第98話
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シグルム・ライアット侯爵は死んだ。
アイリ・カナン・ヴィスケーノ王太子妃も、死んだ。
存命であれば、このヴィスガルド王国を良き方向へと導いたであろう人物は、他にも大勢いる。
皆、死んだ。殺された。
自分たち兄弟は、この国を悪い方向へ、悪い方向へと、追いやっている。
リオネール・ガルファは、そう思う。
「俺たちなんて……生きてちゃいけねーんだよなぁ、兄貴……」
月を見上げ、語りかけてみる。
応えなど、返っては来ない。
月はただ、冷たい光で地上を照らすだけだ。
殺戮の光景を、照らし出すだけだ。
名は、忘れた。
いくらか手段を選ばぬやり方で、のし上がって来た商人、であるらしい。
だから恨みを買い、こうして暗殺者を差し向けられた。
商人も、その護衛の荒くれ者たちも、血まみれの屍となって散乱している。
リオネール自身も血まみれだが、これは返り血だ。
自分が無傷であるのは、技が優れているから、ではない。
こうして容易く仕留められる標的ばかりを、選んでいるからだ。
容易い仕事ばかりを、受けているからだ。
兄ザーベック・ガルファは、死んだ。
女性と赤ん坊を始末するだけの、容易いはずの仕事で、命を落としたのだ。
思わぬ手強い妨害者に、出会ったのだろう。
手強い相手と戦い、死ねたのだろう。
自分には、それが出来ない。
こうして楽な仕事ばかりを淡々とこなし、浅ましく生きながらえている。
「俺……腐ってる、って事だよな……兄貴……」
呟き、ちらりと視線を動かす。
屍ではない者たちが、そこにいた。
赤ん坊を抱いた、女性。
地面に座り込み、青ざめ、震えている。
リオネールが今、喉を切り裂いて殺害した商人の、妻と子供である。
赤ん坊は状況に気付かず、母親に抱かれたまま、だぁだぁと暢気な声を発している。
「殺しなさいよ……」
怯えながらも、母親は言った。
「人から恨まれる商売しか出来ない……殺されて当然の、男だったわ。そんな奴から結局は離れられなかった、あたしもあたし。この子だってね、生きてたところで、親そっくりのクソ人間にしかならない……まとめて殺しなさいよ。それが、あんたの仕事なんでしょ」
「人から、恨まれる商売……俺もそれ、やってるんスよ」
リオネールは言った。
動けなかった。
無抵抗の母子である。
この片刃の長剣を、一閃するだけで、まとめて首を刎ねてやれる。
苦しませる事なく、夫の、父親の、もとへ送ってやれる。
リオネールは、そう思う。
思うだけで、身体が動かない。
兄の、言った通りだった。
だから自分は、兄の最後の仕事から外されたのだ。
自分たち兄弟を育ててくれた、あの人物にも見放された。
その後こうして、楽な仕事ばかりを受けている。
それに、しかし徹する事も出来ない。
女性や子供が相手となると、刃が動かなくなってしまう。
「そっか……俺って、中途半端な奴だったんだ……」
リオネールは呟いた。
「…………死んだ方が……いい、かも……」
「そうですか。では、お死になさい」
声がした。
細い人影が、殺戮現場の血生臭さを意に介する事もなく、歩み寄って来る。
「君の命は、我々が預かります」
枯れ木に白衣を着せたような、痩せた初老の男。
一見しただけで、リオネールは理解した。
「……あんた……魔法使い、ッスね」
「わかりますか、さすがです」
初老の男は、言った。
「私はイルベリオ・テッドという者。君の兄上と、いささか縁がありましてね……いずれは暗殺者という仕事を続けられなくなるであろう弟リオネール君の、面倒を見て欲しいと。そう頼まれていたのですよ」
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「やはり、剣士……なのですね。シェルミーネ・グラーク嬢、貴女の本質は……」
イルベリオ・テッドは、呟いた。
「なればこそ。その身に取り込んだ、ヴェノーラ・ゲントリウスの魔力が……刀剣として、実体化を遂げる」
実体化を遂げたものが今、シェルミーネ・グラークの右手で、淡い光を発している。
発光する金属で組成された、細身の長剣。
それを軽やかに構えたまま、シェルミーネは対峙している。
おぞましく震え揺らめく、巨大な肉塊と。
無数に生えていた電光の触手は、全て切り落とされていた。
それらを再生させる事もなく肉塊は、破壊された山林の中、醜悪にして無力な様を晒すだけだ。
アドランの山林地帯は今、まるで巨大な落雷に見舞われた直後であった。
木々は倒れて黒焦げとなり、地面もズタズタに掘り返されている。
荒れ狂う落雷を引き起こしていたものが今、シェルミーネと対峙し、怯えているように見えた。
