第85話
●
レオゲルド・ディラン伯爵配下、恐らくは最強の戦士であったダルバルグ・レーンが、倒された。敗死した。一閃で、四つに切り分けられた。
助ける事が出来なかった、などと考えてしまうのは自惚れであろう。
シェルミーネ・グラークは、そう思う。
「むしろ……ふふっ。私の方が、加勢をお願いしたかったところ」
自嘲しつつ、シェルミーネは後退した。
舞踏と武術、両方で鍛え抜いた足さばきが活きている。
滑るような足取りで、後方へ後方へと身体を移動させる。
その身体を時折、揺らす。風に吹かれた若草のように。
まさしく、風が吹き荒れていた。
一撃で人体を粉砕する、鋼の暴風。
クリスト・ラウディースの振るう、連結棍である。
様々な方向から襲い来るそれをシェルミーネは、身を揺らし、かわし続ける。
回避、後退。
それら以外の事が一切、出来なかった。
「どうか……教えて下さい、シェルミーネ嬢」
連結棍の嵐を吹かせながら、クリストが問いかけてくる。
「妹は……リアンナは何故、死んだのです。殺されるほどの何かを、あやつは……まあ大いに、やらかしたのでしょうね」
彼の右手から左手に、左手から右手へと連結棍が移動する度、鋼の暴風がシェルミーネを猛襲する。
かすめただけで、骨が砕けるだろう。
「それを、私は知りたいのです」
「何故?」
「知れば、はっきりと知りさえすれば……私は貴女を、妹の仇として、ただ純粋に憎む事が出来る」
アドラン地方。
およそ五百年の時を経て鬱蒼たる山林と化した、帝国陵墓。
その山林が今、激戦の場と化していた。
激戦の中でダルバルグ・レーンは命を落とし、シェルミーネは鋼の打撃の嵐に晒されている。
嵐を吹かせている禿頭の青年に、シェルミーネは微笑みかけた。
「貴方の妹君はねえ……私に、忠誠を誓っておりましたわ。私が優勝してアラム王子と結ばれれば、栄華のおこぼれをラウディース家に持ち帰る事が出来る。滑稽なほど必死でしたわね、あの子」
「そうしなければならないほど、ラウディース家は困窮していましたからね」
連結棍の一振りで暴風を巻き起こし、シェルミーネの金髪を舞い上がらせながら、クリストが言う。
「旧帝国系貴族の例に漏れず、ラウディース家は……定められたもの以上の重税を民衆から取り立て、ゴルディアック家に貢いでいました」
「そうする事で、旧帝国貴族としての序列が上がると。そう信じていらっしゃいましたのね? 貴方の御家族は」
「ラウディース家の嫡男として、私は……一族の、そんな愚行を止める事が出来なかったのです」
連結棍が、まるで蛇の如く、クリストの身体に巻き付いた。
ほどけた、と見えた時には、またしても鋼の暴風が吹き荒れていた。
「ラウディース家に居て、私は何も出来なかった。あの妹が、皆にちやほやされながら増長し、腐り果ててゆくのを……止める事が、出来なかったのです」
「思い上がり、ですわね。それは」
吹き荒れる連結棍をかわしながらシェルミーネは、可能な限り優雅に、嘲笑って見せた。
「リアンナ・ラウディースはね、もう誰にも救えない子でしたわ。お優しい兄上が一人か二人いらしたところで、あの腐り果てようは変わりはしない……そんな子にふさわしいお仕事を私、させてみましたのよ」
「どのような?」
「アイリ・カナンを、殺す事」
シェルミーネは、柔らかく身を反らせた。
嘲笑う美貌の近くを、連結棍が超高速で通過する。
「私が優勝した暁には、栄華のおこぼれなど、いくらでも差し上げたものを……リアンナったら、直前になって怖じ気づいてしまいましたのよ? だから始末いたしましたわ。私、役立たずが大嫌いですの」
妹に似ているかどうかはよくわからない、クリストの端正な顔が、険しさを帯びる。
この青年は今、怒り狂っている。
シェルミーネは確信し、さらに嘲笑った。
「さあ、これで私を憎む事が出来たのでしょう? このシェルミーネ・グラークは貴方にとって、かわいそうな妹君の仇でしかありませんのよ。復讐を遂げてごらんなさいな」
