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ヒュダトスミュトス  作者: ْ
一幕 天空
3/20

二節


 それより、後は相も変わらず。そんなにすぐに状況変わらず。村の問題は好転はしなかった。


 ほんの少しの食糧を村の皆で分け合い何とか食い繋ぐ。その時、レーテは夫が病で少しでも食糧が必要と頭を下げて少しでも多く分け前を頂戴する。


 村で一家で一人、図々しい行為かも知れないが。しかし、この状況でまだ若い夫が伏せってしまったのも村で今のところ一家で一人。それに村の者達は皆身内同士親切だから、表立ってレーテを悪く言うものもいなかった。


 飢餓が悪化していけば、その限りではないかも知れないが。


 しかし、エルは食事を辞退する。二人で食べてくれと食料を譲ろうとする。


 遠慮ではない、もう喉を通らないからだ。


 それでもレーテはそれを聞かず、重湯のように薄い燕麦の粥や柔らかく調理した副菜を必ずエルに食べさせようとする。


 やむおえずエルは、薄い粥をひと匙ふた匙だけ口にする。そのくらいならかろうじて胃が持つのだろう。後はもうお腹一杯だからナイアスがこれをお食べ、と娘に譲ってしまう。


 お腹が空いて空いて苦しいナイアスは、正直飛びつきたくなるほど欲しい。しかし、全然食べない父親も心配だから遠慮すると、殆ど父からは懇願されるようにされて結局父の分も食べる事になる。


 勿論後ろめたい思いがあるが、ナイアスは自分がいくら食べようとしなくても父は食べないだろうという確信はあった。貴重な食事を腐らせる訳にもいかない。


 しかし、そうして父親の分も食べる時決まった居心地の悪さが付き纏う。何故なら母が見てくるのだ。


 レーテは、決して口には出さない。しかし弱っている夫の貴重な滋養を奪っている事への憤懣がナイアスを見る眼には宿っていた。


 無論レーテとて分かっているのだ。もう夫が食べようにも胃が受け付けないのを。ならばせめて我々を助けようとしてくれているのを。だから結構口には出さない。


 だが、それでも何とか食べようとして欲しかった。故にレーテは決して夫の取り分を食べる事はしなかった。誰が悪いのでもない、少なくとも夫は悪くない。


 故に行き場のないやるせなさが、エルの分の食事を食べる娘を見る目に宿ってしまう。


 そう、誰が悪いのでもない。レーテも家族として夫に治って欲しい。エルもまた我が身の事より家族を助けたい。結果として夫婦の感情の板挟みで、極めて居心地の悪い中で、二人より少し多くの食事を取る事になった娘は果たして幸か不幸か。


 そして、自分の回復を諦めてしまった事によりエル自身の病状も加速的に悪くなっていった。ほぼ絶食状態という事もあるだろうが、自らの死期を悟ってからの変化はやはり病は気からという事だろうか。


 一週間もすると、意識があるかないか、眠っていない時でも朦朧とした状態で、レーテが必死に呼びかけてもうわ言しか言わない状態に陥ってしまった。


 そこから二日。水差しで水を与えても吐き戻してしまう様になった。もう胃腸が機能停止して水分すら受け付けなくなっていた。もうエルは命旦夕に迫っていた。


 翌日。ずっと朦朧としていて意識が定かではなかったエルの意識がはっきりして、久々に意思疎通が出来るようになった。


 レーテは瀕死の夫の回復を喜んだ。ナイアスも同様だった。だが、これは死の予兆だ。死の直前に病人が一時期に回復する中治り現象である。


 「レーテ、先に逝く事になるがすまない。お前は生きてくれ」


 エルは妻にそう言い残し。


 「ナイアス、お前が生まれてきてくれて良かった。お母さんの事、よろしくな」


 娘にもそう言い残した。彼は自分の状態が燃え尽きる前の蝋燭の最後の光だと理解していた。


 妻と子には、何故せっかく良くなってきたのに遺言めいたことをいうのかと涙した。ベッドで泣きつく二人の頬をエルは優しく微笑んで撫でた。


 最後の自分の事を思い出す時は笑顔であって欲しかったから彼は笑った。


 その晩にエルは急変して、昏睡状態となった。


 翌日。村の医者が立ち会いの元、苦しげでもなく穏やかにベッド脇で落涙する妻と娘に看取られながら、最後は一つ大きく息を吸い込むと、文字通りエルはゆっくりと息を引き取った——


