四節
その日、正午前にナイアスは目が覚めた。
飢餓に苦しむ身体が少しでもと食糧を求める。食べたくて食べたくて眠る事も出来ない。
そうして、疲弊した身体が限界を迎えた時に電池が切れた様に失神するように眠りに落ちる。最近の睡眠はそんな感じだった。村人達は皆そんな感じだろう。もしかしたら飢餓のあまり睡眠すら取れないものもいるかもしれない。
そうなれば体力の消耗は自然と激しくなり、失ったエネルギーを必要としてますます飢える。悪循環だ。今は皆少しでも大量を温存するのが賢い。
おそらく、ナイアスはまだいい方なのだ。
起き抜けには、猛烈な飢えと乾きを感じた。朝食を作る様な備蓄など言うまでもなくなかった。旱魃に端を発した飢饉とはいえ幸いにして飲み水までは不足しなかったので、コップに注いだ水を何杯も飲んで少しでも空腹を紛らわせた。
レーテは骸骨じみた体躯で壁際でうずくまっていた。ナイアスは水で満たしたコップをレーテの側に置く。
「お母さん、おはよう」
ナイアスの挨拶に、レーテは反応して口の中だけでぶつぶつと何かを言った。聞き取れないが、おそらく挨拶を返したわけではないのだろう。
レーテもまた、今にも朽ちそうな様でそれでも何に執着してか、生きていた。
ナイアスは重い体、いや、感覚が遠くなり時に軽くも感じる体を動かし何とか身支度を整えて、家を出た。
その日は食糧が配給される日だった故に分配する広場に来て、食糧を手に入れる。本当に僅かばかりで、日々手に入る食糧は減ってくる。だがまだ配れる分があるだけマシと考えるべきか。
村の何処を探しても、村の周りを探索しても何も食糧が手に入らなくなったら、破滅は秒読みだろう。
「頼むよ。娘が動けないんだ!この通りだからさ」
ナイアスが家の近くまで戻って来た時に、そう言って隣近所の夫人がやはり近所のある旦那に頭を下げているのを見つけた。
「そうは言われてもね。ウチだって子供もいるし、妻もいつ倒れてもおかしくないんだ。俺自身の分をあいつらに分けているくらいで、到底俺の所から出せる余裕はないんだ」
「そうだよねぇ、すまないねぇ。無神経な事言って」
男に断られて、夫人は涙を浮かべて謝っていた。夫人はエルが死んだ後にレーテ達の家に手助けに来てくれたセクアナの母親だった。
「セクアナの事は気の毒だと思うが……他を当たって見た方がいい」
男も滅多な事は言えずに、結局無難な気休めみたいな所に落ち着いてしまった。
勿論夫人も男も分かっている。餓死者が出始めている現状で食糧を無心しようにもどこもそんな余裕がある訳がないのだ。
最早、体力のない者から倒れ伏すのはどうしようもない段階といえた。
夫人は頭を下げてその場を辞した。だが、彼女は気丈に顔を上げた。諦めてはいない。諦めてなんてたまるか。無駄かも知れないが自分の体力を浪費しても村中頼み込んでみるつもりだった。
「おばさん」
その様子を見ていたナイアスが夫人に声をかけた。
「ん、あぁ、ナイアスちゃんかい。そっちも大変だねぇ、レーテちゃんの様子はどうだい?」
「セクアナ、調子わるいんですか?」
聞かれた母親の事は黙殺しつつ、気になった事を尋ねた。
はぁ、と溜め息を一つ吐いて夫人は口を開いた。
「こんな時だから流石に元気な人なんかいやしないよ……ただ、あの子は今朝がたからとうとう殆ど起き上がれなくなってねぇ」
「元々は元気な子だから体力もあるかと思ったんだけど、もしかしたら元気な分他の子より食べ物を必要だったのかも知れないねぇ。少しでも食べさせないと体が持ちそうになくてねぇ」
気の強い夫人だったが、流石に娘の事となると不安を声に滲ませていた。それはそうだろう、このまま行けば実の娘が次の餓死者になる。
「ごめんねぇ、こんな話してさ、なんとかこっちはしてみるから、ナイアスちゃんたちも頑張るんだよ」
そう夫人は強がった。無論先の男は他を当たれと言ったが、本来助け合いで成り立つこの村ですら言うまでもなく、もう他人を助けている余力のある所は何処にもない。
食糧を無心しても恐らく無駄なのは分かっている。
故にセクアナは二つ持つ食糧の袋。燕麦など穀物と干し魚が入った一つを差し出した。
「なら、これをセクアナに食べさせてあげてください」
夫人は目を見開いた。
