16:もう、お終いだ
「さあ、降りようか、セシル」
アンドリューの声が聞こえるが、既に嫌悪感しか覚えない。こんな男とこのまま婚約し、結婚することしかできないの?
馬車を降り、この建物の中に入ったら、もう、お終いだ。
断罪回避はできたのに!
今のこの状況は、どうにもできないの!?
考えて、考えて、私。
私がさらわれたことは、使用人たちは遅かれ早かれ気づいてくれる。エントランスを離れた場所から見ていたバトラーが、いち早く事態を把握し、動いてくれている可能性だってある。
我が家のバトラーは、まだ40代前半だが、とても有能。
すぐに従者に命じ、警察に連絡したはず。自身は馬車がせめてどちらの方面に向かうか、確認しただろう。
馬車は決してスピードを出していない。それなりの速さだが、目立つ速度ではなかった。しかも公爵家の馬車。人をさらう最中の馬車とは、誰も思わないだろう。
だが今は、深夜というわけではない。
この時間帯は、帰宅の時間だから、街の人は沢山いたはずだ。
ラングフォード公爵家の紋章がついた馬車を見なかったと聞いて回れば、目撃情報はゼロではないはず。
それならば今すべきことは時間稼ぎ。
この建物の中に入るのを少しでも遅らせれば、助けが来てくれるかもしれない。
そこで後悔の気持ちが沸きあがる。
時間稼ぎをするなら、馬車から飛び降りればよかった……?
速度はそこまで出していない。
いや、それでも走る馬車から飛び降りるなんて自殺行為。
しかも後ろ手に縛られている。
頭をガードできない。
石畳に落下すれば、首の骨を折ったり、頭を打ったりで、死亡していた。
だからここまできてしまったのは、仕方なかった。
「セシル、聞いているか? 途中からずっとだんまりだったけど、まさか寝ているのか?」
そうだ!
寝たフリ。
いや、意識を失ったフリをしよう。
馬車の中で私を抱き上げるのは無理だ。
一度自身が馬車から降り、私を抱き上げ、おろすしかない。
そしてアンドリューは、騎士のように体を鍛えているわけではない。もやしっ子というわけではないが、到底筋力があるとは思えなかった。私を馬車の中から抱き上げて降ろすのは、無理だろう。
方針が決まったので気絶したフリをすることにした。
「セシル、セシル」
アンドリューが何度か私の名前を呼んだが、無視する。
すると。
座席から身を乗り出したらしいアンドリューが、私の肩を何度かゆする。
結構な強さでゆすぶられ、でもそのまま目を閉じていると。
「……まさか、気絶した? でも……まあ、仕方ないか。公爵家の令嬢だから。こんな風にさらわれるなんて、慣れていないだろうからな」
当然だ。
公爵家の令嬢でなくとも。
慣れている女性なんているはずがない。
アンドリューは無言となり、何やら考えているようだったが。
あやうく出ない声を出し、身動きしそうになった。
アンドリューの手が胸の近くに触れている……!
この男、自分の初めてはボニーに捧げると言っていたのに。
ここにきて、考え方を変えたということ!?
というか、嘘、やめてよ……!
いよいよアンドリューの手が、胸に触れるかというその瞬間。
「アンドリュー様、降りないのですか」
御者らしい声がして、扉を開ける音がした。
「あ、ああ。降りるよ。……この女が気絶しているから、そっちから抱き上げて、おろしてもらえるか?」
「分かりました」
万事休す!
ガチャッ。
「うわぁ」
「ぐあっ」
驚いて目を開けると……。
私は御者が座る席に背を向け、床に座らされていた。私から見て左手の扉が開き、アンドリューは引っ張り出されるようにして、馬車の外へ消えていく。一方、私の右手では、御者の男が気絶し、倒れる瞬間だった。
気絶する御者を支えているのは……。
明かりがないので薄暗いが、その暗さでさえ、輝いているように感じてしまうアイスシルバーのサラサラの髪。すっと通った鼻筋に、形のいい唇。
御者を気絶させるという荒事をしているのに、なぜかそこに優雅さを感じさせるのは……謎の貴公子クラウス……!
「クラウス様、犯人は確保できました」
初めて聞く声。テノールの落ち着いたこの声は、間違いないだろう。
クラウスのそばに、アンドリューの体を楽々と担ぐ黒騎士が近づいた。
「ありがとうジョセフ、こいつも含め、拘束をしてほしい。ここにロープがありそうだ」
ジョセフ……黒騎士の名前が判明する。
そしてクラウスが改めて私を見た。
「……セシル嬢。ご無事ですか?」
薄暗い。
でも伝わってくる。
クラウスの瞳から私を心底案ずる様子が。
でも声を抑え、気持ちの揺れを静め、私に声を掛けてくれている。
大丈夫の意志表示で頷くと、クラウスの瞳に安堵が宿った。だがすぐに口にかまされている布に気が付き、外してくれる。
「ありがとうございます」
掠れた声でなんとか答えている間に、後ろ手に結わかれたロープを、クラウスは器用に解いていく。そのロープはすぐにジョセフに渡される。
私は自分の手首の皮がむけていることに気づき、そしてそこが痛むことをようやく自覚した。
無意識に拘束から逃れようと、手を動かし続けていたのだろうと推測する。ロープでこすれ、皮膚が裂けていた。
ビリッという音に驚くと。
クラウスは自身のハンカチを二つに裂き、そして「よろしいですか」と自身の手を私に向ける。私の手首に傷があると気づき、ハンカチを包帯代わりにしていると理解した。
遠慮がちに差し出すと、クラウスはハンカチを手で巻きながら話し出す。