第94話
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美しい。
ヴィスガルド王国国王エリオール・シオン・ヴィスケーノは、心から、そう思った。
親友の仇を討つために、国を滅ぼす。
何という、美しい話である事か。
「本当に、あるのだなあ……友情というものは」
呟き、見上げる。
アドラン地方、山林の上空。
一人の少女が空中に佇み、目に見えぬ禍々しいものを制御している。
懸命に、己の全てを注ぎ込んでだ。
白色のローブをはためかせる細身に、禍々しい不可視の力は、あらかた吸収されたようである。
たおやかな肢体を、ルチア・バルファドールは苦しげに反り返らせ、痙攣させている。
辛うじて吸収しきったものを、細い身体の中で、飼い馴らさんとしているのだ。
山林の地下。
帝国陵墓……大皇妃ヴェノーラ・ゲントリウスの棺より、解放されたもの。
かの大皇妃の、霊魂……ではなく、魔力の塊であるらしい。
イルベリオ・テッド曰く、ヴェノーラ・ゲントリウスは今もまだ、存命である可能性が高いという。
五百年前。彼女は、己の魔力の一部を石棺に注入して封印を施し、『凄まじい怨念が封じられている』状態を偽造した。
自身の死を、偽装したのだ。
そして五百年もの間、正体を隠して生き長らえ、今も何かをしている。
その一方でヴェノーラは、自身の後継者、あるいはもう一人の自分を、作り出そうとしていたのではないか。
今のルチアを見ていると、そう思えてしまう。
「ぐぅ……っふ……!」
綺麗な歯を食いしばりながら、ルチアは微量の血飛沫を吐いた。
栗色の髪が、白いローブが、激しく乱れ舞う。
風は、それほど強いわけでもない。
風は、ルチアの全身から発生していた。
吸収されたはずのものが、細い肢体のあちこちから少しずつ溢れ出し、荒れ狂っている。
エリオールの周囲で何ヵ所か、地面が砕けた。
土が噴出した。
「私に……当たらぬようにしてくれているのか、ルチア・バルファドール。手に入れた力を、制御せんとしているのだな」
エリオールの声は、今のルチアには聞こえていない。
「そう……まさしく、そなたの言う通りかも知れぬ。王太子妃アイリ・カナンは、このヴィスガルドという国に殺されたのだ」
だから、復讐をせんとしている。
亡き友の、復讐。
亡き友ならば自分にもいる、とエリオールは思う。
(そなたが殺された……からと言って、ここまでの事が私に出来ると思うか? シグルム・ライアットよ……)
復讐のために、動き始める。
それすら自分には出来ない、とエリオールは思う。
もしも、とも思う。
ルチアが、この荒れ狂う魔力の嵐を完全に制御し、己の支配下に置いたなら。
そして、この王国に対する復讐を始めたとしたら。
「それは……帝国時代の魔王ヴェノーラ・ゲントリウスが復活を果たした、という事と……ほぼ同義、と言えるのではないか?」
エリオールは呟いた。
「そうなれば……約束だ、魔法令嬢よ。アイリ・カナンに関して私の知る事を、全て話さねばなるまい」
にゃーん……と、鳴き声が聞こえた。
縞模様の、太い尻尾が見えた。
「おう、クルルグよ」
エリオールは声をかけた。
獣人の若者が、自分を背後に庇ってくれている。
「私の事は心配無用であるぞ。そなたの主はな、荒れ狂う力が私に当たらぬよう頑張ってくれておるのだ」
違う、とエリオールは気付いた。
クルルグが自分を守ろうとしているのは、ルチアがまだ完全には制御出来ずにいる、この荒れ狂う不可視のものから、ではない。
歩み寄って来る、一人の男からだ。
「……やっぱ駄目ッスか? そうっすよね、クルルグ君」
三日月のような長剣の切っ先と、鋭く凶猛な眼光が、エリオールに向けられる。
それを、クルルグが遮ってくれているところだ。
「でもね、俺……その王様に、生きててもらったら……ちょっと困るかなぁ、なんて」
「おぬし怪我をしているではないか、リオネール・ガルファよ」
大柄な獣人の身体越しに、エリオールは声を投げた。
「少し、大人しくしていたらどうなのだ」
「あんた、ルチアお嬢様と……おかしな取引、してるんスよね」
ルチア・バルファドールは、大皇妃ヴェノーラ・ゲントリウスを復活させる。
自分エリオールは、それが成った暁には、アイリ・カナンに関する全てを明かし聞かせる。
その取引が、この剣呑極まる一団に拉致された自分が、今に至るまで辛うじて生かされている唯一の理由である、とエリオールは思っている。
「俺、あんたのハッタリだって思ってたんすよ。自分は何か知ってる、だから生かしといた方がいいぞって言うね」
「そのくらいの事をせねば、確かに私など生きてはいられまいな」
「……あんた、本当に知ってるッスね」
リオネールの、血にまみれた顔から、微笑みが消えた。
エリオールは、クルルグ越しに微笑みかけた。
「そうか、おぬしも知っているのか。ふむ……あやつの放った刺客は、殺されたと聞くが。おぬし、その刺客と近しい者か」
「すいません陛下。ちっとね、黙っててくれませんか」