………

……


 「困ったねぇ、レーテちゃん、ずっと旦那さんの所から離れないよ」


 「仲良かったですからね。レーテさんとエルさん。無理もないですよ」


 「そうは言っても流石に見ている方も忍びないよ。それにこのままじゃレーテちゃんまで倒れちまうよ」


 あれから二日、ナイアスの家では隣近所から来てくれた夫人二人が台所で手仕事をしながらそんな話をしていた。


 やはり夫人達もかなり飢えているのかげっそりやつれているが、それでもこんな時にナイアス達一家の助けに来てくれるのはそれだけこの村が相互扶助で成り立っているという事だろう。


 そんな二人の話を尻目に、ナイアスは壁を背に床に膝を抱えて座っていた。父親を亡くし泣き腫らした眼はどんよりと昏く濁っていた。


 「とにかくこんな時だからレーテちゃん達もちゃんと食べなくちゃ」


 「そうですね。それからエルさんも弔ってあげないと」


 「レーテちゃんを引き離すのが大変かもねぇ」


 あの様子じゃ。と夫人は憂鬱そうに息を吐いた。


 「ともかく食べて貰わなくちゃねぇ。残された人間は生きて、食べなきゃだから」


 「そうですね。どんな時だった生きていればお腹は空きますから」


 「ナイアスちゃんも、お腹空いたろ? 大丈夫だよ、今作ってるから」


 そうナイアスにも声をかけつつ、二人は食事の支度をしてくれていた。


 若くして夫を亡くし、父を亡くした母子を哀れんで村中が苦しいなかで少しずつ食糧を分けてくれたのだ。言ってしまえば香典に当たるのだろうが、皆飢えに苦しんでいる中で食糧を出すのはかなり痛い筈だ。


 それだけこの村の人達は暖かかった。


 ナイアスは答えない。疲れていた。母親はずっと父の遺体に取り縋ったままで、娘を鑑みてはくれなかった。余りにも大きすぎた悲しみにそれどころじゃないのだ。


 むしろ今の自分を気遣かってくれるのは家族ではないという皮肉、そんな不必要に暗い考えに囚われる程にはナイアスも疲れていた。


 そんな彼女の前に一人の少女が立った。


 一緒に訪れた隣近所の夫人の娘である。近所だし、そもそも皆顔見知りの村だからナイアスも今までそんなに話した事はなかったが知っている相手だ。


 名はセクアナと言った少女はナイアスより歳は一つ上だった。その為少し背はナイアスより高い。


 ナイアスは色素の薄い蒼髪に透き通るような白い肌をしているのに対して、セクアナは少し癖があって跳ねた艶やかでコシの強そうな黒髪を肩にかかるかかからない程度の長さにしていた。


 栄養状態が悪い今でこそ肌色が悪いが、本来は血色がよく健康的な肌をしているのだろう。


 彼女は、痩せてはいても活発そうな愛嬌のある顔立ちで暗く沈んだナイアスの顔を見ていたが、やがてしゃがんでナイアスの手を取った。


 「だいじょうぶ」


 一言での励ましだった。そして更に続けた。


 「すぐに皆お腹いっぱい食べられるようになる。皆元気になる」


 「……うん」

 

 ナイアスは暖かい少女の手を一つきゅ、と握り返した。


 そういえばと思い出した。お母さんは良く私の手を握るとナイアスの手は冷たいと言っていた。そしてこう続けた、手の冷たい人は心が暖かいのよ。と。


「ありがとう」


 ナイアスが幼く優しき隣人に声をかけると、セクアナは一つ笑ってパタパタと台所の母親の方に駆けていった。


 あの娘はもしかして貴重な食事に少しでも御相伴に預かる為に母親についてきたのかも知れない。確かに居合わせる飢えた子供の前で食事をお預けするのも親気無い。だとしたら中々したたかである。


