38:我慢の限界
ボニーの表情が強張っていることを気にせず、クラウスは言葉を続ける。
「ただ、言えることは、信頼というのは得るのに時間がかかります。でも失うのは一瞬です。セシル嬢の元婚約者は、彼女の信頼を瞬時に失うような行為をしました。彼女自身、深く傷ついたと思います。それを乗り越え、幸せを掴もうとしているのです。知り合いであろうと友人であろうと。そこはこれからの幸せを願う言葉を、伝えてもいいのではないですか?」
言葉遣いが丁寧なのに、声音は相変わらず氷点下で、ボニーの顔が青ざめていた。ボニーはヒロイン。でも悪役令嬢だった私からの嫌がらせを受けていない。ゆえにこんな風にピシャリと言われるのは初めてのようで、とにかく驚いている。
さらに言えば、ヒロインゆえ、素敵な男性からちやほやされここに至っている。クラウスのような貴公子に、取り付く島もない言葉を放たれたことは、相当ショックだったようだ。それでもなんとか、口を開いたが……。
「わ、私はただ……彼女のせいで、彼女が婚約破棄を宣告したアンドリュー様と、幸せになるはずでした。でも彼女のせいで、私はアンドリュー様を失ったのです! 彼女のせいで今、こんなにも」
「どんなことがあなたの身の上に起きたとしても。そこから沈んでいくのか、浮上するのか、それはあなた自身が決めることです。今のあなたは、沈みそうになっている自分を、セシル嬢のせいにしている。そうすれば沈むことがないと勘違いしているのでは? でも、あなた自身が手足を動かし、自分の力で浮上する以外、何も変わらないと思いますよ」
クラウスのこの言葉、彼が皇妃に散々虐げられてきたからこそ、その重みが強く伝わってくる。彼は皇妃から受けた嫌がらせに負けず、ここまでやってきたのだから。
「わたしは今、セシル嬢と大切な話をしたところです。これ以上、あなたに邪魔をされたくありません。……失礼させていただいてもよろしいですか?」
上品で優雅な動作でクラウスが私の手をとった。もうこのまま歩き出そうとする体勢に、ボニーは口をパクパクさせるが、言葉が出てこない様子。
「では失礼させていただきます。……行きましょう、セシル嬢」
後半の言葉は甘く優しい声。ふわりと優しい笑顔を私に向け、完全にボニーは眼中にない。
これまで私は断罪回避のため、ボニーと極力関わらないようにしてきた。彼女がアンドリューに急接近していると分かっても、嫌がらせをせず、距離を置いたのだ。でもそれはゲームの抑止力により「ヒロインを無視した冷たい女」として認定され、断罪の場を迎えることになる。
これはもうとんでもないストレスだ。いわば何もしていないのに略奪愛された挙句、悪いのはお前だ!と言われるわけなのだから。それでも我慢し、ボニーに対し、一切何も言わず、私の婚約破棄宣告ですべて終わったはずだと思ったのに。
アンドリューは家の借金問題があり、しつこく私を追いかけ……。そのアンドリューがようやく私の周りからいなくなったと思ったら、ボニーから嫌味を言われることになった。でもクラウスがそのボニーをピシャリと撃退してくれた。
これまで一人でずっと悪役令嬢として断罪されないように奮闘してきて、それが当たり前でそうするしかないと思ってきた。それをクラウスに助けられ……。
もう一人ではないのだと思えた。クラウスがそばにいてくれることが、自分にどれだけ大きな意味があるのか。それを噛みしめることになった。
「クラウス様、ありがとうございます」
「出過ぎた真似をしてしまったでしょうか。セシル嬢、あなたならきっと、自分自身の力で対応できたでしょう」
「自分で対処は……できた、のでしょうか。そうではあったとしても。クラウス様に助けられ、嬉しく思います」
その時だ。
「クラウス様!」
ジョセフの怒鳴り声に振り返ると、ボニーがこちらに向かって突進してくる姿が見えた。胸の前で両手で握りしめているのは……小型の短剣!
「セシル!」
私を庇おうとしたクラウスの背後から、前方の様子を確認した。低い位置で持っていたカバンを、ボウリングの球を転がすのではなく、投げるようにして私は放った。
ボニーは、突如、低い位置から飛んできた鞄に驚き、突進が緩む。
騎士の訓練をしていたクラウスでは、これはできないはず。でも私は違う。もう鬱憤がさすがに溜まっていた。こちらは一切何もしていないのに。しつこく関わって来るなら、こうするまでよ。
クラウスの背後から躍り出た私は、ひるんだボニーの顔面に向け、握りしめた拳でパンチを繰り出す。
痛っ!
でも手応えはあった。
ボニーはそのままひっくり返り、駆け付けたジョセフが拘束し、トニーが短剣を取り上げた。
「セシル嬢、大丈夫ですか!?」
「は、はい。手が、痺れてなんだか力が入りませんが」
「! 救護室などないのでしょうか?」
「貴族様、救護室はあるよ、案内するよ!」
街の人だろうか。40代ぐらいの男性がクラウスに声をかけた。
「ありがとうございます、案内してください」
そう言うとクラウスは、いきなり私をお姫様抱っこした。





























