クルルグがいなかったら、リオネールは、とうの昔に踏み込んで来ていただろう。
「ルチアお嬢様に……聞かれちゃうかも知れないッス」
「大丈夫と思えるがな」
空中で身をよじり、悪戦苦闘しているルチアの姿を、エリオールは見上げた。
地面が何ヵ所か、立て続けに砕け散った。
「あの娘に今、我らの立ち話など聞こえるとは思えぬ。言いたい事を言ってはどうだ」
「あんたに、死んで欲しいっす。永遠に黙って欲しいッス。以上、俺の言いたいのはそれだけ」
「あやつを、守りたいのだな」
エリオールは言った。
「ルチア・バルファドールが、この王国そのものへの復讐を始めた場合……あやつとて恐らく、生きてはおれぬぞ」
「あの人は、俺が守る……もちろん俺の事なんか、もう覚えちゃいないだろうけど」
言葉と共に、リオネールが動く。
クルルグも、動いた。
そう見えた瞬間。
リオネールの身体は、地面に叩き付けられていた。
そのまま押さえ込まれ、腕を捻り上げられている。クルルグによってだ。
「うっぐぅ……っ! さ、さすがっスね、クルルグ君……」
苦しげな賛辞に、クルルグは一言にゃーと応えた。
代わりに、エリオールが言った。
「まずは怪我を治す事だな、リオネールよ。そんな身体で、クルルグによる守りを突破出来るものでは」
あるまい、と続きかけたエリオールの言葉が、掻き消された。
ルチアの、絶叫によってだ。
荒れ狂う不可視の力が、目に見える力と化している。
目に見える、異形のものと化し、ルチアの細い身体から伸びていた。
左腕。
白色のローブの広い袖から、異形の怪物が出現したかのようであった。
白い細腕は、黒く巨大な触手と化し、優美な五指は太く鋭利な牙に変わって、凶暴性を露わにしている。
黒薔薇党の者たちと同じだ、とエリオールは見た。
悪しき力を植え付けられ、おぞましい人外のものと化し、人に戻る事なく死んでいった、哀れむべき人々。
「ルチアお嬢様……!」
リオネールが、息を呑んでいる。
主である、美しき令嬢の変貌に、衝撃を受けている。当然ではある。
だが、エリオールは呟いた。
「そこまでして……あれらと、同じものと成り果ててまで……友の仇を、滅ぼさんと渇望するのか。黒魔法令嬢ルチア・バルファドールよ……」
そんな言葉は、ルチアには届いていない。
形良い唇をめくって牙を剥き、燃え盛る両眼で地上を睨んでいる。
そして、左腕を振るう。
黒い大蛇のような触手が、鞭の動きでエリオールを襲う。
五つの巨大な牙で、国王を引き裂かんとする。
「…………美しい……」
それだけを、エリオールは呟いた。
この王国そのものに、復讐の戦を仕掛ける。
一応は国王である自分を、だから最初にこの世から消す。
理に適っている。光栄だ、とエリオールは思う。
国王としての価値を、自分は、強大なる復讐者から認められたのだ。
クルルグが、動いた。
リオネールをその場に放置し、こちらへ跳躍したようである。
やめろ、とエリオールは叫ぼうとした。
クルルグが、自分の盾となって傷を負うなど、起こって良い事ではない。
ルチアの左腕が、切断されていた。
黒く巨大な触手が、凶暴に跳ねながら地面を打ち、のたうち回り、弱々しく干涸らびてゆく。
不吉なほどに力強い人影が、着地していた。
エリオールとクルルグを、まとめて背後に庇う、黒く頼もしい姿。
重厚な暗黒色の全身甲冑を、まるで物ともしない跳躍。そして斬撃だった。
力強い両手それぞれに握られた、左右二本の長剣。
その片方の一閃が、ルチアの異形化した左腕を斬り落としたのだ。
「そなた……」
エリオールは、言葉をかけた。
黒騎士が、顔だけを振り向かせる。
素顔を覆い隠す闇色の面頬から、一瞬、眼差しが溢れて国王に向けられる。
この眼差しを自分は知っている、とエリオールは感じた。
ルチアの左腕は、すぐに再生していた。
滑らかな断面から、おぞましい長虫の如く伸びて牙を剥き、威嚇のうねりを見せる。
すぐに、威嚇では済まなくなる。
左腕だけではない、とエリオールは見た。
ルチア・バルファドールの全身が、人の原形をとどめなくなるのは、もはや時間の問題だ。
「お嬢様……!」
リオネールは立ち上がり、叫ぶ。
その眼前に、枯れ木のような姿が立ちはだかった。
「我々に……出来る事など、ありませんよ。リオネール君……」
イルベリオ・テッドであった。
少なくともリオネールと同じほどには負傷しているが、ルチアを見上げる両眼には、得体の知れぬ生気がある。
「……ルチアお嬢様には……この試練を、乗り越えていただかなければ……」
「試練……だと……!」
リオネールは、イルベリオの胸ぐらを掴んでいた。
「あんた、ルチアお嬢様を何だと思ってる!」
「君こそ。ルチア・バルファドール様を、よもや無害でか弱い御令嬢だと思っているわけではないでしょう?」
イルベリオの、口調も眼差しも揺るぎない。
「私も、君も、クルルグ君も……クリスト司祭に、マローヌ君も……私たち全員、ルチア・バルファドールの持つ……力に魅せられ、ここまで行動を共にしてきたのです。それが今……結実しようと、しているのですよ」