「えっ、でもこれはレーテちゃん達の分じゃ、こんな丸々貰ったらまずいんじゃないのかい?」
「大丈夫、です。お母さん最近あんまり食べなくて少しだけ余裕があるんです」
これは嘘ではなかった。レーテが殆ど食事に手をつけないのは事実だ。エルを亡くした後、最初のうちはレーテが食べるまでと食事を側に置いておいた。だが、それをやった結果貴重な食事を腐らせてしまった。
故に最近は、ナイアスが用意した食事はレーテの側に置いておくが、レーテは殆ど手をつけないので腐る前に食べる意思がないと判断してナイアス自身が食べていた。
悪い事をしているわけではない。村人達なら誰でも僅かでも欲しがる貴重な食糧を腐らせる訳にはいかない。だが、本来レーテの分の食糧をナイアスが食べる事になっている。
本人達が食べる意思がないとはいえ、ナイアスは父親と母親に同じ事をしている。その後ろめたさがあった。
だが、結果としてエルの生前から今までナイアスは一人分多く食糧を取れていた。その為、ナイアスの飢餓状態は他の村人と比べると少しマシだったのだ。
差し出したのは、レーテの一人分。別にレーテに食事を与えない訳ではない。だが結局それも自分の腹に収まると考えればやはり自分一人分の食事は取れるという計算があった。
無論、それにしてもナイアスは次の配給まで自分が得られる食糧のアドバンテージを放棄する事になるから、勿論痛い。だが、他の人の一人分の食糧を切るよりもまだマシだ。
夫人はナイアスを強く抱きしめた。
「ありがとう。ナイアスちゃん、助かるよぉ。ありがとうねぇ」
「いいん、です」
夫人は震える声でお礼を言った。飢餓状態の何処にこんな力があるのか、本人自身が痩せ細っているナイアスからすれば軽く潰されそうな程苦しかった。
勿論夫人も昔馴染みのナイアスとレーテの分を奪ってしまう後ろめたさはあっても、もう娘の為になりふり構っていられないのだ。だからせめて必死で礼を言った。
「でもナイアスちゃん。なんで私なんかに」
「それは……おばさんと、セクアナ、お父さんが死んだ時に助けてくれました。嬉しかったんです」
「これは、そのおかえし」
「ありがとうねぇ、ごめんねぇ、おばさん何も出来なくって」
現在、母親が狂気に陥って自分でなんとかするしかないナイアスの現状を分かっていながら殆ど何も出来ず、それどころかそんな子供から施しすら受ける自分が情けなくて涙した。
「いい、んです。セクアナに食べさせてあげてください」
夫人は何度も礼を言ってナイアスと別れた。
その後、帰宅してナイアスは手に入れた食糧のほんの僅かな量を水分でかさ増しした食事を容易した。
寝室でうずくまっている母親に、食事を運ぶ。すると、やはりレーテは食事に手をつけずに、じっと昏く、落ち窪んだ眼でナイアスを見ていた。
感情の伺えない虚ろな眼でずっとずっと見つめてきた——
………
……
…
ある日の深夜。飢餓感で眠るに眠れず、しかし体力の限界で失神するように深い眠りに落ち、暫くしてふとナイアスは目を覚ました。
いつもの飢えと乾き。これのせいでやっと眠れても、あまり長い時間眠り続ける事が出来ず目が覚めてしまうのはいつもの事だった。
ともかく乾きを癒し、飢えを紛らわす為に水を何杯か飲む。後は体力の温存の為に眠れなくても横になっておくのが賢いのだが。
「お母さん」
ふと、気が付いた。寝室にレーテが居ない。最近は殆ど動かないから存在感がなく、居なくなっている事に今更気がついた。
また、村を徘徊しているのか。今までも深夜にもたまにあった。しかし、こんな星くらいしか光源のない村の暗闇の中を灯りも持たずに体力も限界でフラフラな状態では危険だ。
心配なのはある。そもそもあんな餓死していないのがおかしい程衰えている状態では、徘徊したまま横死してもおかしくはない。
しかし、それとは何か別の、胸騒ぎのようなものがあった。
母を探さないと。そう思い寝室を出て、手探りで探したランタンに火を灯して家を出る。
しかし、何処に? 当てがない。レーテの行動は特に規則性がない。例えば生前のエルとの思い出深い場所を巡っているというわけでもないようだ。
地面が平坦な村の中を徘徊する分には危険もそんなにはないだろう。だが、村を外れたら?
民家のすぐ近くに口を開いている森をナイアスは見やる。深夜にこんなところに入ってしまったら?
