第六話
「……まったく……何でわたしがこんな目に……」
車を運転しながら、希林は何回目になるだろう愚痴を口にした。だって三時間もあるのだ。愚痴を言う時間もたっぷりとある。
あの後、『じゃあ早速だけど、今からルキアさ……じゃなかった、棠月先生のトコ行って来てもらえるかな?コレ、地図ね。この赤丸の所が先生のお家だからね。あと、二時間くらい走ったら、電波も届かなくなるから。調べ物や、しておきたいメールとか電話は、先に済ませておいたほうが良いからね〜。それじゃあ気をつけてね〜!よろしく頼むよ〜!!』という坂滝の流れるようなスマイル弾丸トークに押されて、希林は手に地図を握らされ、ドナドナ部屋を後にした……。
「……というか、電波が繋がらないって、何……」
車を進めながらも、時々止まってスマホのアンテナマークを確かめる。道が間違ってなければ、地図上の三分の二くらいまで来た。この地図も、本当に合っているのか不安になるのだが。どうも普通の地図と違うような気がする。
「森の中、ですね……」
希林の不安を煽るように、道はどんどんどんどん森へと入っていく。上ったり下りたりはないのだが、ひたすら木の間にある道をすり抜けてゆく。この道も、きちんと舗装されているのだが、向こうから車が来る気配がない。狭い道ではないが、対向車が来ることを想定していないような。人の気配はとっくに無い。一時間前くらいから誰の人影も見ていない。車も、店も、犬や猫も、何もない。時々野鳥が飛んでいるのを見るくらいだ。まるで希林の乗った車内だけぶつりとこの世界から切り離されてしまったかのようだ。目に入るのは木、木、木……。雪が積もっていないのが幸いか。
「……本当にこんな所に家があるんですかね……」
あったとして、それはそれで怖い。なぜこんな所に住んでいるのか、両親を亡くしたハーフの若い女性が。そしてなぜ、自分なのか。まあ、あの編集長のことだから行ってくれるなら誰でも良かったんだろうけど。しかし、考えれば考えるほど、ホラー映画の匂いしかしない。
「……あ……電波なくなった……」
ふと携帯を見ると、弱々しかったアンテナがついに圏外になっていた。はあぁ、と長い溜め息をついて、希林は窓の外を見る。太陽の傾きから、夕どきが近いのを感じる。陽が落ちて、夜の暗闇が辺りを覆うのはもうすぐだ。こんな森の中で夜は迎えたくない。
「とりあえずこの屋敷までたどり着こう……」
とにかく辿り着かなければ話が始まらない。希林はアクセルを踏む足に力を入れるのだった……。
「……つ、着いた……」
電波がなくなってしばらく走ると、森が途切れて、急に開けた場所に出た。
「うわ……お屋敷……」
そこが終着点とでもいうように、屋敷の周りは、希林が来た道以外の道は無い。その場所に大きな洋館が建っていた――……。
「……ますますホラー映画……」
希林が呻くように呟く。しかし、もう陽がなくなりつつあるが、その周りの空気は暖かく明るい気がした。辺りには畑やちょっとした庭、果樹のようなものもある。希林は車から降りて玄関へと足を進める。
「今晩は、『流れ石出版社』の希林と申します」
ベルを鳴らしながら声をかける。すると中から明るい女性の返事が聞こえた。パタパタと走る音が小さく聞こえ、扉がガチャリと開かれる――……。
「あ、今晩は〜ようこそ〜!初めましてだね〜!」
扉から出てきたのは、肩口で揺れる煌めく金髪、潤んだ宝石のような瞳の色は海と空の碧。瞳を縁取る睫毛は長くけぶるよう。透き通るような肌は抜けるように白く、身体は思わず目がいく悩ましいライン、年齢は少女と大人の女性の間の絶妙なバランス――……。
美しい、では言い足りない。その美貌をずっと眺め、誉めそやしたくなるような容姿を持った美女が洋館から出てきた。
