第93話
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心優しい人物、ではあるのだろう。
その優しさは、しかし人間が、捨てられた仔犬や仔猫に抱く憐れみと同じだ。
優越感の、ひとつの形でしかない。
だから何だ、とリオネール・ガルファは今は思う。
自分も兄も、捨てられた子犬でしかなかったのは、厳然たる事実である。
捨て犬の兄弟を、この人物は拾ってくれた。育ててくれた。
憐れんで、くれたのだろう。
恵まれた人間として、惨めな者に何か施してやらなければ。
この人物は、そう思ったのであろう。
その憐れみと優越感に甘えすがって、自分たち兄弟は生き延びたのだ。
ならば。この人物に対し、自分たちの為すべき事は何か。
飼い犬としての、役割を果たす。
それ以外に何があると言うのか。
「無理強いは出来ぬ。お前たち自身で、決めるが良い」
言ってから、その人物は苦笑した。
「……すまぬ、卑劣な物言いであるな。私が頼み事をすれば、お前たちは何をおいても引き受けてしまう。私とて、それをわかっていると言うのに」
「まったくですよ。俺たちに選ぶ自由がある、みたいな言い方。するもんじゃありませんて」
ザーベック・ガルファが言った。
隻眼の容貌が、ニヤリと不敵に歪む。
「やれ、と一言おっしゃって下さればいいんです。俺だけに、ね……リオの奴には、無理ですから」
「……おいおいおい、何言っちゃってんの兄貴」
リオネールは、兄の胸ぐらを掴んでしまうところだった。
「兄貴、一人でやれるワケないっしょ。仕事自体は、そんな難しくないにしても……よ? のしかかって来るもんが、でか過ぎるっての。兄貴だけで抱えようなんて絶対無理、俺も一緒に」
「てめえ」
ザーベックの方は、弟の胸ぐらを掴んでいた。
「ちったぁ考えてからモノ言えよ? このバカ野郎が」
「……考えてたらダメっしょ、俺らの仕事って」
「そうだな、考えるまでもねえ。この仕事、お前には無理だ」
「えーと……俺、お兄ちゃんに喧嘩売られちゃってる?」
「出来るのかよ」
兄の隻眼が、ぎろりと間近から向けられる。
「てめえ……女と赤ん坊を、殺せるのかよ」
「…………殺せる。うん……やれるから、俺」
「無理だな」
ザーベックが、弟の胸ぐらを解放した。放り捨てるようにだ。
放り捨てられるまま、リオネールは尻餅をついていた。
「お前にはなぁ、リオ。女子供を殺すのは……もう、無理だ」
「私も、そう思う。この仕事は、ザーベック一人に任せるとしよう」
口調は、優しい。
だがリオネールは思った。
自分は今、この人物に見放されたのだと。
仕事の出来ない暗殺者として、見切りを付けられたのだと。
「では頼むぞ、ザーベックよ。あの方には、確実に……この世から、消えていただかねばならぬ」
「平民の希望ってやつは、やっぱり許せませんか?」
「希望ならば、まだ良い。だが野望は認められん。あの方は、民に野望を抱かせてしまう……王侯と民衆を隔てる壁、それを乗り越えんとする野望をな」
この人物は、果たして本心を語っているのか。
ふとリオネールは、そんな事を考えた。
「建国王アルス・レイドックは、その壁を力で粉砕した。結果、帝国は滅び、世は戦乱の時代を迎え、民は殺戮の憂き目に遭った……わかるかザーベックよ。王侯貴族と民衆が対等に並び立つなど、あってはならぬ事。両者を隔てる壁はな、民を守るためのものでもあるのだよ。乗り越えてはならぬ、民にとっても不幸な事にしかならないのだからな」
貴族と呼ばれる人々は皆、このように語る。
そのような、ありきたりの話で、この人物は隠しているのかも知れなかった。
アイリ・カナン・ヴィスケーノ王太子妃を、この世から消さねばならない、真の理由を。
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轟音と衝撃で、リオネール・ガルファは目を覚ました。
とてつもない力が、地面を直撃そして粉砕した、その轟音と衝撃。
大量の土が、噴出する。
震動が、こうして空中にまで伝わって来るほどの、凄まじい直撃と粉砕であった。
そこでリオネールはようやく、自分が空中にいる事に気付いた。
無論、自力の跳躍など出来る状態ではなかった。
意識のなかった自分の身体を、誰かが抱え運んでくれたのだ。
誰なのか。
クルルグか。いや、獣毛の心地良さが全く感じられない。
黒騎士か。
それにしては、感触が柔らかい。
甲冑の固さと、その下で息づく筋肉の頼もしさが全くない。
あるのは、不快感だった。
柔らかいと言ってもクルルグの獣毛とはまるで違う、不快極まる柔軟性が、身体じゅうに巻き付いている。
臓物のような触手が、リオネールの全身を絡め取り、拘束していた。
「てめえ……っ!」
「うっふふふふふ仔猿ちゃん。おねむの時間、邪魔しちゃってごめんねえ?」
マローヌ・レネクの、それなりに美しくはある顔面が、リオネールの間近でグニャリと歪んだ。
全身から生え溢れた触手で、リオネールを拘束したまま、マローヌは着地しつつ調子に乗る。