何故今夜に限って森が気になるのか? しかし、夜中は静寂に包まれている森の木々が今夜はざわついているように感じるのは気のせいだろうか。
今夜の嫌な予感が森の中から感じられるのか気のせいだろうか。
少しだけ、少しだけ、森の中の様子を見てみよう。それで何もなければ他を探そう。そうナイアスは考えた。
実際ランタン一つで齢十程度の子供が深夜の森に踏み入るのは危険すぎる。そんなのは本人も分かっている筈だ。
後から考えるに、ナイアスはこの時森に入らなかったなら。きっと彼女の人生はどういうものであれ、大分違ったものになっていた筈だ。
ランタンの灯りを頼りに足元に気をつけながらナイアスは森に分け入った。
母を探すにしても当てどもない。しかし、この時ナイアスの皮膚感覚が鋭敏に周囲の気配を捉えていた。
元々ナイアスは運動能力や感性に特別秀でた子供という訳ではない。しかし、この時は暗闇の中の周囲が明晰に感じられた。
それは飢餓により、人間の原初の獣としての能力が一時的に発露したのかも知れない。
人がいる、気がするのだ。この森に。
母はここにいるような気がするのだ、なんの根拠もない、ただの勘である。
しかし、ナイアスの闇に慣れた眼が木々の間に人影を捉えた。その人影は木々の間に分け入って消えた為に見えたのはほんの一瞬だった。
「お母さん?」
ともすれば見間違いかも知れない。だが、異様に痩せ細っているが髪の長さなどから女性、シルエットから老婆にも思えたが、ナイアスはそれがレーテと思えた。
ならば彼女はこんな深夜に一体森の中に何の用なのかと疑問に思うのはあまり意味はないだろう。そもそもレーテの徘徊に目的意識を見出すのも困難なのだから。
ともかく、ナイアスはその人影が消えた方向、森の奥に進んでいった。何となく嫌な予感が増していた。
この先は一体どうなっていただろうか?ナイアスは森をこの方向に抜けた事がないから分からない。ずっと森が続いているのだろうか? そうだったら不味いかも知れない。位置感覚や方向感覚を失って遭難するかも知れない。
幼くとも森の危険性は大人達に良く言い聞かせられていた。勿論時には森歩きもするし慣れてはいるが、こんな深夜では危険性も違うだろう。
たが、引き返さなかった。どちらにせよ母を連れ戻さなければならなかった。
進んでいった先に強い灯りが見えた。機械の駆動音が聞こえた。この独特の音は知っている、エンジン音。村では滅多に見る事はないが自動車だ。森の奥にあった開けた場所に停車していたようだった。
外の世界の、人? ゾッとした。ナイアスの村は基本的に外界の人々との接点はあまりない。だが、聞いた事はある。外界から離れたこの村を狙って時折外の人間の悪人が人攫いをする事があるという話だ。
本当に稀に、村人の中から子供や若い娘が行方不明になる事が今までにあったらしい。所謂神隠しと言われてはいるが、その真相はおそらく外の悪人の人攫い。そう村の老人にまことしやかに語られた事があった。
見つかったら、まずい。そう思って引き返そうとした時、車の方から何者かが降りてきた音がした。見つかった! ナイアスは思った。そうか、ランタンの灯りが向こうからも見えたんだ。複数人の気配がこちらに来る音がした。
何か、ナイアスには理解出来ない外国語で怒鳴りつけるような声を上げてきて、恐ろしくて彼女はランタンを取り落として走り出した。
「マチナサイ!」
追いかけてくる者の怒号にナイアスにもわかる片言の言葉が混じった。どうやらこちらの言語を解する者もいるらしい。
しかし、待てと言われて実際に待っていられる状況ではない。ナイアスは必死に走る。子供と大人の脚力といえど単純に森の中での行動はナイアスに一日の長がある。
が、追ってくる者達はライトを持っているようでナイアスを光の中に捕捉してくる。せめて光源が何もなければ木々に隠れる事も出来るのに。逆にナイアスはランタンも落として足元もおぼつかない。
結果、起伏の激しい地面の木の根に爪先を引っ掛けてナイアスは転倒した。すぐに追い縋ってきた男達の手に捕らえられてしまう。三人組の男だった。
外の世界の者とはいえ、彼らの顔立ち自体は村の人とそんなに変わりはない。人種としては然程離れてはいないのだろう。しかし風体は村人とは全然違った。
「———」
「——」
「やぁっ!!」
