タイヤの神
私は最上瑞季、27歳。職業は保険調査員。社用車は比較的新しい電気自動車の軽だが、愛車は中古の初期に開発されたハイブリッド車のセダン。始祖鳥のような物だ。
時は2月下旬。私の住む栃木県は、長い冬を終えようとしていた。
始祖鳥のごとき私の車は、チェーンさえ巻かない夏タイヤだ。
「今年も勝った・・」
仕事は数件を早々と片付け、午後3時過ぎには帰宅する途中、ガソリンスタンドで待合室でコーヒーを飲んでいた私は停めている愛車を見ながら呟いた。
極寒の栃木とはいえ、3月上旬には寒さが緩んでくる。既に緩いくらいだ。雪が水っぽくなってきている。
チェーンやスタッドレスが有用なのはせいぜいあと10日だろう。
「・・他愛ない」
私は飲み干した紙コップをゴミ箱に捨てた。
やや遠回りして、平日でも社務所が使えるらしいF神社に寄る。妹の子供の今年の幼稚園のお受験の御守りを1体受けてきてと頼まれていた。
「神頼み等、ふっ」
結果は事実に基づく物だ。だが、買ってきてやろう。
私は姉であり、伯母であるから。
F神社に着いた。雪の始末が甘く、停める場所に手間取った。
コートの襟を立て、石段を昇る。社務所にゆく前に、手と口を軽く清め、本殿で詣る。
祀られているのは荷車の神らしい。荷車、とは随分限定的だ。神というより妖怪の類いではないかと思うが、車社会の現代、この神社は繁盛しているようだ。
交通安全の他、家内安全、子孫繁栄、商売繁盛、合格祈願、健康促進、抜け毛予防。なんでもやってる。
私は自分の交通安全も祈っておくか、と2000円賽銭箱に入れるつもりが、間違えて2万円財布から引き出して投入してしまった。
「あ・・」
早上がりとはいえ仕事帰りでやはり疲れていたのと、屋根の陰で手元が暗かったこと、カードとスマホとパソコンの決済が多く、現金に触ったのが2日ぶりで財布の札の配置が朧気だったことが重なった。
だが、仕方無いこと。今月、買うつもりでいた輸入ワインを1本諦めた。
それだけのこと。
私は詣り終えると、踵を返し、粉雪の中、人気もまばらな境内を真っ直ぐ社務所にゆき、目的の合格祈願の御守りを1体受けた。自分の御守りは特に受けなかった。そこまで人は好くない。
石段を降りてゆく。少ない人気がすっかり無くなった気はした。と、
「ん?」
妙なのが下段右手側にいた。タイヤだ。スタッドレス。トラック用であるかのようなサイズ。しかしその片面に一つ目の、爺さんのような物が張り付いている、いうか一体化しているというか・・
コスプレにしては身体が小さ過ぎるような気はしたが、遠隔操作できる構造を仕込むことはできる容量はある気はした。タイヤ部分に。
「お主、大金を我に捧げたな?」
話し掛けてきたか、何かの悪ふざけ動画の可能性もある。なんにせよだが。
「気にするな、栃木ではよくあることだ」
私は過ぎ去る構えだ。お前が何Tuberであろうと、何妖怪であろうと、些細なこと。
「手元が狂って寄越した、その巡り合わせ、その面構え、立ち居振る舞い。気に入った。お前の交通の安全を守ってやろう」
チャリ・・音を立て、どこからともなくタイヤの者は1ペアのタイヤチェーンを私に差し出した。
「この市販タイヤチェーンで」
「買ってきたのか」
「さっきの金で買える範囲でいいのを買ったことになっている」
「・・ふぅ」
私は石段の半ばで立ち止まったまま、ため息をついた。
「タイヤの者よ」
「F神様と呼べ、祀れ」
私は運転用に履き替えていたPUMAでしっかりと石段を踏み締め、大きく構えた。
「この最上瑞季はっ! 大学2年の時よりっ、私用車に冬にチェーンを巻いたこと無しっ!! スタッドレスに替えたことも無しっっ!!! 私は、栃木の冬に勝つっっっ!!!!」
「落ち着け」
「とにかく、チェーンは巻かない。それは、チェーンに恵まれぬ者に授けてやれ。ではな」
襟を立て直し、私は駐車場へ向かうべく、雪の石段を再び降り始めた。
「我も、神。何も守らないというワケにもゆかぬ。取り敢えず、お主の願いは健康促進に切り替えておくぞ?」
「好きにしろ」
石段を降り切ると、視線を感じなくなり、いつの間にか周囲にまばらな人気が戻り、海外観光客が一組だけ、スマホで写真を撮りながら石段を登り始めていた。
振り返ると、ヤツの姿はなかった。
「ふっ」
私は笑って、愛車へと歩きだした。
この5日後、私は出勤途中にスリップ自損事故を起こし、全治2ヶ月と診断され1週間は入院し、それからさらに2週間運動リハビリ入院することになり、保険調査員の仕事はクビになった。免停も食らった。
医者の話ではこの程度で済んだのは奇跡で、経過もかなり良いとのことだった。
・・異常に厳しい午後の1回目の運動リハビリを終え、松葉杖頼りに独房のように狭い自室に戻り、冷蔵庫のポカリを探したが、午前でほぼ飲み干していた。
「ぐっ」
今の私には1階の売店は遠い。諦めて緑茶を飲み、松葉杖にもたれて一息ついた。
貯金、免許、車、家賃、再就職、激怒している実家。
「山積だな・・」
うんざりと呟くと、
(健康、ばかりは促進した)
声が頭の中に響いた。
「っ!」
気配も感じた。外に見えるリハビリ医院の裏庭の五分咲きの桜の方に、何か、タイヤのような物が転がった気がした。
私は杖を突いて安全柵の高い窓の方に寄った。
ゆっくりと、少なめの花弁の散る桜の幹から黒光りするスタッドレスタイヤが転がり、ヤツが半身で姿を表し、ほくそ笑み、こちらにまだ持っていたチェーンを見せ付け、親指を立ててきた。
「・・ゴム製品がっ」
ヤツは幹の方に転がり、消えた。
その後、田舎である栃木の中でもさらに田舎の地元で再就職した私は、9月になると大人しくスタッドレスタイヤに替え、雪が振りだすと、1ペア4万円の! チェーンを巻いた。
以後、ヤツの姿を見ることはなかった。