第89話
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父も母も、孤独だった。
共にいる事で、互いに傷付け合い、より孤独を深めてゆく。
そんな夫婦だった。
自分に、何が出来たのか。
両親を仲直りさせたい、などというのは、思い上がりであったのかも知れないとミリエラ・コルベムは思う。
しかし、自分は一人娘なのだ。
両親の仲違いを放ってはおけないのであれば、自分が動くしかないではないか、とも思う。
祖父が存命であれば、頼っていたところではあるが。
コルベム家の前当主バルサック・コルベムは、唯一神に仕える聖職者でもあった。
息子クルバートに当主の座を継がせた後は教会に入り、俗世間とは関わらず余生を過ごした。
家族・親族との関係も、絶ってしまった。
いや。孫娘ミリエラの事だけは、可愛がってくれた。
唯一神の加護を発現させる白き魔法を、ミリエラはこの祖父より学んだのだ。
今思えば、祖父も孤独な人物であったのかも知れない。
息子夫婦との折り合いは、良くはなかった。
あるいは。貴族社会そのものに、愛想を尽かしていたのか。
だから当主の地位を息子に押し付け、教会に逃げ込んだのか。
祖父バルサックが、存命であれば。
孫娘が黒薔薇党に近付く事を、決して許しはしなかっただろう。
母バレリアが黒薔薇党に入れ込むようになったのも、やはり孤独であったからだろうとミリエラは思う。
娘である自分を味方に引き入れよう、という態度が、両親のどちらにもあった。
ある時から父も母も、娘の身柄を奪い合う敵同士となっていた。
そしてミリエラは、母の側に付く格好となった。
父クルバートには、税務官としての仕事があった。
母バレリアには、何も無かったのだ。
彼女は娘ミリエラを無理矢理、黒薔薇党の集会に伴った。
ある時、一人の党員が事故に遭い、負傷した。
それほどの大怪我ではなく、ミリエラの力で治してやる事が出来た。
治した。
それが、大きな誤りであった。
弱小貴族コルベム家の幼い令嬢を、黒薔薇党の大人たちは大いに神聖視した。
大皇妃ヴェノーラ・ゲントリウスの生まれ変わり、のように扱い始めたのだ。
ミリエラは、黒薔薇党の聖女となってしまった。
バレリアは聖女の母となり、党内で大きな発言力を持つに至った。
母が、明るく笑うようになった。
自分が聖女として振る舞う、それで母が幸せになれるのであれば、まあ良い。
この状況を、変える必要もない。
自分は愚かしくも、そんな事を考えていたのだ。
今ならば、わかる。
母は別に、大きな発言力を持っていたわけではない。
単に、声が大きかっただけだ。
聖女の母親として、傲慢に振る舞っていただけだ。
黒薔薇党の全員が、バレリア・コルベムを疎んじ、嫌っていた。
母は、より孤独になってしまった。
そんな母を黒薔薇党に放置して、ミリエラは父クルバートのもとへ戻った。
父と共に、レオゲルド・ディラン伯爵のもとへ身を寄せた。
そして、母は死んだ。
「…………私の……せい……」
「そのような事、考えてはならん」
声が、聞こえた。
己の状態をミリエラは、ようやく認識した。
力強い細腕に、抱かれている。
誰かが自分を、しっかりと抱いて、守ってくれている。
シェルミーネ・グラーク。
熱気を帯びた美貌が、すぐ近くにあった。
ミリエラを抱いたまま、シェルミーネは何事かを呟いている。
だが今、語りかけてきたのは、彼女ではない。
すぐ近くに佇む、小太りの年配男性。
黒薔薇党で最も偉そうに振る舞っていたのは母バレリアであるが、最も敬意を払われていたのは、この人物である。
ヴィスガルド王国国王、エリオール・シオン・ヴィスケーノ。
何もかもを諦めきったような、生気に乏しい両眼が、しかし若干の慈愛に似たものを宿してミリエラに向けられている。
「バレリア・コルベム夫人……あれはのう、もはや誰にも救えぬ。どうにもならぬ」
国王は言った。
「そなた一人が、どう頑張ったところでな」
「…………国王陛下……母の悪口を、言わないで下さい……」
「すまぬ」
この王国で最も偉大であるはずの人物が、一貴族の娘に頭を下げた。
「そなたは優しいのだな、ミリエラ・コルベム。両親に愛され、育ったのであろう。あの母親にも……一人娘に打算なき愛情を注いでいた時期が、あったのだな」
打算なき愛情。
つい先程、炎となって心に流れ込んでいたものを、ミリエラは思い返した。
大皇妃ヴェノーラ・ゲントリウス。
彼女こそ、そのような人物ではなかったか。
夫を、息子を、打算なく愛する。
強大なる専制君主であると同時に、彼女は妻であり、母親であったのだ。
夫に、息子に、愛を注いだ。
その愛が通じていたか、夫君と子息に理解され受け入れられていたのどうかは、別の話である。
比べるものでは、ないだろう。
だが母と同じく、いやそれ以上に、孤独な女性だったのではないか、とミリエラは思う。
生きなければ、ならない。夫のために、息子のために。
それが、石棺より噴出してミリエラを捕え、この玄室へと引き込んだ炎の、主成分たる想念であった。
もしかしたら、とミリエラは気付いた。
(ヴェノーラ陛下、貴女は……旦那様と御子息が、すでにお亡くなりになっている事。受け入れて、おられない……認めて、いらっしゃらない……?)
