第86話
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エリオール・シオン・ヴィスケーノという、国王の地位以外に評価すべき点の見当たらぬ人物から、無理矢理にでも美点を見出し誉めてみる、としたら。
王妃クランディア・エアリス・ヴィスケーノの存命中も死後も、側室を持つ事すらなかった点。で、あろうか。
「クランディア様……何故……」
身体の一部を変異させながら、マローヌ・レネクは問いかけた。この場にいない、この世にいない、一人の女性にだ。
「一体、何故なのですか!? 送りつけられた物を……毒だと、わかっていながら……飲んでしまわれるなんてっ」
変異したものが、凶暴にうねり伸びて牙を向く。
傍目には、そこそこ美しい二十歳の女のたおやかな身体を食い破って、巨大な寄生虫が現れ暴れたようにも見えるだろう。
そんな寄生虫のようなものが、敵の右脚、膝の辺りを直撃する。
マローヌを踏み潰せる、巨大な脚部。膝関節が砕け、石の破片が散る。
石像、であった。
陵墓内に無数、置かれた巨大な石像が、いくつか動き出し、襲って来たところである。
その一体が今、右の膝関節をマローヌに粉砕され、倒れて来る。
倒れながらも、拳を振り下ろす。
侵入者の撃滅。それが、この巨石像たちの使命なのだ。
魔像。
これらに使命を与えた魔法使いが、かの大魔導師ギルファラル・ゴルディアックであるのかどうか、マローヌにはわからない。
ともかく。寄生虫のようなものを振るって、巨石の拳を迎え撃つ。
己の肉体の様々な部分を、マローヌは前払いしてある。
その証として獲得したものが、獰猛に牙を剥いてうねり伸び、魔像の拳を粉砕した。
およそ十年前。
バステル地方にて別居・隠棲中の王妃に、国王エリオールが酒を贈った。
それが毒酒である事を、恐らく知っての上で、クランディア王妃は飲み干したのだ。
国王が、死を命じた。
王妃は、抗う事なく、それを受け入れた。
全てを、墓の中へ持って行ってしまった。
何一つ、マローヌには教えてくれなかった。
「…………っっっったり前じゃない、何を教えろってのよ! 田舎貴族の小娘にさぁあああああっ!」
巨大な寄生虫のようなものが複数、マローヌの全身から生えて伸びて荒れ狂い、倒れた巨石像を打ち砕いてゆく。
石の細かな破片が、粉塵が、大量に舞い上がった。
「マローヌ・レネク! あんたなんか、クランディア様にとっては愛玩動物みたいなもの! ちょっとくらい可愛げがあったから、お側に置いて下さっただけ! 役立たず! クランディア様のために、して差し上げられる事なんて! あんたにはねぇ、なぁーんにも無いのよゴミカス! クズゴミ! バカ! バカバカ馬鹿ばかバァアアアアアカ!」
粉塵で視界が遮られている、だけではない。
自分が今、明らかに周りが見えなくなっている事を、マローヌは自覚はしていた。
気付いた時には、もう遅い。
魔像が、もう一体。すでに傍らにいた。
巨大な左足が、マローヌを踏み潰す寸前だった。
にゃーん……と、闘志に満ちた声が起こった。
突然の疾風が、巨石像の左足に激突し、これを粉砕していた。
その疾風は、獣毛の塊だった。
石の破片を蹴散らしながら、着地している。
「クルルグ君……!」
声が弾むのを、マローヌは止められなかった。
獣人クルルグは、返事をしてくれない。
倒れ来る片足の巨石像を見上げ、睨み、吼えている。
その咆哮が、力に変わった。
マローヌには、そう思えた。
気力の光。
クルルグの大きな口から、迸っていた。
片足の巨体で二人を圧し潰しに来た魔像。
その上半身が、光の咆哮に穿たれ、粉砕され、崩落する。
石の破片が大小複数、ばらばらと降り注いで来る。
寄生虫のようなものたちを振るい、それらを打ち砕きながら、マローヌは擦り寄って行った。
「クルルグくぅ~ん! 助けてくれてありがとー! うふふふふふふ。いっつも私に冷たいのはアレね、優しさの裏返しなのよねぇぇうぐっぶ」
ぐにゃぐにゃと変形しながら抱き付いてゆく女の身体を、クルルグは、にゃーと鳴きながら容赦なく殴り飛ばした。
吹っ飛んだマローヌが石壁に激突し、めり込んでいる間にも、巨大な魔像の群れは押し寄せて来る。
陵墓の奥から、アドラン地方の山林そのものを揺るがすような足音を響かせてだ。
「……ったく、敵だらけじゃないのよ。私たちって」
石の壁にめり込んだまま、マローヌはにやりと苦笑した。
ここは陵墓内、山林の地下であるが、自分たちは今、地上からも攻撃を受けている。
王国正規軍の一部隊が、陵墓内への突入を試みているところである。
自分が魔界から召喚した防衛戦力が、地上でことごとく倒されてゆくのを、マローヌは体感していた。
「ここまで、手強い連中だとは……」
めり込んだ身体を、マローヌは石壁から脱出させた。
「……あの御方に……お出ましいただくしか、ないのかしら」
前払いしてある分だけで、果たしてどこまで戦ってもらえるものか、未知数ではある。
召喚の代価となるものを、追加する必要があるかも知れない。
「私の身体の、残り全部……それで済むなら。そうしたらもう、クルルグ君にもふもふしてもらう事も、出来なくなっちゃうけどね」
そのクルルグが、巨石像の踏みつけを敏捷に回避している。
