33:三つの不幸
キリル殿下が何をしようとしているか分かり、抵抗しようとするも、顎を持ち上げる手は想像以上に強い。顔を動かすことができなかった。手を外そうとするが、びくともしない。
「いやです!」「キリル殿下!」
近づくキリル殿下をなんとか両手で押し返そうとした時、耳に聞こえた声に、心臓が止まりそうになる。
「何をするおつもりですか? 彼女はわたしの婚約者です」
首を必死に後ろに向けると、浅紫色の瞳が激怒で濃紫色に変わっているクラウスが、キリル殿下を鋭く睨んでいた。瞳からは深い憤りが感じられるのに、顔に表情がない。でも確かに伝わってくる激情に、息を呑むことになる。
クラウスの声はいつもよりうんと低く、聞いた瞬間、氷の剣で心臓を貫かれたように感じた。冷え冷えとして、氷の海にいる気分だ。
「なんだ、クラウス。議会に顔を出していたのではないか」
私は震撼しているのに、キリル殿下は軽いノリで、クラウスに声をかけた。
「もう議会は終わりました。キリル殿下こそ、この時間は、宮廷画家の元で、肖像画を描いてもらっているはずでは?」
能面のような無非情のまま、クラウスは氷点下の声で冷たく応じる。
「相変わらずの優等生だ、クラウス。皇族の行動もきっちり頭に入っている。それは母上と無駄な接触を避けるため、身につけた習慣なのだろうが。私からすると厄介だ」
ゆっくりこちらへ歩いてきていたクラウスの背後には、ジョセフとトニーの姿も見える。トニーの顔は蒼白だ。
「わたしに関する文句があれば、いくらでも拝聴します。でもまず、セシル嬢を放してください」
「わかった。ちょっとふざけただけだ」
キリル殿下がようやく私を解放したので、クラウスの方へ腕を伸ばす。
その瞬間、クラウスの顔に表情が戻り、泣きそうな顔で私の手を取り、自身の胸へと抱き寄せる。
「真面目だな。ここは彼女を抱きしめて当然だろうに。未婚の男女の不用意な接触は禁じる――を頑なに守るとは。“氷の貴公子”改め、“堅物貴公子”だな」
そんな風に言いながら、キリル殿下は私達を置いて皇宮の方に向かって歩いて行く。
「セシル嬢、手が冷えています」
クラウスは自身のマントをはずし、フワリと私の肩にかけてくれた。
エレガントなマグノリアの香りに包まれ、無事、クラウスの元に戻れたと実感し、胸がキュンとする。
「クラウス様、私、ごめんな」
「大丈夫ですよ、まずは離れへ戻りましょう」
いつもの浅紫色の瞳を向け、クラウスは優しく微笑み、私の手をとる。
トニーのそばを離れ、リスを見ようとするなど、勝手な行動をしてしまった。ここは皇宮の庭園だから安全だと、思い込んでいた。
まさか皇太子の情事の場を目撃し、口止め(キス)されそうになるなんて……あまりにも想定外。でもこれは言い訳。悪いのは私だと思ったし、警戒心の薄い行動を、クラウスが怒って当然かと思った。
でもクラウスは……。
離れの中に入り、あのエントランスホールの暖炉の前のソファに座ると、まずこう言ってくれた。
「とにかく間に合ってよかったです。また男性から怖い目にあわされました。大丈夫ですか、セシル嬢?」
アンドリューにさらわれた時もクラウスは、同じように気遣ってくれた。公爵家の令嬢として育った私が、男性から手荒く扱われたことに、心が傷ついていないか。男性を怖いと思っていないか。ちゃんと聞いてくれたのだ。
「今回もまた助けていただき、ありがとうございます。確かに怖い目に遭いましたが、自分が悪いので」
「そんなことありませんよ、セシル嬢」
そう言うとクラスは私の両手をぎゅっと握りしめる。
「今回の件は、三つの不幸が重なったと思います。まず一つ目。それはわたしがセシル嬢に伝えていなかったことです」
「伝えていない……?」
クラウスはこくりと頷く。
「……キリル殿下には想う方がいたのです。でも政治的な理由で、今の相手と婚約し、結婚することになりました。皇妃が決めた相手です。皇妃が自身を溺愛していることも分かっていますし、皇太子という身分ですから、キリル殿下はこの結婚を受け入れましたが……」
結婚に関して王族や皇族は、自由がないと言われている。でも皇妃から溺愛されているキリル殿下なら、自由なのでは?と思った。でもそうではなかったのね。
「キリル殿下の想い人は亡くなっているのです。男爵家の令嬢でしたが、馬車の事故で。意に沿わない結婚と、愛した女性の死を経て、彼は……。女性に対して奔放になってしまったのです」
馬車での事故……!
なぜだろう。馬車の事故。何かが引っ掛かる。
「キリル殿下が、その立場からは許されない情事を重ねていることは、皆、口にしないだけで、もはや周知。皇妃を恐れ、誰も何も言わないだけなのです。その結果、彼はあんな場所でも逢瀬を楽しむようになり……」
それは……知らなかった。妃教育でも教えてもらえないし、さすがに皇太子のタブーなので、あのナンシー男爵夫人でさえ、話すことがなかった。
「あのベンチは丁度、庭園で死角になります。彼がよく利用する場所。そのことをセシル嬢、あなたに伝えていなかったのは、わたしの落ち度です。あのベンチには近づかないように。あらかじめ言っておけばよかったです」
「でもクラウス様、私はそのベンチに近寄るなと言われても、リスを見かけたら……。近づいたかもしれません。何せ子供の頃、言いつけを破り、大木に近づき……クラウス様との秘密の文通が始まったぐらいですから」
するとクラウスは華やぐような表情となり、「そうでしたね。いけない子です。今後は言いつけを守りましょう。これはおしおきです」と、優しく私の頭にぽんぽんと触れて笑う。
こんな可愛いおしおき……! 何度でも受けたくなってしまう! つまりリス見たさに近づいたことは許してくれた。でも今の話を聞いたのだから、もうあのクヌギの木のベンチには近づかないように、ということだ。
クラウスは自身にも落ち度があるといい、私は私で自分が悪いと思っている。そしてクラウスは三つの不幸が重なったと言っていた。
そうなるとは三つ目は――。