木が、三本。いや四本。砕け散った。
連結棍の直撃。
目視不可能な鋼の暴風から、シェルミーネは逃げていた。回避と言うより、逃亡だった。
飛び退り、地面に転がり込んで身を起こす。
シェルミーネが、それをしている間。
幹を粉砕された大木が四本、音を立てて倒れ伏していた。
大量の木屑が舞い散る中、連結棍を脇に挟んだクリストが佇み、シェルミーネを見据えている。
「私は……真実を教えて欲しい、と言っているのですよ。悪役令嬢殿」
「……他者に教えを請う態度、とは思えませんわね」
「この頭を下げたら、貴女は教えて下さるのですか? 私の知りたい事を」
己の禿頭を、クリストは叩いた。
「私は貴女が、誰かの罪を被っているとしか思えないのです。意地を張っている、としか思えないのですよ」
誰が信じると思うんですか、あんな話を。
ガロム・ザグの、そんな声が、シェルミーネは聞こえたような気がした。
本当に聞こえたのは、草むらの鳴る音である。
何かが、木陰を這いずっている。
あの直立眼球や、炎の棍棒を振るう怪物たちと、同種の何かか。
違う。
山林の暗がりからズルリと出現した姿を見て、シェルミーネはそう確信した。
それは、人間だった。
少なくとも、かつては人間であったもの。
おぞましく変異した肉体には、人間の名残がある。人体の原形を、辛うじてとどめている。
「おや、これは……」
その何かに、クリストが声を投げた。
「お名前は存じ上げませんが……黒薔薇党の、どなたか。サリック伯爵らと御一緒に、ゴルディアック邸へと行かれたのではなかったのですか?」
「……あんなものに……付き合っては、おれぬよ。もう……」
どうやら黒薔薇党員であるらしい何者かが、頭部と思われる部分から、苦しげに声を発する。
「ヴェノーラ・ゲントリウス陛下は、確かに偉人であられる……に、してもだ。盲目的にその御名を唱える事で、現状を……呪わしきヴィスガルド王家の治世を、否定した気分に浸る。その、愚かしさに……私は、このような姿になるまで気付かなかった…………私は、もう黒薔薇党などという者どもには……ついて行かぬ、と決めたのだ。いささか……遅かったが、な……」
「貴方は……」
シェルミーネは、息を飲みながら問いかけた。
「……ルチア・バルファドールによって……そのような、お姿に……?」
「拒む事は出来た。私が……周りに、流されただけ……いや、そんな事は良い! 私は、彼女を止めなければ……」
彼女とは、ルチア・バルファドールの事ではないだろう。
シェルミーネは何となく、そう思った。
「……貴方、お怪我をなさっていますね」
クリストが言った。
「臓物が随分と、身体の外側へ溢れ出しておりますよ。貴方自身まるで巨大な臓物の如きお姿ゆえ、わかりにくい事この上ありませんが……ともあれ、治して差し上げます」
「お気持ちだけ、いただいておく……私は、もはや助からぬ……そ、それよりも……!」
人外のものと化した黒薔薇党員は、血を吐いたようである。よくわからぬ色の体液が、しぶいて散った。
「彼女を…………止めてくれ、頼む……」
事切れた。
この党員に致命傷を負わせた『彼女』なる存在に関して、クリストは心当たりがあるようであった。
端正な顔が、青ざめている。
少し離れた所で、木が何本も倒れてゆく。
醜悪な巨体によって、折り倒されてゆく。
「ミぃいいいリいぃぃぃエぇーラあああああああ」
おぞましい事に、それは怪物の咆哮ではなく、人間の絶叫であった。
そんなものを山林全体に響かせて出現した何かが、レオゲルドと兵士たちに向かって巨体を這いずらせ、突進する。
いや違う。
部隊全員に唯一神の加護をもたらしているミリエラ・コルベムに、捕食しかねない勢いで向かっている。
「バレリア・コルベム夫人……!」
クリストが叫んだ。
「馬鹿な! 何故、彼女を外へ出した!? 貴方ですかイルベリオ先生! 戦力になる、とでも思ったのですかッ!」