「坂滝(サカタキ)くんから話は聞いてるよ〜。こんなとこじゃ何だから、上がって上がって〜!」
「……は……はい、では失礼します……」
一瞬意識が飛んだ希林が、ハッとしたように返事をする。そしてやたら美人だ!美人だ!と連呼していた編集長の言葉を思い出す。
(これは、本当に……“傾国の美女”ですね……)
彼女の後に付いて屋敷の中に入りながら希林は内心でまた溜め息を零した。
世の中に美しいと言われる人はたくさんいる。希林自身様々な人を見てきたが、“彼女”は特別だ。美しいの次元が違う。と言うと大げさだと笑うかもしれないが、彼女はきっと誰が見てもそう言うだろう。一種人間離れしたものさえ感じてしまう。それほど極めて美しく、惹かれるものがあった。
「そこに座っててね〜!今お茶いれるから〜」
「はい……あ、お構いなく……」
屋敷の中もやはり広かった。真ん中に通路と吹き抜けがあり、階段から二階に上がれる。キッチンと繋がったリビングに通された希林は、広々としたソファーに遠慮がちに腰を下ろす……。
「はい〜どうぞ〜お疲れさま〜遠かったでしょ〜」
「あ、いえ、ありがとうございます」
渡されたお茶は紅茶だ。芳しい香りに、ほう、と癒される。温かい飲み物が体に入る感覚。冷えた身体が湯気と共に解けてゆく。
「紅茶美味しいです、ごちそうさまです」
「どういたしまして〜」
ふわりと彼女が笑むと、あたりに華が舞うようだ、と本気で思った。少女漫画じゃあるまいし、と思いつつも。しかし、いつまでもその美しさの余韻に浸っている訳にはいかない。希林は眼鏡を押し上げ、仕事モードに切り替えた……。名刺を取り出し、彼女に渡す。
「わたしは『流れ石出版社』担当編集者、『希林 怜(キバヤシ レイ)と申します。よろしくお願い致します』
「わたしは『棠月 琉樹亜(トウヅキ ルキア)』だよ〜よろしくね〜!」
ちょっと語尾が伸びる彼女の話し方がゆったりと耳に心地良い。
「早速ですが、棠月先生、お書きになってる原稿かプロットみたいなものはありますか?」
「あるよ!ちょっと待っててね〜」
そう言って彼女はパタパタと軽快にリビングを出て行く。一人になった希林は、失礼にならない程度に辺りを見回した。
(……家具も部屋のしつらえも派手ではないですが、とても良いものにこだわっていますね……)
イギリスの貴族の館か、というような外観を裏切ることなく、内装もシックでクラッシックなテイストに揃えてある。恐らく一つ一つが自分の給料の何ヶ月分くらいはするのだろう、と希林は思った……。それでも居心地が悪いということはなく、落ち着けるよう配置されているのであった。
「お待たせ〜!これだよ〜」
「拝見致します……」
ルキアから受け取った、コピー用紙に書かれた話の筋や設定等のメモ書きを、希林は隅から隅まで目を通す。それを読み進めるほどに、自分の中でわくわくするような気持ちが高まっていくのを感じる。
(これは、いける……)
それは一読者、そして担当編集者としての勘。早くこのプロットが、彼女の手によって形になるのを見たい。粘土の塊が、繊細で優美な器になるように。または、宝石の原石が数多のカットを施され、美しく光り輝くダイヤモンドとなって人々の目を奪うように――……。皆の目の前に彼女の作品を差し出して、その面白さを見せつけたい。彼女の紡ぐ文字が、視覚化され、人々の目に映り、そして大勢の人の心にいつまでも焼き付く様を見たい、その手助けを自分はしたい――……。彼の編集者としての血が騒いだ。銀縁の眼鏡を押し上げながらルキアに迫る。
「……棠月先生、すぐに打ち合わせしましょう。今日から書き始めてください」
「えっ、今日から〜?」
「はい、何なら今すぐにでも」
「え〜!?」
窓の外は、とっぷりと暗くなっていた……。