第五話
希林が初めて彼女に会ったのはおよそ一年前の、去年の正月が開けて間もない一月だった。
「希林、『編集長』が呼んでるぞ」
「え……」
編集デスクのチーフである有馬のその一言から全てが始まったのだ……。
「やあやあ、希林くん、忙しい中呼び出してすまないね〜」
「……いえ、大丈夫です……」
絶対すまないって思ってないだろ、と希林は内心ツッコミながら、笑顔の編集長と対峙していた。
希林が編集長に呼ばれたと聞いて、デスクの皆が『ついに希林も〜!』とか、『可哀想に〜!!』と口々に叫ぶ。皆、あの“ドナドナ部屋”の被害者なのだ。ある者は超気難しい作家の担当に付けられ、ある者は全く書く気が無い人気作家のやる気着火剤にされ、ある者は編集者ではなく家政夫と化している。
(ついに自分もか……)
胃に穴が空いたり、四六時中やる気を起こさせるために駆けずり回ったり、校正の代わりに今日の晩ご飯の味のチェックをしている同僚や先輩方を見て、希林も重い溜め息をついた。
「ま、皆通る道だと思って行ってこい。骨は拾ってやるから」
「全然嬉しくないですけど……はあ……でも仕方ない、行ってきますよ……」
有馬から肩を叩かれ激励を受けて、とぼとぼとドナドナ部屋へと向かう。扉の前に立ち、一度息を深く吸い込んで吐いてから編集長の部屋の扉をノックすると、中から軽やかな声が聞こえた。
「希林です、失礼します」
「どうぞ〜!よく来てくれたね!ささ、座って座って〜」
「……ありがとうございます……」
応接用のソファーに座るよう促され、編集長が向かいに座るのを見届けてから希林も腰を下ろした。変わった服装で有名な、今日の編集長の出で立ちはゼブラなのかヒョウなのか、派手な柄のブラウスに裾の広がったパンツを合わせている。髪は今日はお花のピンで留めていた……。
「さっそくなんだけど、希林くんの担当作家さんって今何人だったっけ?」
「ええと、レギュラーの先生が二人、あとは不定期で色々です」
「うんうん、そっかそっか〜」
坂滝編集長はニコニコしながら聞いてくるが、希林の心の中はヒヤヒヤドキドキしていた。
(担当、一気に増やされるのかな……それとも全外し?)
希林も今年三十四歳、そろそろ中堅どころと呼ばれ出す年齢だ。もう少しレギュラー作家を増やしたいと思っていた所である。
「実はね、僕の知り合いの娘さんが作家を始めてね、その子の担当になって欲しいんだけど……」
「……編集長のお知り合いの方、ですか……?」
コネ入社だろうか、何となく気持ちのいいワードではない。思わず寄った希林の眉を見て怪訝そうな雰囲気を読んだか、編集長は首を振りながら言葉を続ける。
「そうだよ、名前は『棠月 琉樹亜(トウヅキ ルキア)』って言ってね、日本人とイギリス人のハーフなんだけど」
「はい?」
「ご両親はもう亡くなっていて、一人で山奥で生活してるんだ。あ、今は日本にいるよ?」
「はあ……」
「大丈夫!日本語もペラペラだし、作家としての能力は僕が保証する!!それで今担当してる作家さんを全部他の人に委ねて、彼女のことをお願いしてもいいかな?」
「はい……え……?それってもしかして、その方一人だけに付くということですか……?」
「そういうこと!でも安心して!お給料は今まで通り、いや、もっと弾むよ!!」
「……怪しさ満点なのですが……」
希林は深く息を吐き出した。ついでに眼鏡を上げる。こめかみが痛くなってきた……。慌てたように編集長は食い下がってくる。
「そんな怪しくなんかないよ!?美人だし性格もいいし可愛いし、ちゃんとした話を書けるし美人だし……」
「何回美人を挟んでくるんですか!」
美人は関係ないでしょう!と希林は編集長を叱り飛ばす。『だって〜』と拗ねたように言う編集長に頭を抱えつつ、希林は要点をまとめた。
「つまり、わたしは編集長の知り合いの娘さんという方の専属の担当になって、彼女から原稿を頂けばいいんですね?」
「その通り〜!!ああ、でも彼女パソコンもスマホも持ってないんだ。固定電話も無いから、毎月原稿を彼女の所まで取りに行って欲しいんだけど」
「……ちなみに場所は……?」
「うーんとね、ここから大体三時間くらいかな〜!」
「県外かよ!!」
ついに希林の言語の抑制が崩壊した。