一節
海は何処までも幅広く、果てで蒼穹と混じり合った。
遥か高い空には一羽の鳥が自由に飛び回っていた。何処までも続く蒼の中には鳥が止まる場所は何処にもなく、自由に溺れた鳥はいつしか羽ばたく事をやめて海へ堕ちた。
海面の下に蠢いていた巨大な龍は海水ごと鳥を一飲みにする。そして深く深く、深海へと潜って龍は静かに眠りにつく。
海は何処までも底深く、果てで漆黒と混じり合った——
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……
…
『美と真実があふれている。すべてのものは水から生まれ、水に帰る。大洋がすべての恵みを生み出してくる。海よ、お前が命を養っている』
「ファウスト」より——
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……
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「ねぇ、お母さん」
「なぁに」
湖畔に佇む幼く愛らしい娘の呼びかけに、母親は優しく穏やかに応じた。
「みずうみ、きれいだね」
「貴女は本当にこの湖が好きなのね」
幼き少女は陽光を反射して煌めく湖面を幼気でありながら水のように静かな瞳で眺めながら、何処か上の空な声を出した。
いつも湖に来ると湖面を眺める事に夢中になる娘に、愛おしげに母親は言葉を続けた。
「そんなに水が好きなら、海を見たらどうなるのかしらね」
「うみ?」
その言葉に興味を抱いたのか少女は湖面から母親へと目線を移した。
「うみって何?」
「海はね、湖よりも、もっと大きくて何処までも水が広がっているの」
「どのくらい広いの?」
「この世界で海が一番広いのよ」
その広さを表現するように母親は笑顔で両腕を一杯に広げてみせた。
「そんなに広いの?」
「そうよ。広すぎてどこまで行っても果てがないの」
「じゃあ、どこまでも行ったらどうなるの?」
「ずっと行ったら元の場所に戻って来ちゃうのよ」
少女の素朴な疑問に、母親は答える。少女は考えた。ずっと行き続けて元の場所に戻って来ちゃうというのは何かおかしくないだろうか? でももし本当にそうなら、海はどこまでも行けるし、でも何処にも行けない事になる、と。
「おさかなはいるの?」
「いるわよ。沢山の魚や海月、海には色々な生き物が住んでいるの?」
そう、教えるとまた一つ少女は疑問を抱く。
「かみさまも、住んでいるのかな?」
「そうね、きっと海には神様もいらっしゃるわ」
「じゃあ、ここと同じだね」
少女はそう言って、神域たる湖に目を向けた。
「それにね、海は湖と違って水が塩水なのよ」
「塩水なの? なんで?」
「海は命が生まれてきた場所だからよ。生き物には塩が必要なの」
「ふぅん。じゃあしょっぱいんだ」
目の前の大きな湖より遥かに大きく広がった水があり、その水はしょっぱい。と考えてみても少女には海がどのようなものか上手くイメージが出来なかった。
「私たちも元々は海から生まれてきたのよ」
「? 私はお母さんから生まれたんだよ?」
少女は可愛らしく首を傾げ、異を唱える。
「そうよ、でも全ての命は海から生まれたから、私達人間も元々は海から生まれたの」
「じゃあ、お母さん」
「わたしたち、いつかは海に帰るの?」
その幼く邪気のない疑問に、母親は目の前の娘にもいつか来る終わりを想ったのか一瞬鼻白んだが、笑って答えた。
「そうかも知れないわね」
「ねぇ、お母さん」
「なぁに?」
「海は、このみずうみよりきれいかな?」
母親は目の前の輝く湖面に、遥かな海の情景を重ねて笑顔で言った。
「海は世界で一番綺麗なのよ」
「みてみたい、な」
少女は幼く、静かな目線に確かな憧憬を浮かべて言った。
「見れるわよ」
母親は、しゃがんで小さな娘と目線を合わせて、愛おしげにその頬に手を寄せて言った。
「貴女が望めば、いつかきっと海が見れるわ」
「お母さん、いつかわたし、村の外に出て海までいけるかな?」
「行けるわよ。貴女が望めば何処へだっていけるわ。だって貴女は私の娘なんだから」
良く晴れた日の事。太陽を照り返して煌めく湖畔で、母は娘を抱きしめた——




