第95話
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光が、満ちた。
まるで、唯一神教の聖典に記された天地創造の物語、その冒頭部分の展開のようである。
混沌たる世界に、光が生じて行き渡ったかの如く。
戦場と化したアドランの山林地帯に、光がもたらされたのだ。
目で眩しいと感じられるような、光ではない。
光としか表現し得ぬ、優しく仄明るく柔らかな力が、山林に行き渡ったのだ。
聖なる、癒しの力。
唯一神の、加護の発現。
自分にも出来ぬ事はない、とクリスト・ラウディースは思う。一応は、聖職者として修行を積んだ身である。だが。
「これは……私ごときの力とは、格が違う……」
呆然と呟いている間に、クリストの負傷した肉体は完治していた。
あちこちで死体のように転がっていた兵士たちが、よろりと立ち上がりつつある。
王国正規軍の、精兵部隊。
その指揮官であるレオゲルド・ディラン伯爵が、傷の癒えた身体で雄々しく立ち上がり、上空を睨んでいる。
「ルチア・バルファドール……花嫁選びの祭典、出場者よ」
空中に佇む異形の姿へと、語りかけている。
「序盤で脱落し、その後は優勝者アイリ・カナンと行動を共にするしかなかった敗北者よ。貴様このままでは、それ以上の敗北を喫する事となるのだぞ」
敗北者。
それは妹リアンナ・ラウディースの事を言うのだとクリストは思う。
それはともかく。
レオゲルドの傍らには、光り輝く小さな姿があった。
旧帝国貴族コルベム家の幼き令嬢、ミリエラ・コルベム。
その可憐な全身で、唯一神の絶大なる加護を召喚し、この場の負傷者全員に治癒をもたらしている。
まさしく、小さな聖女。
同じ聖職者でも自分とは格が違い過ぎる、とクリストは思わざるを得ない。
あのまま黒薔薇党に身を置いていたら、間違いなくヴェノーラ・ゲントリウスの生まれ変わりとして扱われ、叛乱の旗印にされていただろう、とも。
愛らしい両手を、ミリエラは天空に向かって一生懸命かざしている。
唯一神の加護力が、上向きに張り巡らされていた。
護りの力。
聖なる白き魔力が、光の防壁となって、地上にいる者たちを包み護っているのだ。
そこへ、おぞましく凶暴な力が激突した。
上空から、振り下ろされていた。
溢れ出した臓物、あるいは人体を食い破った寄生虫のような、大量の太い触手。
それらがバチバチッ! と魔力の電光を帯びながら、何本もの鞭の如く、聖なる防壁を殴打直撃したのである。
防壁は、砕け散った。
光の破片が、キラキラと降り注ぐ。
その煌めく雨の中でミリエラが、よろめきながらも健気に踏みとどまり、悲鳴を噛み殺す。
庇うように、レオゲルドが立つ。
そこへ、声が降り注いだ。
「……敗北者……私が?」
どこから声を発しているのか、わからぬ有り様に、ルチア・バルファドールは成り果てていた。
左腕だけであった変異が、今や全身に及んでいる。
たおやかな姿はもはや見る影もなく、肉塊としか呼びようのない全身から、帯電する触手が伸びて獰猛にうねり暴れているのだ。
黒薔薇党の党員たちと同じ……いや、あれらを遥かに上回る醜悪奇怪な姿が、空中に浮かんでいる。
異形化した太陽、のようでもある。
「そう……確かに、そう……かもね。私、結局アイリを守れなかった……わけ、だし……」
電光を帯びたる肉質の太陽が、声を震わせている。
「守れなかったら、どうするか……仇を討つ、しかないじゃない? ねえ……」
「だから、この王国を滅ぼそうと言うのか」
兵士の一人から長剣を受け取りながら、レオゲルドは言う。
「アイリ・カナン王太子妃は、確かに死んだ……何者に、殺されたのか? それがわからぬから大勢の人間を殺す。無様な八つ当たりだと思わんのか! それはな、敗北者のする事だ。アイリ・カナンを殺した者に、お前は負けた! そういう事にしか、ならんのだぞルチア・バルファドールよ」
「アイリは……この国に、殺されたのよ……」
雷鳴が、轟いた。
「……あんた、みたいな連中がねえぇ……そういう国を、守ってる……」
今のルチアは、天空に浮かぶ異形の太陽であり、雷雲でもあった。
帯電する触手たちが一斉に、放電の輝きを放つ。
「あんたが……あんたも、ねぇ……あんたもねぇえ、アイリを殺したのよぉおおおおおおおおおおッ!」
電光の豪雨が、降り注いだ。
ミリエラが再び両手をかざし、聖なる防壁を張る。
そこへ、稲妻の雨が激突する。
聖なる防壁に、亀裂が走った。
それはまるで、天空がひび割れたかのようにも見えた。
「バルファドール家の……ルチアお嬢様……」
崩れゆく天を、可憐な両手で懸命に支えるようにしながら、ミリエラは語りかける。
「この世が、滅びてもいい……そうお考えなら、私に……それを咎める資格、ありません……」
「貴女の、お母様には……申し訳ない事をしたと思ってるわ。コルベム家のミリエラ嬢」
荒れ狂う雷の怪物と化しながらもルチアは、会話をする冷静さを失ってはいない。
まだ救える、とクリストは思った。
「もうちょっと、大人しくして下されば……ね。守ってあげられなくも、なかったけど。バレリア夫人……思いのほか、活動的な人だったわ。ねえミリエラ嬢? 私、貴女にとっては母上の仇なのよ」
