第92話
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山林地帯、全域が揺れた、ように感じられた。
「何事……!」
レオゲルド・ディランは、状況を確認したかった。
だが、目の前の敵から注意を外すわけにはいかない。
二人。
剣呑極まる敵が、こちらを注視しているのだ。
一人は、暗黒の塊のような男であった。
闇そのものを鋳造したかのような全身甲冑の下で、強靭な筋肉が息づいているのがわかる。
首から上は兜と面頬で、視界確保用の裂け目からは、燃え上がる眼光が禍々しく漏れ溢れていた。
もう一人は禿頭の青年で、クリスト・ラウディースと名乗った。
鍛え込まれた肉体に、唯一神教の法衣と鎖帷子をまとい、鋼の連結棍を右手で持ち脇に挟んでいる。
視線を外した瞬間、その連結棍が暴風を巻き起こし、襲いかかって来るように思える。
ディラン家に仕える兵士およそ五十名が、指揮官レオゲルドを護衛する形に布陣しているが、一番の猛者であったダルバルグ・レーンが先程、一撃で斬殺されてしまったところである。
暗黒色の全身鎧をまとう、この恐るべき剣士によって。
およそ五十名、全員が、たった二人の敵に気圧されていた。
聖女ミリエラ・コルベムによる加護も、今はない。
部下たちの怯みを、レオゲルドは空気として感じ取っていた。
アドラン地方の山林で行われている、五十名と二人の対峙。
その間に突然、光が割り込んで来た。
山林の地面に、謎めいた紋様が描かれている。
光で描かれた、紋様。様々な記号を内包する、真円。
そこから、人影が二つ、出現していた。
「ありゃ……外に、出ちゃったっスね」
石造りの巨体と、小型肉食獣を思わせる小柄な細身。
言葉を発しているのは、後者の青年である。
「まあ、いいや。どうもクリスト司祭、ただいまっス」
「お帰りなさいリオネール君。中は今、少し取り込み中でしてね」
中、外。
それは、この山林地帯そのものとも言える帝国陵墓の、中であるか外であるか、という事であろう。
「もっとも見ての通り、こちらも今ちょっとした厄介事の最中なのですが……ああ紹介しますよレオゲルド卿。我々の頼もしい仲間、リオネール・ガルファ君と魔像のボルグロッケン君。お仕事で出ていたところですが、戻って来たという事は、そこそこは上手くいったという事でしょうかね」
「んー、どうっすかね。ちょっとまあルチアお嬢様に報告しなきゃいけない事あるんスけど、それ次第って感じかな」
リオネール・ガルファと呼ばれた青年が、こちらを向いた。
「……ども。王国正規軍の方々っすか? もしかしなくても、俺たちを駆除しに来た感じっすねえ」
「レオゲルド・ディラン伯爵ですよ、リオネール君。旧帝国系貴族の中では、ルチアお嬢様の次に、敬意を払うに値する人物です。無礼のないように」
再び、地面が揺れた。
「おっと……これは、いよいよ」
クリストが言った。
「近い、ようですね。ヴェノーラ・ゲントリウス陛下の、復活と御再臨が」
「何を……」
抜き身の長剣を構えたまま、レオゲルドは問いかけた。
「陵墓の中で……ルチア・バルファドールは一体、何をしているのだ」
「もう間もなく、わかると思いますよ。それまでに……私たちのお話を片付けてしまいましょう、レオゲルド伯爵」
傍らに佇む暗黒色の全身甲冑に、クリストは軽く片手を触れた。
「こちらの、黒騎士殿の御正体でしたね? 私がそれを明らかにすれば、貴方は私の知りたい事を教えて下さると。確か今、そのようなお話の真っ最中でしたか」
禿頭の青年の、つるりとした秀麗な顔面に、不敵な微笑が浮かぶ。
「……シグルム・ライアット侯爵」
「何……?」
「貴方もシェルミーネ嬢も、戦闘中に幾度か、その名を口にしておられた。黒騎士殿の正体が……そうですか。旧帝国系貴族最大の傑物、でありながら惨たらしい怪死を遂げたと言われる、かの人物ではないかと。貴方は思って、疑って、危惧して、いらっしゃるわけですねレオゲルド卿」
「ねえな」
リオネールが言った。
「そいつは絶対、あり得ないっス。シグルム・ライアット侯爵はね、俺たちが……俺の兄貴が、きっちり仕留めた。それだけは誰にも否定させないっすよ、レオゲルド伯爵」
「ほう……」
この若者を、捕えて尋問せねばならないか。
そうレオゲルドが思った、その時。
山林地帯が、またしても揺れた。
今度は、震動だけでは済まなかった。
地面が裂け、大量の土が舞い上がった。
木々が倒れ、砕け散った。
土や木片、だけではない。
凄まじい量の、石材の破片が、地中から噴出していた。
陵墓の一部が、内部から破壊されている。
その破壊を行ったものが、地上に出現したところであった。
いや、出現と呼べるほど明確な姿はない。
形なき、力の奔流。
無理矢理にでも言葉で表現するなら、そのようになるか。
噴出した土や木屑、石の粉塵が、激しく舞い漂う様。
それによって辛うじて、形なきものの暴れ狂いようを視認する事が、出来なくもない。
「これが……」
クリストが、息を呑みながらも訝しんでいる。
「……大皇妃ヴェノーラ・ゲントリウス……? いや、これは……」
「……そう。これは単なる、魔力の奔流」
声がした。
暴れ狂う、不可視の何か。
その噴出と共に地中より現れ、上空へと吹っ飛んでいたものが、ゆっくりと降下して来る。
