気が付いたのは、イベント当日の朝だった。ギリギリまでデザートが仕上がらず、朝一番で玉樹君に味見してもらうのは毎年のことだった。
だから、すっかり忘れていたのだ、今年は玉樹君がイベントの主催者だと言うことを。彼は忙しいし、今からはきっと呼び出せないだろう。
「どうしよう」
ふと、あの日の光景が蘇る。彼の手が大きくって、クッキーが小さく見えたのよね。
「ふふふ。……俊彦さん」
どうして何も言わずに帰京なんかしたのかしら。律儀なひとに思えたのだけれど。
目の前には桜をイメージした、シフォンケーキ。甘さが控え目にしたのは、何となく。いや、俊彦さんのことが消化不良であったから。
「俊彦さん」
「はい」
もう一度その名前を呼んでみたならば、何と返事が返って来た。
彼はやはり、黒いハイネックを着て、店のドアのそばに立っていた。
「味見してくださいますか?」
「その前に」
俊彦さんは私があるものを数日間放置していた棚を見てこう言った。
「僕の小説の感想が欲しいのですが?」
「……あ」
私は急に決まり悪くなって、俯いた。もちろん小説は、読んでいない。
でも、次に俊彦さんから返って来た反応は意外なものだった。
「ごめんなさい。いいんです。僕が悪い」
「そんな」
「僕はまた逃げたんですよ。今度は、君から。土壇場で恐ろしくなった。君がどう思うのか。その茶封筒ね、開けて見て下さい」
私は言われた通りに茶封筒を開けた。小説の原稿らしきものと、何やら文のようなものが入っている。
「その文、読んで。それが僕の気持ちです」
開けてみると、文らしきものには、たったの二行でこう書かれていた。
僕は君が好きみたいです。君も僕を好いてくれているならコレを着けて僕を待っていて下さい。
文の隙間から小さな貝殻をペンダントにしたものが出てきた。
「月日貝ですね」
上は太陽のように赤く、下は月光のように光る。ペンダントにはその月の方。
愛し合う二人がそれぞれを持てば、例え離れたとしても引き合うと言う、対の貝殻。
「本当はね、小説を読んで欲しいなんて言い訳なんです。カッコ悪いでしょう」
そう言う彼は、やっぱり頭を垂れて、全身で億劫を表現している。
その姿は、やっぱり滑稽だった。そしてその滑稽な姿は最早、私の中では愛しさを抱く対象でしかないことを、彼は知らないに違いない。
「ふふふ」
「君は、やっぱり意地悪だ」
「ふふふ」
私はしばらく笑っていた。ああ、どうしよう。私があなたを愛しく感じているのを、早く伝えたいのに。あなたの滑稽な姿をもう少し楽しみたい気もするの。
私は何気なく、気づかれないようにペンダントを首にかけた。
「こんどは、俊彦さんが味見をする番です」
俊彦さんが、ちょっと驚いた顔つきになる。
「ニーナは本当に、意地悪だ」
「舞で良いわ」
「舞?」
「私の名前。新名舞と言うの」
私の名前について、俊彦さんは何か勘違いをしていたらしい。
「じゃあ、ニーナは名字?」
「そうよ。ふふふ」
全く、このひとはどこまで私を笑わせてくれるのだろう。
「僕は以前君の笑い声は意地悪だと言っただろう」
「ええ」
「でも、僕が君を好きになった理由はそれなんだ」
世間で話題沸騰した梛木沢晴の新作は『豆田町のニーナ』と言う。
いかがでしたか。
この作品の舞台は豆田町といって、大分県日田市にあります。調査不足が怖い。
大分県日田市の出身の方がいたらすみません。
さて、長かった。
いやあ、これジャンルなんだろう。
期待はずれだったらすみませんが一応文学ってことにしておきます。
こんな作品ですが、僕としては一度にこんなに長く書いたのははじめてでして、それなりの達成感はありました。
感想いただけたら泣いてジャンピング土下座したいですね。