雷の触手を、全て切り落とされた肉塊。
震えている。
シェルミーネを、恐れているのか。
恐れる心を、取り戻したのか。
「……さあ、どうなさいますか。ルチアお嬢様」
イルベリオは語りかけたが、その声が届いてはいないだろう。
「貴女を異形のものヘと変えた、ヴェノーラ・ゲントリウスの魔力……その半分は今、シェルミーネ嬢が引き受けて下さいましたよ。彼女は異形に変じる事もなく、引き受けたものを見事、剣士としての力に昇華させてくれました。貴女は、どうなさるのですか? ルチアお嬢様」
「……良かったですね、イルベリオ先生」
声を、かけられた。
「貴方、殺されていたかも知れませんよ。リオネール君に」
クリスト・ラウディースだった。
地面に片膝をつき、横たわる何かを観察しながら、言葉だけをイルベリオに投げかけてくる。
マローヌ・レネク、それに獣人クルルグもいる。
三人で、地面に倒れた一人を、取り囲み気遣っていた。
「……駄目なの? クリスト司祭」
マローヌが呻く。
「私とクルルグ君を、治してくれたみたいに……」
「……治りませんね。今の彼は、癒しの力を受け付けない状態にあります」
彼、と呼ばれたものが、倒れたまま蠢いていた。
先程まで、黒焦げの屍であったもの。
いや、辛うじて生きてはいた。
早急に治療を施せば、一命を取り留めると思われた。
だからクリストが、唯一神の加護を喚んだところである。
神聖なる癒しの力は、マローヌとクルルグを治療した。
だが。
大皇妃ヴェノーラ・ゲントリウスの魔力を原料とする、雷。
それを長時間に渡って受け続け、黒焦げとなったリオネール・ガルファの肉体は、唯一神による癒しを拒んでいた。
聖なる治療を拒んだ肉体が今、悪しき変異を遂げようとしている。
黒焦げの屍も同然であったリオネールは今、ルチアと同じ様を晒していた。
四肢の分岐した胴体という、人の原形は辛うじて維持したまま、もはや人間の臓器ではあり得ない様々な器官を、露出させ脈動させている。
「ヴェノーラ陛下の魔力が……どうやら、リオネール君の身体にも入り込んでいますか」
イルベリオは、分析した。
「ルチアお嬢様とシェルミーネ嬢で、およそ半分ずつ……かと思っていましたが。どうやら各々、四割ずつ、といったところでしょうね」
「残る二割が、リオネール君に……」
クリストが言った。
「魔力の素養を全く持たない、彼が……ヴェノーラ・ゲントリウスの魔力を、その身に取り込んでしまった。耐えられる、とは思えません」
「シェルミーネ嬢の如く、他者の魔力を吸収し利用するような技能も、リオネール君にはありません。このままでは」
「……バケモノに変わっちゃう、って事? 黒薔薇党の、連中みたいに」
マローヌが、嘲笑った。
「まあいいわ。そうなったら私が、このバカ猿を酷使してやるわよ。使い捨ての兵隊として、ね」
「ルチア・バルファドールに忠誠を誓っている者など、ここには一人もいない」
淡く輝く魔剣を、油断なく構えたまま、シェルミーネが言葉を発した。
「あなた方全員に共通して在るのは、魔王の原材料ルチア・バルファドールに対する好奇心のみ……そう、おっしゃいましたわよね? イルベリオ殿」
蠢く肉塊と化したリオネールに、一瞬だけ、シェルミーネの眼光が向けられる。
「好奇心、ではないものを……ルチアに対し、抱いておられた方。いらっしゃるようですわね」
「……私が許せませんか、リオネール君」
イルベリオは問いかけた。
「君がもし、このまま想像を絶する怪物となって蘇るような事があれば……ルチアお嬢様を、結局は魔王の原材料としてしか扱わなかった私など、確かに君に殺されてしまうかも知れませんね」
リオネール・ガルファという若者は、脱け殻だった。
兄ザーベックのような、非情の暗殺者として生きる事も出来ず、彷徨っていたのだ。
「そんな、脱け殻の君が……人外の怪物として、とは言え中身を有する事が出来るなら。捨て犬であった君を拾ってあげた事にも、憐憫以上の意味が」
イルベリオを黙らせるかのように、その時。
電光の触手を全て失っていた肉塊が、ひときわ大きく痙攣した。
そこにシェルミーネは魔剣の切っ先を向け、語りかける。
「……そろそろ起きなさい、ルチア・バルファドール」
戦闘能力を失った、ように見える肉塊を、魔剣で斬滅する事も出来たはずだ、とイルベリオは思った。
「身嗜みを整えてから、出ておいでなさい。アイリさんに顔向けが出来る、程度には……ね」
痙攣した肉塊が、裂けた。
中から、ずるり……と何かが現れる。
それは、羽化する昆虫が、繭を破る光景だった。
「シェルミーネ・グラークの本質は、剣士……」
羽化しつつあるものの姿を見つめながら、イルベリオは呟いた。
「では、ルチアお嬢様……貴女の、本質は……?」