 「ほら、ナイアスちゃん、出来たよ。食べて元気を出すんだよ」


 そう言って、夫人は作った食事を運んできてくれた。食事の主食の燕麦の粥は最近では殆ど重湯同然に薄かったのが、これは柔らかく煮られてはいるが大分水の量が少ない。


 スープも多いとは言えないがしっかり野菜類が入っており、何よりかなり久方ぶりに動物性タンパク質として煮魚がついていた。量も少なくとも一食分は充分にある。


 普通に考えたら質素なものだが、今の村の危機的状況ではこの上ないご馳走様だった。悲しみと失意に暮れていたナイアスも思わず、これまでの欠食状態を思い出して思わず喉を鳴らした。


 「お母さんも呼んできてくれるかい?せめて三人で食べなよ」


 セクアナは兎も角、食事を用意してくれた二人は御相伴に預かる気はないようだ。二人が加わったらそれぞれの取り分が不足してしまうとはいえ、これだけのご馳走様の用意を飢えた状態でして、自分達は食べないというのは如何にも辛いだろう。


 だが、夫人は今一番辛いのはレーテ達なのだからと堪えていた。


 「お母さん、呼んできます」


 そう言って、ナイアスは父の遺体の安置されている寝室へ向かった。


 「レーテさん来てくれますかね」


 「分からないけど、私達が呼ぶよりはねぇ」


 そんな二人の声が聞こえた。お母さんだって、ずっとあれから何も食べてない。お腹は減っているはずだ。どんなに悲しくてもお腹はすくのだから、アレを見れば食べたくなる筈。そうナイアスは考えた。


 寝室では、顔に布が被せられたエルの死体が横たえられていた。そしてそのすぐそばにこの二日の間そこから動こうとしないレーテが力なく座り込んでいた。


 「お母さん、おばさん達がご飯作ってくれたから、食べよ」


 ナイアスは静々と母に声をかけた。しかし、レーテは聞こえているのか否か、俯いたまま反応しなかった。


 「お母さん、ご飯出来たから、行こうよ」


 先程よりも強く呼びかけた。それでやっと母は億劫そうに顔をあげてナイアスに眼を向けた。その眼を見てナイアスはゾクリとした。


 まるで幽鬼のような眼だった。全てを失ったかのように、もう悲しみも絶望を遥か追い越して、その瞳は虚無を宿していた。


 レーテは深く愛していた筈の娘に虚無の視線を送っていた。いや、それな何も見ていなかったのかも知れない。


 「勝手に、食べなさい」


 「でも、お母さんもお腹空いて」


 「空くわけないでしょう」


 どんな時でもどんなに悲しくてもお腹は空く。本当にそうなのだろうか? その時ナイアスは初めて疑問に思った。


 だってお母さんは全然食べてないのに、本当にお腹が空いているようには見えない。人間は空腹なんて感じられなくなるほどの悲哀があるのではないか。


 「でもお母さん、食べなきゃ元気が出ないよ」


 「……貴女はそんなに食べたいの?」


 「……お母さん?」


 「そうよね、だって貴女は毎回毎回、エルの……」


 彼が回復する為に必要な食事も全部食べた! という、言葉は続かなかった。良心がブレーキをかけたわけではない。一瞬燃えかけた感情すら熱量が足りずに立ち消えてしまったのだ。