「五百年前に、ヴェノーラ・ゲントリウスが棺に詰め込んだもの……かの大皇妃は最初から、亡くなってなどいなかったのですよ。クリスト司祭」
「イルベリオ先生……」
光の球、である。
恐らくは、魔力による防護膜なのであろう。
それが大型の球形を成し、複数名の人間を内包している。
三人だった。
幼い少女が一人、大人の男が二人。
光の球を制御していると思われるのは、その片方。白色のローブをまとう、痩せた初老男性である。
イルベリオ先生と呼ばれた、その男が、防護の光球を着地させる。
防護膜は、消えた。
幼い少女が不安げに見回している。
土や木屑、石の粉塵が激しく噴出し続ける様は、さぞかし不安を掻き立てられるものではあろう。
だが彼女が不安がっているのは、どうやら、それに対してではない。
「助けていただいて……ありがとうございます、イルベリオさん……」
ミリエラ・コルベムだった。
「……あの……シェルミーネ様は……」
「…………申し訳ない。あなた方お二人を、とっさに守りの魔法で包み込むのが精一杯であった」
二人。
片方はミリエラ、もう一名はレオゲルドにとって一応、救出せねばならない事になっている人物である。
緊急時である。
レオゲルドは、拝跪を省略した。
「国王陛下……御無事で、あらせられましたか」
「残念であったな……などと、子供じみた事を言っている場合ではないようだ」
エリオール・シオン・ヴィスケーノは、その小太りの身体で、ミリエラを庇うように立っている。
土が、木片や石の破片が、国王に降り注ぐ。
「レオゲルド・ディラン伯爵……ミリエラ・コルベムを連れて即時、撤退せよ。この娘を、まずは守ってやれ」
「シェルミーネ様が!」
「あれは死なん。殺しても死なぬ者というのは確かにいるのだ、ミリエラよ」
レオゲルドは駆けた。踏み込んだ。
荒れ狂う不可視のものが、粉砕した大地を蹴散らしながら、国王とミリエラに襲いかかる。
粉塵の舞い方で、それがわかったからだ。
抜き身の長剣に、気力を流し込む。
そしてエリオールとミリエラの前に出ながら、斬撃を叩き込む。
襲い来る、不可視の力にだ。
兵士たちも、それに続く。
そしてイルベリオも、それに合わせて魔力を放出したようである。
先程の防護球体と同じ、守りの力が、レオゲルドの部隊全員を包み込む。
そこに、聖なる加護の力が加わった。
ミリエラの手によるものだ。
二重の守りを得た、レオゲルド隊の防御が、しかし砕け散った。
ヴェノーラ・ゲントリウスの魔力であるらしい、不可視のものの直撃。
魔法の防護膜も聖なる加護も、ひとまとめに粉砕され、光の破片となってキラキラと散る。
兵士たちが、血飛沫を咲かせながら吹っ飛んで地面に落ちる。
「ぐうっ……!」
レオゲルドも倒れ、血を吐いた。
身にまとう甲冑が、あちこち凹んで肋骨を圧迫している。
圧された肋骨が、何本か折れている。
気の力を帯びた長剣の刃は、砕けていた。
イルベリオは、倒れている。
少し離れた所では、クリストとリオネールが、同じように倒れていた。
不可視の襲撃は、そちらにも向かったのだ。
黒騎士、ただ一人が立っている。
左右二本の長剣が、うっすらと気の光を帯びている。
荒れ狂う不可視のものを、二刀の斬撃で防御したのだ。
レオゲルドの部隊も、クリストもリオネールもイルベリオも耐えられなかった、力の奔流の一撃を。
(化け物か……)
呻こうとして、レオゲルドは血を吐いた。
(この……武勇……やはり、シグルム侯……では、ないのか……?)
エリオール王は、後方で尻餅をついていた。
その小太りの身体にミリエラはすがり付き、青ざめている。
レオゲルド隊による護衛は、この二名を辛うじて守りきった。だが一度きりだ。
もう一撃は、しかし来なかった。
荒れ狂う不可視の力が、さらに荒れ狂おうとして、止まっている。止められている。
それによって、この空間そのものが痙攣しているのを、レオゲルドは感じた。
「……大皇妃……ヴェノーラ・ゲントリウスは……」
イルベリオが倒れたまま、譫言のように呟く。
「自身の死を偽装し、我々を欺いた……一方で。優れた魔法の素養を持つ、有望な少女に……己の力の一部を託す意思も、確かにあった……」
少女が、一人。空中に、佇んでいた。
彩りに乏しい、暗黒色の瞳が、地上に倒れ伏す者たちを見下ろしている。
栗色の髪が、揺らめいている。
荒れ狂う不可視のものは今、その少女一人によって、止められていた。
白衣に包まれた細い全身で、少女は、吸収し始めている。
不可視の力。
陵墓より噴出し荒れ狂う、古の大皇妃の魔力を。
「……魔力を持った乙女を渇望する、ヴェノーラ妃の声を……私は、確かに聞いたのです……」
立ち上がれぬままイルベリオは少女を見上げ、語りかけた。
「ルチアお嬢様……やはり、貴女こそが……ヴェノーラ・ゲントリウスの……後継者……」
「もらうわ」
語りかけには応えず、ルチア・バルファドールは言った。
「この力、私がもらう……どうもね、本当にねえ、この国そのものに戦争、仕掛けなきゃいけない感じに、なり始めてるからね。そうでしょ? 国王陛下」
美しい、だが暗い、笑顔だった。
「何となく、わかってきた。アイリを殺したのって結局、この国なのよね?」




