1:こ、この声は……!
こ、この声は……。
誰?
聞き慣れない声。でも涼やかでもう一度聞きたくなる素敵な声。
立ち止まり、柱を見ていると、声の主がゆっくり姿を現した。
こ、これは……!
男性を見るとまず顔を見てしまうイケメン好きを自覚している私なのに。
この人物に関しては、まず全身から漂う高貴な雰囲気。
柱から登場するその洗練された動作で、ハートを鷲掴みにされてしまった。
しかもスラリと長身で、オーラがある。
次にようやくその顔を認識することになった。
アイスシルバーのサラサラの前髪の下に見える瞳は、珍しい浅紫色をしている。
異国の方なのかしら?
それだけでもこの人物が、特別な存在に思えてしまう。
すっと通った鼻筋に、桃色の形のいい唇。
肌は透明感があり、男性とは思えない。
雰囲気もすごいが、実体の方もとんでもないことになっている。
さらにまとっているテールコートが紫水晶を思わせる色で、これを優雅に着こなせる男性は、あまりいないのでは?と思えてしまう。
あまりにも素晴らしく、その姿に見惚れてしまうが、この美貌の青年の背後に、もう一人男性がいた。こちらはなんというか黒騎士。髪と瞳の色も黒いが、まとう衣装がマントやブーツも含め、黒いのだから。そして全身に筋肉を感じる。日々訓練を受けた騎士に違いないと分かった。
恐らく、主と護衛騎士という感じかしら。
「わたしの観察は完了しましたか?」
涼やかな声で問われ、我に返り、謝罪することになる。
「し、失礼いたしました。その、存じ上げない方でしたので、私の知る人物なのかと、じっくり拝見してしまい……。大変申し訳ありません」
「お気になさらず。ところで舞踏会は始まったばかりなのに、もうお帰りになるのですね」
……!
この美貌の青年……貴公子は、あの断罪の場を見ていなかったのかしら?
「そ、そうですね。……今日は、失礼させていただこうかと」
そう答えた時だった。
「セシル!」
げっ!
そう心の中で悪態をついてしまうのは前世の悪い癖。
でもそうなりたくなってしまうのは、今、私の名を呼んだのが、元婚約者のアンドリューであると分かったから。仕方ないと思います!
「良かった、セシル、まだそこにいたのだね」
黒のテールコート姿のアンドリューが、ダークブランの髪を揺らし、こちらへと歩いてきた。
「さっきの君の話、驚いたよ。その、君が僕の……浮気に気付いていたなんて。でもそのきっかけはなんというか、君がボニーに冷たくあたっていて、その相談を聞いているうちに……。君が冷たい人物に思え、それでボニーに」
そこでアンドリューは、あの美貌の貴公子と黒騎士に気づいた。
位置的に、アンドリューのいる場所から、この二人は柱にまだ隠れて見えないはずだった。でも美貌の貴公子が一歩前に出ることで、その姿にアンドリューが気が付いたのだ。
気付いて、その瞬間、ハッとした顔になり、慌てて頭を下げた。
「し、失礼いたしました。お話し中だとは気付かず、申し訳ありません!」
アンドリューは私に何か言いたげだったが、邪魔はできないとばかりにお辞儀をすると、ホールの方へと戻っていった。
「さて。ここにいると、ゆっくりおしゃべりをすることもできなそうですね。よかったら街へ行き、お茶でもしませんか? もし飲みたいのであれば、お酒でも」
美貌の貴公子に誘われたものの、頭の中は「?????」だらけ。
こんなに素敵な青年から誘われた。
しかもアンドリューのあの態度からも、高貴な人物であることは確定している。
でも。
知り合いでもない。
誘われる理由が思い当たらない。
そうなると少し警戒してしまう。
警戒する理由は、私がこのように声をかけられることに慣れていない、というのもある。5歳でアンドリューと婚約し、それはこの界隈では、誰もが知ることだった。よってこんな風に私を誘う人は、これまでいなかったわけで。
とはいえ。
ここは舞踏会が行われている公爵家。
舞踏会のホール以外でも、例えば庭園や廊下、軽食が用意されている部屋でも、男女が声を掛け合うのは、何もマナー違反なわけではない。ただ、いきなり、この公爵家の屋敷を出て、お茶だのお酒だの誘うから、頭の中がクエスチョンマークでいっぱいになってしまうのだと思う。
そう理解した上で、私は問いかける。
「あの、初対面ですので、いきなり街へ出てお茶というのは……」
「それは失礼しました。……では飲み物を手に庭園に行くのはいかがですか?」
! それは無理だわ。
この屋敷からはとっとと失礼したいのだから。
「せっかくのお誘いですが、私はここから帰ろうとしているので、今さら戻るのは……」
「先程のラングフォード公爵家の次期当主との会話からすると、お二人の間で何かあったようですね」
図星。
ホールにいなかったのに、よく分かったわね、と感心してしまう。
「率直に申しましょう。ここは舞踏会が行われている公爵家の屋敷の中ですから。男性から女性に声をかけても、そこまで失礼ではないですよね? わたしはあなたがお一人でいるのを見かけ、最初から声をかけるつもりでいました。実は、お聞きしたいことがあるのです」
……これは前世でいうところのナンパなのかしら?
ナンパにしては硬い。
女性を誘うことに慣れていないように感じるわ。
といっても。
私が誘われ慣れしているわけでもない。女性に声をかけるということは、こんなものなのかもしれない。
「あ、見て、リヴィングストン公爵令嬢だわ」
!
この言い方をするということは。
さっきの断罪の様子をホールで見ていたに違いない。
すぐにこの場から立ち去りたくなった。
「大変申し訳ございません。急いでいますので、今日のところは失礼させていただいても?」
「分かりました。ではせめてお名前を教えていただけませんか」
キュン。
まさに、キュン。そう、キュン。
最初見た時はあまりの美貌で、ドキドキするよりも感服してため息しか出なかった。でも今は違う。
この表情。
なんて……、なんて切なそうな表情をしているのかしら、この美貌の貴公子は。珍しい浅紫色の瞳は、なんだかウルウル潤んでいる。その様子はまるで、捨てられたくない子犬が、必死に飼い主を見上げているみたいに思えた。
抱きしめ、「大丈夫よ」と言いたくなる衝動を抑えながら、「リヴィングストン公爵の長女、セシルです」と名乗り、その場を立ち去った。