全身をぐにゃりと変異させながら、マローヌは駆けた。あるいは這った。
寄生虫のようなものたちが、全身各所で激しく蠢いている。
「クルルグ君は、私が守る……」
蠢くものたちが、襲い来る魔像の足を超高速で削り砕き、石の破片を飛び散らせた。
「それにエリオール王……あんたも、ね。吐いてもらわなきゃいけない事、山ほどあるんだから」
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陵墓内の魔像たちが、攻撃を仕掛けて来る。
単純に、侵入者を討滅せんとしているのか。
あるいは、とイルベリオ・テッドは思う。
「この御方の、復活と御再臨を……阻止せんと、しているのか」
帝国最後の実質的権力者であった人物が眠る、玄室。
広大な室内の中央で、豪奢な石棺が、燃え上がっている。炎を、発している。
イルベリオには、そう見える。
この人物にはしかし、そんな炎は見えないだろう。
石棺が、玄室の中央にただ静かに鎮座する、その重厚な様が見えるだけだ。
「復活しようとしているのか。この棺の中で、帝国時代の化け物が」
国王エリオール・シオン・ヴィスケーノが、そんな事を言いながら石棺に片手を触れようとする。
恭しく、イルベリオは止めた。
「おやめ下さいませ国王陛下。ヴェノーラ・ゲントリウスは今、己の棺に触れる者ことごとくを支配せんとしております……新たなる、肉体として」
「ほう。つまりは私が、新たなるヴェノーラ・ゲントリウスに成れるかも知れんという事か?」
「成れませぬ。国王陛下、貴方様では……適合、いたしませぬゆえ」
「黒薔薇党の者たちが、ことごとく死んだのだったな。その棺に手を触れて」
「皆、この石棺に封じられたる大皇妃ヴェノーラ・ゲントリウスの霊魂……と、おぼしきものに適合いたしませんでした。依り代の役を、果たし得なかったのでございます。畏れながら国王陛下、それは貴方様とて同様」
「ふん。まあ、このような身体は嫌であろうな大皇妃も」
自身の小太りな腹部を、エリオールは叩いた。
「やはり、見目麗しき乙女でなければならぬか」
「それも、ある程度の魔力を持った者でなければ」
音が、聞こえて来た。
巨石の動く音。砕ける音。マローヌ・レネクの絶叫に、クルルグの咆哮。
玄室の外では、激戦が繰り広げられているのだ。
「皆で私を守ってくれておる、というわけかな」
エリオールが言った。
「まあ……全員が、そうではあるまいが。のう? イルベリオ・テッド殿」
「確かに私は……状況次第では国王陛下、貴方の御身柄を王国正規軍に引き渡すでありましょう」
躊躇いなく、イルベリオは応えた。
「ですが外の二名、クルルグ君とマローヌ君は誠心誠意、貴方を守ってくれます。どうか御安心を」
「ふふん。自身の手で私を惨殺するために、かな」
「クルルグ君はともかく、マローヌ君は……確かに」
この国王の妻クランディア・エアリス・ヴィスケーノ王妃は十年前、バステル地方にて療養中に病死した。
公的には、そのようになっている。
そして。その十年後には、王妃としての未来を約束されていたはずの元平民娘が、偽物と入れ替わらねばならない事態に見舞われた。
公的には、彼女は健在である。
「国王陛下……アイリ・カナンは何故、死んだのですか」
まともな返答など期待出来ない問いかけを、イルベリオはしていた。
「花嫁選びの祭典を勝ち抜き、貴方の御子息と結ばれ、王族の仲間入りをする事で……彼女は、何かを知ってしまったのでありましょうか?」
「かも知れんな」
「平民が、決して近付いてはならぬ何かを……あるいは。現ヴィスガルド王家と旧帝国系貴族の、およそ五百年にも及ぶ対立・確執に根本から関わる何事かを」
「くだらぬ」
イルベリオの推測を、エリオール王は一言で切って捨てた。
「アイリ・カナンが殺された理由はな、そのような大層なものではない……もっと、くだらぬ事だ。くだらぬ話だ」
今は、これ以上の事を、この国王は語ってはくれないだろう。
そうイルベリオが思った、その時。
石棺が、激しく燃え上がった。
その炎が、玄室の天井に達した。
石造りの天井を貫き、山林の地表に噴出したであろう、とイルベリオは確信した。
そんな炎は、しかしエリオール王には見えない。
「来ました……」
見えぬ国王に説明するため、というわけでもなくイルベリオは言った。
「依り代に、ふさわしき者が……陵墓の地表に、現れたようです。その存在に今、ヴェノーラ・ゲントリウスは呼応いたしました」
「魔力を有する乙女、か」
「その乙女は今……大皇妃ヴェノーラの大いなる魂を、受け入れられる状態にあります。そう、無理矢理に憑依するのでは駄目なのですよ。依り代となる乙女の方から、受け入れなければ」
「その乙女は」
エリオールは笑った、のであろうか。
「化け物と化し、この腐れた王国を滅ぼす……などという事をしても良いと思ってしまったわけか。ふん、痛ましき話よな」
「バレリア・コルベム……あの不要な肉塊を、生かして飼い続けた甲斐がありました。そこそこの仕事を最後にしてくれた、と思います」
イルベリオは言った。
唯一神に祈りを捧げても良い、という気分だった。
「黒薔薇党……貴殿らの役目は終わった、安らかに眠れ」