「ほーらほらほら感謝なさい? 命ひとつ分は、これから私に尽くしてもらわないとねええ」
「殺せぇええええッ!」
「いけませんよリオネール君。自ら命を投げ捨てるのは、唯一神の教えに背く事です」
もう一人。マローヌによって、ぐるぐる巻きに束縛されていた。
クリスト・ラウディースだった。
このマローヌ・レネクという女は、男二人を抱え運んで跳躍し、地面をも粉砕する力の直撃を回避して見せたのだ。
「いよいよバケモノ……なぁんてのは今更かな」
リオネールは呻いた。
「……こんな……バケモノみてーな女だったらなぁ。いっくらでも殺せるんだけどなー」
「ああん? そのお口にコレ突っ込んで身体の中身ひっ掻き回してあげよっか? ねえ生意気なお猿ちゃん」
「やめなさい」
クリストが、呆れている。
「……マローヌ嬢。貴女、私を召喚の餌にしましたね? 許してあげますから、貸し借りは無しにしましょう」
「うふふん。クリストさんならねえ、平気だって思ったのよ。実際、平気だったでしょ?」
言いつつマローヌは触手をほどき、二人の男を解放した。
「……で、この状況なんだけど。全体的に、あんまり平気じゃないみたいね」
アドラン地方、山林。
へし折られた木々が、視界内あちこちで倒れている。
人も、倒れていた。
武装した、兵士たちである。
ここアドランの帝国陵墓に巣喰う賊徒を、討伐すべく派遣された、王国正規軍。
指揮官レオゲルド・ディラン伯爵の姿は見えない。
どこかで、大木の下敷きにでもなっているのか。それとも、粉砕された地面に埋まってしまったか。
あるいは、跡形もなく消し飛んだか。
ともかく。目に見えぬ力が、荒れ狂っていた。
山林を破壊しつつある、不可視の荒ぶる力。
その発生源である少女が、空中に佇んでいる。
白色のローブをまとう、たおやかな肢体が、やや苦しげに反り返っているようだ。
牙を剥くように歯を食いしばる美貌の周囲で、栗色の髪が乱れ舞う。
地下から、陵墓内から、烈しく噴出したものを、少女は全身で受け止め、受け入れ、吸収せんとしているのだ。
吸収しきれずにいるものが今、暴れ狂って山林を破壊している。
リオネールとクリストも、殺されるところであった。
「こ……これが……」
少女は、呻いた。
「……これが……大皇妃ヴェノーラ・ゲントリウスの……大いなる、魔力……ふふっ、いいじゃないの。最高よ」
「ルチアお嬢様……」
呆然と、リオネールは声をかけた。
「あの……何、やってるんスか……?」
「逃げなさい、リオネール。生きてる人たち、全員を連れて」
ルチア・バルファドールは、会話をしてはくれた。
「この、力……私は必ず、ものにする。制御して見せる……巻き添えになりたくない人たち、早く逃げなさい」
「……そっすよね。ルチアお嬢様って結局、何だかんだで……優しい、人なんスよ」
力。
大皇妃ヴェノーラ・ゲントリウスの、大いなる魔力。
それが、この荒れ狂う不可視のものの正体なのか。
あの石棺の中にあったもの、であるのか。
かの大皇妃が、この陵墓に仕掛けたという、自身の復活の手立て。
それが、これか。
リオネールは、なおも問いかけた。
「そんなもの、制御とか……出来たとして一体、何に使うんスか?」
「……ゴルディアック家のクソジジイと、ちょっと話してみてね……私、思ったのよ。ああ、これが、この国なんだって……」
ゼビエル・ゴルディアックの事であろう。
「あんな、要らないもの……処分する事も出来ない。要らない連中を、生かしとかなきゃいけない。要らない奴らの言う事、聞かなきゃいけない……そんな所へ、ね。アイリは入って行っちゃったのよ? あの祭典で、うっかり優勝しちゃったせいで」
リオネールは思う。
要らないものならば、自分たち兄弟も随分と始末してきた。
あの人物の、命令に従ってだ。
あの人物は、やがてアイリ・カナン・ヴィスケーノ王太子妃を『要らないもの』に認定してしまった。
「何でアイリが、あの祭典に出たのかって言ったら……アラム王子と結婚するため、なんだけど。そのアラム王子は、アイリを守ってくれなかった。アイリのために、何もしてくれなかった。でもね、それはアラム王子が悪いんじゃないのよ。ヴィスガルドって所が、そういう国だから」
ルチアは微笑んだ。
「王子様がね、いろんな要らないもの守らなきゃいけない。要らない事しなきゃいけない。アイリの事だけ、考えていればいい……わけじゃない。アイリもアイリで色々、要らない事に気を配らなきゃいけない。王族になっちゃったから。優勝なんか、しちゃったせいでね」
笑顔が、微かに震えている。
「アイリを殺したのは……だから、この国なのよ……」
違う、とリオネールは叫びそうになった。
ザーベック・ガルファという凶器を振るい、アイリ・カナン・ヴィスケーノの命を奪ったのは、ある一人の人物だ。
ここでそれを叫べば、ルチアの復讐は全て、その人物のみに向けられる。大勢の人間が、殺されずに済むかも知れない。
そしてリオネールは、恩人を裏切る事となるのだ。




