6:場を譲っていただけませんか
「きゃっ」
思わず小さな悲鳴が漏れてしまった。
その理由は二つ。
一つ目は、オペラグラス越しであの美貌の貴公子の浅紫色の瞳と目があったように感じたからだ。二つ目、それは……。
「カール、驚かさないでよ!」
よく冷えたレモネードを手にしたカールが、そのグラスを私のドレスから露出している肩に当てたからだ。つまりは冷たさに驚き、声が出た。
「ごめん、ごめん。そんなに驚くとは思わなかった。というか、僕に気付かない程、王太子殿下に夢中ということ?」
「! そ、そういうわけではなく。それに今は別人を見ていたというか」
「別人?」
首を傾げるカールを見ながら、オペラグラスを片付ける。
「昨日の舞踏会で、婚約破棄を宣言した後、エントランスへ向かったの。その途中、廊下で偶然会った人がいて。その人がこの舞踏会に来ているのを見つけて……。それで気になって見ていたの」
「……それって、男性?」
「そ、そうね」
カールは私にレモネードの入ったグラスを渡しながら尋ねる。
「気になるのか、セシル? その男性のことが。異性として」
「!」
異性として気になるか。
そんなこと考えてもいなかったわ。
「セシルは王太子殿下のことは眺めているだけでいい。だったらどんな男性とだったら、恋に落ちるんだ?」
不意にカールに顎を持ち上げられ、ドキッとした瞬間。
「すまないのですが、彼女と昨晩からずっと、話したいと思っていたのです。本当に申し訳なく思います。でもどうか場を譲っていただけませんか」
とても丁寧で優しい言い方であるが、ノーとは言わせない圧があった。カールは声の方を振り返り、まずはたじろぐ。
その青年の美貌に。圧倒的な高貴さを感じさせるオーラに。
それでもカールは何か言いかけ、でも口を閉じるしかない。そして視線を私に送る。そのエメラルドグリーンの瞳は「セシルの知っている人か? この男性と話すつもり?」と問うているのだと伝わってきた。
一方の美貌の青年は、その珍しい浅紫色の瞳を、懸命に私へ向けているように感じる。
えっと、私とそんなに話したいのかしら?
話したいと言っていたわね。
それに昨晩、聞きたいことがあると言っていた。
なるほど。
これは驚き。
さっきフロアで周囲を窺っていたのは、私を探していたのね。
私に聞きたいことがある。
多分、その件が解決しないと、私を探し続ける可能性が高い……。
「カール、飲み物をありがとう。こちらの方と少しお話しさせていただくわ」
「……分かった。僕は中にいるから」
頷くと、カールは再度、美貌の貴公子を見て、息を飲み、そしてホールの中へと入って行く。
「すみません。彼との会話を邪魔してしまい。……ご友人ですか?」
浅紫色の瞳が、遠ざかるカールの背中を追っている。
「家が近いのです。私と同じ公爵家で、幼馴染みですわ」
「なるほど……。ほのかに香る油の匂い。……画家……、宮廷画家の方ですね」
油の匂い? つまり油絵の匂いということよね。
よく気づいたと思ってしまう。
!
よく見るとテラスに続く窓のところに、あの黒騎士がいた。ちょうどカールとすれ違い、カールは彼を見て、少し驚いた様子だ。一方の黒騎士は表情を変えることなく、そこにいる。
「立ち話もなんですから、そちらのソファに座りませんか」
「はい」と返事をして、ソファに座る。
当然だが、三人掛けのソファなので、少し距離を置き、美貌の貴公子も腰をおろした。距離を置いてもソファに横並びで座っている。普通より距離が近い。
あ……。
ほのかにマグノリアの香りを感じた。
「昨晩からなんだかあなたにつきまとうような形になり、申し訳ありません」
「いえ、その、私に聞きたい話があるのですよね?」
「はい。お名前をお聞きしており、手紙を渡すことや屋敷を訪ねることも考えたのですが……。ただ、急にそんなことをすると、驚かれてしまうと思いました」
そう言って笑う姿は……。
なんだか神々しい程、美しい。
「それにわたしが探している方と、一致するかも分かりませんでしたので……」
探している人がいる。
さっきホールで周囲の様子を窺っていたのは、私を探していたのかと思った。でもどうやら別に探している人がいて、その人物と私が一致しているか、確認したい……らしい。
これは一体、どいうことかしら?
「今日は……髪留めではなく、ペンダントなのですね」
一瞬何のことか分からず、キョトンとしてしまった。
指摘されたペンダントに指を触れ、すぐ理解する。
ああ、そうか、この……。
「この渦巻くようなマーブル模様の紫色の宝石のことですね。これは髪留め、ペンダント、ブローチと3通りで使えるよう、宝飾品店で加工してもらったのですが……。鉱石としての名前も分からないですし、宝石として認識されていないと、そのお店の方が言っていました。しかもお店の方も、初めて見たそうです。ただ、本当に美しく、珍しいので『大切にされるといい』と言っていただけて」
自分の胸元にあるペンダントの宝石を、両手の平にのせた。
本当に綺麗なマーブル模様。
「産地が限定されている場所の鉱石なのでしょうか。私も……実はとある方にいただいた物で。その方とは直接会ったことはなく、文のやりとりをしていました」
そこで隣に座る美貌の貴公子の顔を見ると、その浅紫色の瞳から、ポロリと一粒、美しい滴がこぼれ落ちた。