「……母の事は……もう、いいんです……」
ミリエラは、可愛らしい唇を噛み締めた。
「私、母には……生きていて欲しかった、と言うより……父と、仲直りをして欲しかった、だけなんです。子供のわがままです。父にも母にも、仲直りなんかしないで……別々に、幸せになる生き方だって、あって当たり前なのに……私、それを認めようともしなかった……本当に、わがままです」
「あんな母親の事なんて、放っておけば良かった……遠回しに、そう言ってるように聞こえるわよ」
電光の豪雨を降らせながら、ルチアは苦笑している。
笑顔など、もはや見えはしないのだが。
「まあ当然かしらねえ……ちなみに私、父も母も殺しちゃってるわ。バルファドール家の当主ご夫婦は本当、仲良しだったから。花嫁選びの祭典で勝てなかった娘を、仲良く罵倒してくれたから」
ラウディース家においても、役立たずの嫡男を一家団結して罵り虐げてくれたものであった。
だがクリストには結局、ルチアと同じ事が出来なかった。
人の道に背く。それは確かに、そうである。
だが。
人の道など踏み外す、と言うより最初から無いものとして自が道を突き進み、家族も親族も皆殺しにしてのける。
そんなルチア・バルファドールを見て、クリストは確かに思ったのだ。
この魔法令嬢は、自分より遥かに強い、と。
自分に出来ない事を、涼しげにやってのける、と。
勝てないと。従うしかない、と。
まさしくイルベリオ・テッドの言う通り。
自分は、ルチア・バルファドールの持つ、力と可能性に魅せられて、ここまで行動を共にして来たのだ。
「……大切な、お友達のいない世界は……滅びてしまった方が、良いですか?」
ミリエラは問いかける。
「私も、思ってしまいました。お父様お母様が、仲直りをして下さらない……そんな世界は、要らないって……」
「でも貴女は、そこから帰って来る事が出来た。立派だと思うわ、ミリエラ嬢」
ルチアの声は、穏やかである。
だが稲妻の豪雨は、激しさを増してゆく。
「…………私には、無理……アイリの、いない世界なんて…………許せない……」
荒れ狂う電光の嵐が、聖なる防壁を粉砕する……
寸前で、クリストはミリエラの傍らに立ち、祈りを念じた。
ひび割れていた防壁から、亀裂が薄れ、消えてゆく。
「貴方は……」
「クリスト・ラウディースと申します。ミリエラ嬢、貴女には及ばぬまでも……唯一神の御加護を、喚ぶ事が出来ます。力添えをしますよ」
聖なる魔力を、頭上の防壁に注ぎ込みながら、クリストは言った。
「……ルチアお嬢様。私はね、ただ真相を知りたいだけです。あの愚かな妹の仇を討つために、大勢の人々を殺めようとは思いません。この王国そのものに戦を仕掛けるなど……どうか、おやめ下さい」
「ふん。元々ね、貴方たちに永遠の忠誠なんて、求めてないし期待もしてないわ」
ルチアの静かな声は、轟々たる雷鳴に掻き消される事もなかった。
「……やめて欲しいなら、止めてみなさい」
「ルチアお嬢様……!」
クリストは、歯を食いしばった。
ミリエラと自分、聖職者二人分の力で維持された防壁に、またしても亀裂が走る。
「貴女は……強い……そこから帰って来る事も、貴女なら出来るはずです! ルチアお嬢様!」
返事は、なかった。
叩き付けられて来る電光の豪雨だけが、激しさを増してゆく。
聖なる防壁が、砕け散った。
電光の豪雨によって……ではない。
クリストの後方から、凄まじい力が飛び、防壁を内側から直撃していた。
巨大な三日月、のように見えた。
斬撃の閃光。
それが光の弧となって高速射出され、聖なる防壁を、電光の豪雨もろとも粉砕したのである。
防壁の破片と電光の破片が、煌めいて飛散する。
それを蹴散らして飛んだ三日月が、肉質の太陽を切り裂いていた。
大量の体液を空中にぶちまけ、おぞましい内容物を引きずりながら、ルチアは墜落した。
そして、地面に激突する。
叩き斬られた巨大な肉塊が、グシャリと広がって地面に貼り付き、様々なものを飛散させる。
「ルチア・バルファドール……貴女、ミリエラさんのおっしゃった事……まるで聴いておりませんでしたの?」
声がした。
血まみれの姿が、一つ。兵士数名に支えられ、佇んでいる。
兵士たちによって、地中から発掘されていた。
「私も、貴女も……アイリさんとは、まあ縁がありますわね。それが、私たちにとって……どれほど尊く、かけがえのないものであろうとも……」
その美貌が、乱れた金髪が、血と土で大いに汚れている。
右手には、光の剣が握られていた。
魔力の輝きを帯びた、細身の刃。
その斬撃が今、異形の太陽を、天空から切り落としたのだ。
「……そんなもの、私たち以外の方々には何の関係も無し……世界が要らないなどと、そんな理由で滅ぼしてしまおうなどと! 令嬢のわがまま、と呼ぶには……ね。ちょっと、度が過ぎますわよ」
言葉に合わせてシェルミーネ・グラークの頭から、どくどくと血が流れ出す。
恐ろしく禍々しいもの……唯一神教以前の魔王か何かが、地中より蘇ったような光景。
クリストには、そう見えてしまった。




