44:子が親を思う気持ちさえ
間一髪だった。
皇妃はまとあげた髪に、短剣を潜ませていた。
柄の部分は葉のようなデザインで、短剣とは一見すると分からない。
そう、見た目は髪飾り。
つまりは隠し武器だ。
さっきクラウスが折ったのは左手首。
右手で隠し武器である短剣を持ち、私に駆け寄ったクラウスを、皇妃は刺そうとしていた。
それを教えてくれたのが、今は亡きナスターシャ姫の声だった。
咄嗟に私はクラウスを突き飛ばし、手袋――ガントレットで皇妃の短剣を受け止めた。
トニーは女性や子供の攻撃なら受け止められるかもしれないと言っていたが、それはまさにギリギリだった。異変に気づいたクラウスが私に突き飛ばされ、体が斜め後ろになることで、突進する皇妃を視界にとらえることができた。
クラウスは皇妃の結い上げた髪を思いっきり掴んだ。
おかげで皇妃は後ろにつんのめるようになり、短剣は私の左胸ギリギリで止まった。
もうこの一瞬は、世界から音が消えたように感じた。
「あなたは、もう十分過ぎる罪をおかしているのに、さらに罪を重ねるおつもりですか!?」
そう言って、今度こそ床にへたりこんだ皇妃の胸倉を掴んだのは、エドワード様だった。
皇妃の手に短剣はない。クラウスは髪を掴むと同時に、短剣を持つ皇妃の右手を折っていた。
「あなたが欲しがったアケビの実。あれはまだ子供だったナスターシャ姫と私が、種から植えて育てたものです。大切に、大切に育てましたが、簡単には実りません。5年経ってようやく実をつけるようになりました。そして彼女は病に倒れた母君を思い、その果実を贈ったのに……。子が親を思う気持ちさえ、あなたは踏みにじったのですよ」
皇妃の顔は青ざめ、その金色の瞳から涙がこぼれ落ちているが、その涙は後悔からなのか、痛みゆえなのか、それは分からない。
「研究して分かりました」
おじいちゃん植物学者のピーター子爵が、静かに口を開いた。
「アケビの木というのは、自家不和合性なのです。これは皇妃様が育てさせたアケビの木で、この一本の木で雌雄同株となっています。一本の木に雌雄が存在している。ならば受粉し、実がなるのかというと……。自家不和合性ゆえに、この一本の木だけでは、実はつかないのです。厳密には受粉しにくく、実がつきにくい。もう一株、このアケビの木とは別の種類のアケビの木を一緒に育てないと、実はつかないのです」
そこでピーター子爵が、しみじみとこんなことを言った。
「皇妃様はまるでこのアケビの木のようですな。お一人でポツンと、誰も信じず、ご自分のことしか考えず。他を寄せ付けない。ナスターシャ皇女様とも、普通に仲良くなさっていれば、アケビの実を気持ちよく送ってもらえたでしょうし、育て方も教えてもらえたでしょう。自分の幸せばかり追求されてきた皇妃様のことを、もう誰も相手になさらないと思いますよ」
そう言うとピーター子爵は、ナンシー男爵夫人と共に部屋を出て行く。その後ろをオルガが続いた。
「このクソ女、お前のことを絶対、沼に沈めてやる!」
泣き叫び、今にも皇妃に飛びかかろうとするライトに対し、「もうこんなクズ、相手にする必要はないですよ。ライトがこの女を害しても、亡くなったライトの母親は喜ばない」と、ガヴリールは宥め、トニーの手をかり、部屋から連れ出す。
その間、ライトは「沼に生きたまま沈められた母君の気持ちを考えてみろ! この悪魔! 人殺し!」と悲痛な叫びを挙げ続けていた。
「エドワード王太子様、我が国のお見苦しい姿をお見せすることになり、本当に申し訳なく思います。私には母はおりません。さあ、舞踏会の会場へ案内します」
キリル殿下がエドワード様に声をかけた。
「私には母はおりません」――つまりキリル殿下は……皇妃と親子の縁を切った。
キリル殿下に声をかけたれたエドワード様は、しばし無言で皇太子の瞳を見た。
愛する人をキリル殿下もエドワード様も、皇妃により奪われている。その心の痛みは、二人にしか分からないものだ。
無言で二人は語り合い、そしてエドワード様は……。
「……ありがとうございます。キリル殿下」
エドワード様もキリル殿下も、皇妃を見ることなく部屋から出て行こうとしている。それを見た皇妃が叫んだ。
「キリル! キリル! 待って頂戴。お願いよ、キリル!」と。
だがキリル殿下はそんな声、聞こえていないとばかりに耳を貸さず、立ち止まることなく、振り返りもせず、部屋を出ていった。
「クラウス、妹のことも、お前の母親のことも。結局、わたしは守ることができなかった。本当に、すまない……」
シアドア皇帝陛下のグレーがかった銀色の瞳から、涙がこぼれ落ちる。
「セシル様、わたしは今日、目の前で。残されたこのクラウスまで失うところだった。咄嗟にクラウスを守ってくれて、本当にありがとう。クラウスはセシル様に出会えて、本当に良かった。あなたがクラウスを選んでくれたことに、心から感謝する。どうか末永く、幸せになってほしい」
「どうしてですか、皇帝陛下! あの女の息子ばかり」
「うるさい!」
その声はまさに“氷帝”の名に相応しい、ドスの効いたものだった。空気が震え、私の体もビクッと反応していた。
「近衛兵、皇妃を捕らえよ。舞踏会が終わるまで宮殿の地下牢へ入れておけ」
元の落ち着いた声でそう言うと、皇帝陛下は私とクラウスの肩を抱いて歩き出す。
「さあ、舞踏会へ行こう」
ピーター子爵の言う通りだ。
女性として圧倒的な美貌を誇り、皇帝陛下より男勝りの性格で、皇宮を支配した皇妃は。
確かに雌雄同株のアケビの木のよう。
女帝のごとく君臨した皇妃は、他を寄せ付けず、誰も信じず、自分のことしか考えず。
その結果。
お一人でポツンと……そうピーター子爵は指摘した。
今、皇妃は、子供である皇子からも、夫である皇帝からも、見捨てられ、そして――。
――自分の幸せばかり追求されてきた皇妃様のことを、もう誰も相手になさらない。
皇妃は一人ぼっちになった。





























