レオゲルドの私邸で、シェルミーネも一度だけ顔を合わせた事がある。
ミリエラの母親。
娘を黒薔薇党の聖女に仕立て上げ、党内で指導力を発揮したつもりになっていた女性が、今は人間ではないものと化し、触手を伸ばしうねらせながら山林を這いずっているのだ。
それを阻もうとするクリストに、怪物が一体、燃え盛る棍棒で殴りかかる。
シェルミーネには、陰影の兵士の一団が押し寄せていた。
襲い来る幾本もの槍を、シェルミーネは切り落とした。
一閃した斬撃の光が、槍だけではなく甲冑を、その中身である陰影の塊を、断ち切ってゆく。
シェルミーネの周囲で、切り刻まれた陰影の兵士たちが消滅している、その間。
「なにを! しているの、ミリエラぁあああああ!」
バレリア夫人の伸ばした触手が、ミリエラの小さな身体を絡め取っていた。
「ちがう、違ぁう、ちがあああああう! 男たちの後ろで、男たちを支え、男たちを鼓舞する……女の役割はあぁ、そうではないでしょうミリエラあぁー!」
「え……誰……」
「貴女がそんな事だからあああ、女に対する偏見が固定される! 女はこうあらねばならない、女は男を支えなければならない、そんな風潮が出来上がってしまうわ貴女のせいで! この親不孝娘!」
兵士たちが、吹っ飛んでいた。
皆、黒騎士の斬撃を辛うじて武器や盾で防御し、斬殺は免れたものの叩きのめされ、微量の血飛沫を散らせて倒れ伏し、あるいは木に激突する。
そんな兵士たちの先頭に立って黒騎士に挑んだレオゲルドが、双剣の迎撃を受け、一方的な防戦に追いやられる。
その斬り合いに向かって、バレリアの触手は、
「女は! 男の後ろにいては、駄目なのよぉおおおおおッ!」
ミリエラを、放り投げていた。
「戦いなさい! 女ならば、男の前に出て! 男たちを従えて! 私は貴女をそう育てたのよミリエラ!」
「…………お母様……?」
呆然としながら、ミリエラは宙を舞う。
レオゲルドが、黒騎士の斬撃で長剣を叩き落とされた。
得物を失い、よろめくレオゲルドに、とどめの一閃が襲いかかる。
黒騎士の、右手の長剣。片手でも人体を両断する斬撃。
そこへ、ミリエラの小さな身体が放り込まれていた。
シェルミーネの身体が、ほとんど勝手に動いた。
陰影の兵士たちの、消えゆく破片を蹴散らし、踏み込んで行く。
闘志の混ざった魔力が、身体の奥底から迸り出て、細身の長剣に流れ込む。
燃え盛る光で、いくらか太さを増した刃を、シェルミーネは全身全霊で突き込んでいった。
その一撃が、黒騎士の右手から長剣を叩き落とす。
ミリエラを叩き斬る、寸前であった長剣。
終わった、とシェルミーネは思った。
黒騎士は、左手にも剣を握っている。
次の瞬間、自分は斬殺あるいは刺殺されているだろう。
ミリエラは、レオゲルドに抱き止められていた。
そして黒騎士は、シェルミーネもミリエラもレオゲルドも一顧だにせず、その三名を押しのけるように踏み込んでいた。
叩き落とされた剣を回収する事もなく、右手を握り固めてだ。
その黒い握り拳が、バレリア夫人に叩き込まれた。
もはや人の原形をとどめていない肉体の、恐らくは頭部なのであろう部分がグチャリと潰れ、様々なものが噴出する。
黒騎士の力強い全身が、ドロドロに汚れる。
それで、終わりだった。
おぞましい喚き声を、山林全域に轟かせていたバレリア夫人は、永遠に静かになった。
叩き潰された肉塊が、黒騎士の足元に沈みながら干からび、ひび割れ、崩壊してゆく。
「…………お母様……」
レオゲルドに弱々しくしがみついたまま、ミリエラが呆然と呟く。
「……ね、お父様が待っていますよ? 仲直りして……なかよく、くらしましょう…………おかあさま……」
現実を、ミリエラは見失い始めている。
そして、それに呼応するかの如く。
地の底、陵墓の内部で、何かが覚醒した。
それをシェルミーネは、はっきりと足下に感じた。