男達はやはり口々に何語かも分からない言葉を発しながら、捉えたナイアスを引き立てる。恐怖して男達の手を振り払おうとしたが、それはあまりにも無力過ぎた。
大人と子供の体格差。一対三の人数差。そもそも万全な体力の者と慢性的飢餓で衰えた体力。あらゆる面でナイアスに抵抗の余地はなかった。
「クルマニノリナサイ!」
「助けてぇ!」
一人だけいる、こちらの言葉が少し分かるらしい話者がそう指示しながらナイアスを引っ張る。車に乗せられたら駄目だ、そのまま何処かに攫われてしまう。そう思い少ない体力で必死に抵抗する。
助けをよんでも、ここは大分森の奥にまで入ってしまった為に村からは遠く、いくらなんでも声が届かないだろう。このまま連れ去られたら晴れてナイアスも神隠しの被害者だ。
「お母さんッ!」
男達の手で引き摺られるように、車へと引っ張られながらナイアスが母親に助けを求めたのは計算ではない。
そもそもここに来たのは母親がいる気がしたからであって、もしかしたら声の届く範囲に母親はいるのでは。と判断したわけではない。
「お母さん!おかあさんっ!」
ただ、自然と母親を呼んでいた。意識せずに母に助けを求めていた。もう父親はいない、彼女が助けを求めるのは最早母親しかいなかった。例えその母親が神経が衰弱仕切っていても。
森の入ってきた方、村がある方へと手を伸ばす。その手も男に掴まれた。そのまま引き摺り込まれて車はすぐそこだった。
「おかあさんッ——」
………
……
…
辺りには雨が降り始めていた。
飢饉の原因となった旱魃、雨不足だったが、久しく降った恵みの雨だった。
ぐちゃり、とぬかるんだ森の中をフラフラと駆けるナイアスはその恵みに対する感慨はなかった。
人間の底力だろう、僅かな隙をついて必死の抵抗で男達の車から逃げ出す事ことこそ出来たナイアスはしかし、殆どの体力と精神力を使い果たし、身体は軋み、痛みが走る。
それでも逃走出来たのは彼女の生の執念が起こした奇跡だったろう。
雨で濡れた衣服が肌に重くへばりつき、汚泥が絡みついてくるように鬱陶しく、ぬかるんだ地面を進むのは足が堪らなく重かった。
限界を迎えて、いっそ倒れ伏せたかった。そうして眠ってしまえば楽になれるかも知れない。
でも、ゆっくりでも進む。極限の彼女を突き動かすのは、男達が追ってくる危機感か、それとも当初の母親を見つけ出すという義務感か。
また、森の開けた所に出た。
そして、そこに幽鬼のように佇むレーテがいた。
「あ、」
レーテは現れた娘に気がついているのかいないのか、中空に眼を向けて立っていた。
彼女が目を向ける先には地盤が緩んで崩れたのだろう、切り立った崖状になっていた。
「おか、あさん」
崖の高さは精々四メートル、されど四メートル。人が落ちれば大怪我は充分するし、運悪く打ちどころが悪ければ命にも関わるだろう。
失意の底にいる人間は自死をする事は少ない。その気力すらないからだ。なら徘徊が始まった時点で、死ぬ程度の気力が戻っているのでは? と何故誰も思わなかったのか。
レーテの徘徊に気力を感じられなかったからか? だが、彼女の目的が失った夫の影を探す事だというのは推測は出来た。なら、最後は彼女は何を求めるのかも推測出来たはずではないか?
「おかあさんッ!!!」
ナイアスはそう叫び、一体何処に残っていたのか、最後の最後に残った活力で一気に母親に向かい駆け出した。
そして——
………
……
…
雨がザアザアと振り続いていた。
ナイアスは、森の中崖を迂回するルートを通って崖下までたどり着いた。
レーテは物言わず倒れていた。
半開きの瞳は何も映さず、ただ、破裂した頭蓋から灰色の脳髄と脳漿を豆腐のようにぶちまけて倒れていた。雨水が流れ出る脳漿と血と地面で混じり合った。
……四メートルの崖を運悪く頭から落ちて、更に運悪く崖下岩盤に打ち付けた事による脳挫滅。それでレーテは即死だった。
レーテの死体の側まで歩くと、ナイアスは膝から崩れ落ちた。
「おかあ、さん」
ナイアスは呆然と呼びかける。
「おかあさん」
また呼ぶ。
「お、かぁ、さん」
また……
「うっ、うっうっグスッ、うあぁぁぁっ、あっ」
ナイアスは暗い、暗い森の中、母親の遺体の側でひとりぼっちで慟哭した。
雨は少女に降り注ぐ。それは恵みの雨などではなく、骸と、全てを無くした少女に捧ぐ涙雨だった——