 そのまま、またレーテは俯いてそれっきり口を開くのも億劫だと黙り込んでしまった。


 結局、グスグスと泣きながらナイアスは台所に戻ってきた。


 「おばさん……」


 「ダメかい」


 それを見て困ったように夫人は言った。


 「参ったねぇ、レーテちゃんはエル君大好きだったから無理ないのかも知れないけどこんな時じゃねぇ」


 「放って置く訳にも……」


 「そうさねぇ、しょうがないあたしからも話てみるかねぇ」


 そう二人の夫人は話して結論した。面倒見のよい夫人も、しかし元気付けるにしても喝を入れるにしても難題だと内心参りながら。


 「ナイアスちゃん、ご飯食べちゃいな。お腹がびっくりするからよく噛んでゆっくり食べるんだよ。セクアナもね」


 そう夫人は言って、台所を出て行った。


 まだ涙を拭っているナイアスを暖かい身体が抱きしめた。


 セクアナだった。ナイアスより一回り大きい身体で優しく包み込んでくれた。穏やかな甘い香りがした。


 「だいじょうぶだよ」


 「ご飯いっしょにたべよ」


 そう言ってセクアナは身を離すと手を引いた。


 「うん」


 ナイアスは涙をぬぐいながら頷いて、促されるままに食卓に着いた。


 久々に口にする、ある程度の量のある馳走は、涙の味がしたが、それでもとても美味しかった。


 一方、寝室で夫人はレーテの分の食事を運んでエルの遺体の側に座するレーテと話していた。


 「レーテちゃん、悲しいのは勿論分かるよ。でも厳しい事を言わせてもらうと今は村全体が大変な時なんだ。それにナイアスちゃんだっているんだからしっかりしなくちゃいけないよ」


 そう言って夫人は諭すが、レーテは聞いているのかいないのか俯いたまま反応がない。しかし、少し間を開けて口を開いた。


 「わかってますよ、勿論……でも、もう私は何ももう残っていないんです。もう、無理ですよ……」


そのか細く震える声は、人間とはここまで絶望出来るのかとゾッとする程に哀切に響いた。


 「今はそうとしか考えられなくてもしょうがないよ。少し時間が立てばまた違う考え方も出来るようになるさ」


 それにやはりレーテは答えなかった。夫人の言う通り今現在そんな風に考えられるわけもない。


 「ご飯持ってきたから、少しでもいいから食べるんだよ。もしレーテちゃんまで倒れるような事になったらナイアスちゃんがひとりぼっちになっちまうよ」


 「くれぐれも早まった真似だけはするんじゃないよ」


 それだけを言い含めて、食事だけ置いて夫人は退室した。やはり失った当事者ではない所詮部外者がいくら言葉を尽くしても響かないのかという無力感を感じながら。


 その後夫人達とセクアナは、帰っていった。ひとまずお腹も満ちたナイアス。父親が死んでしまった喪失感もあるが、同時に心配なのはやはり抜け殻のような母の事である。


 ナイアスは父親の安置されている寝室に様子を見に行く。


 「……だか……て……ぶんも……」


寝室の中から、小さく声がしていた。無論中にいるのは遺体の父を除けば母だけだ。あんなに意気消沈していたのに、一体何を独り言を言っているのか? あるいは亡骸に話しかけているのか? いずれにしてもナイアスはまた何かゾッと嫌な予感が背筋を走った。


 ゆっくりと、ナイアスは寝室に入る。そこで目にしたものはやはり常軌を逸していた。


 「ほら、貴方……ちゃんとたべて……ナイアスが貴方の分みんな取っちゃったから、その分食べるの、食べるのよ……」


 レーテは譫言の様にブツブツいいながら、半開きにしたエルの遺体の口内に匙で掬った粥を注ぎ、煮魚を詰め込んでいた。


 勿論死体が嚥下する事はなく、食事は口から溢れ死体の顔とベッドを汚すばかりだった。


 唖然としてすぐ側で見ている娘に気づいていないのかどうでもいいのか、レーテはずっと独り言を続けながら夫の遺体に食事を食べさせるという虚しく無駄な努力を続けていた。


 完全に心に異常をきたしている母を目の前に、ナイアスは震えながら、声をかける事も、止める事も出来ずに、そのまま部屋を出るとベッドへと走り、布団を被って泣いた。


 明け方、他の誰にも母の奇行が露見しないように、ナイアスは父の遺体や布団を一人で苦労して清めた——

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