死せる人間の意識を、思考を、感情を、生前の如く保存・維持する手段が帝国時代、仮にあったとして。
ヴェノーラ・ゲントリウスの死後、およそ五百年である。
意識・思考・感情はともかく、正気が維持されているとは、ミリエラには思えなかった。
先程、自分を包み込んだ炎。
肉体を灼かず、心を灼き尽くしに来た炎。
あれは、石棺の中で五百年もの間、醸成された、狂気ではないのか。
愛する者の失われた世界で、愛する者を捜し求める。
その過程で、破壊が、殺戮が、行われる。
ヴェノーラ・ゲントリウスの復活・再臨とは、すなわち、そういう事ではないのか。
それでも、良い。一向に構わない。
このような世界、殺し尽くされてしまえば良い。破壊されてしまえば良い。
両親の和解が、もはや永遠にあり得なくなった世界など。
自分が、両親を和解させられなかった世界など。
滅びてしまえば良い。
そのような精神状態に陥りかけている自分を、ミリエラは呆然と認識していた。
「父と母が、この世の全てであったのだろうな。そなた」
エリオール王が言った。
正確には、祖父もいた。
家族こそがミリエラにとって、世界の全てであったのだ。
国王は、なおも語った。
「私には、アラム・ヴィスケーノという息子がいる。親の贔屓目を抜きにしても、良く出来た男だ。傑物と言って良かろう。あやつはな、今のそなたよりも少し年上の頃に、母親と死別しておる。父親は、ずっとこの様よ。わかるかのう……人間、両親がおらずとも成長は出来る。家族など、いずれは必要なくなるという事だ」
「……そんなのは……嫌です……」
ミリエラは、涙を流していた。
「お祖父様が、いなくなってしまった……なのに、お父様もお母様も、仲良くしては下さらなかった……とても、つまらない事で喧嘩ばかり…………だからと言って、私には必要ない、なんて……」
「とてもつまらぬ事で、人は人を許せなくなる。夫婦の場合は、殊にな」
エリオールの口調が、重く暗く、陰惨な響きを帯びた。
「子は親を、いずれは捨てねばならぬ。お前はな、その時をいささか早く迎えてしまったのだミリエラ・コルベムよ……つまらぬ仲違いを止められぬ両親など、捨ててしまえ。そなたは今、それどころではないはずだ。今、誰に助けられた? その者は今、いかなる状態にあるのか」
言われてミリエラは、ようやく気付いた。
自分は今、誰に抱かれているのか。
五百年の、狂気。
それが炎となって石棺から噴出し、自分を絡め取り、灼き尽くしに来た。
肉体は無傷のまま、心が灼かれた。
ミリエラの心は、灰となった。
灰を蹴散らして、狂気が押し入って来たのだ。
その狂気は今、どこにあるのか。
ミリエラを、支配する寸前で放り捨て、別の場所へ行ってしまった。
ミリエラに入り込んでいたそれを、誰かが引き受けてくれた。
灰の中から、ミリエラの心は今、少しずつ蘇っている。
五百年、燃え続けていた狂気の炎が、消え失せたからだ。
否、消え失せてはいない。別の場所へ移っただけだ。
別の誰かが、ミリエラの中から引き取ってくれたのだ。
エリオールが言った。
「愚かな両親を哀れんでいる場合ではないのだぞ、ミリエラよ。そなたには今、守らねばならぬ者がいる。出来てしまったのだよ、守るべき存在が」
「…………シェルミーネ様……」
呼びかけてみる。
ミリエラの小さな身体を抱き締めたまま、シェルミーネは答えない。
ただ、呟くのみだ。
「…………私に、それが出来ていたら……アイリさんを、守ってあげられましたものを……」
やはり、とミリエラは思った。
あの不穏な噂は、真実であったのだ。
現在、王宮にいるアイリ・カナン・ヴィスケーノ王太子妃は、偽物であるという。
偽物を用意しなければならない理由など、そう数多くあるわけではない。
アイリ・カナンは、死んだのだ。
シェルミーネは今、先程のミリエラと、同じ状態に陥りかけている。
アイリ・カナンのいない世界に、耐えられない。
そんな世界は、滅びてしまって構わない。
「……駄目です、シェルミーネ様」
小さな細腕で、しがみつくように、ミリエラはシェルミーネの身体を抱き返した。
「真相を……知るために、王都へいらしたのでしょう? シェルミーネ様は……」
「ヴェノーラ・ゲントリウス陛下の、お力であれば……真実を探り出す事、容易いものですわ……」
辛うじてシェルミーネは、ミリエラと会話をしてくれた。
「真相を知り、私が滅ぼすべき相手を知り……それを、滅ぼす。ヴェノーラ陛下であれば、容易なる事……」
「駄目……」
「……駄目ですの? ミリエラさん……」
「…………はい、駄目です……」
涙を、シェルミーネに擦り付ける格好になってしまった。
「容易な道を選んでは、絶対に駄目……」
「……ですわよね」
一度、シェルミーネは強く、ミリエラを抱き締めてくれた。
「と……いうわけですわ、ヴェノーラ・ゲントリウス陛下とおぼしき御方よ。私、ミリエラさんから駄目出しをいただいてしまいましたの。お名残惜しい事この上ありませんけれど、私の中から……出て行って、いただきますわね」




