第82話
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鬱蒼と生い茂る木々の間で、眼球が直立している。
人の頭ほどもある、巨大な眼球。
それが、幾本もの視神経を樹木のように絡ませ、地面から生えていた。
地中に潜む何者かが、目だけを地表に現し、こちらを監視している。そう見えた。
シェルミーネ・グラークは長剣を抜き放ち、柄に、細身の刀身に、己の魔力を流し込んだ。
そうしながら、一閃させる。
魔力を帯びたる斬撃が、巨大な眼球を叩き斬っていた。
「お見事」
兵士の一人が、誉めてくれた。
「球形の物体が、計ったように真っ二つ……シェルミーネ嬢、貴女の剣技は魔力頼みの乱雑なものではない。過酷な鍛錬と修練そして実戦を重ねた結果、そこいらの男の剣士では及びもつかぬ領域に達しておられる」
大男であった。
グラーク家の次男アルゴ・グラークに勝るとも劣らぬほど、力強く鍛え上げられた巨体。
甲冑が、威圧的なほど様になっている。
顔つきと口調は、穏やかだ。
「魔力頼みでも、まあ私は一向に構わないと思いますがね。要は、敵を倒せれば良いのです」
「……魔力頼みをしなければ、私の剣技など。殿方の武勇には到底、及びませんわ」
両断された眼球は、すぐに干涸らび、崩れて消えた。
それを確認する事もなく、シェルミーネは山林を見渡した。
監視の役目を持たされた異形のものが、この一体のみであるはずがない。
「特に……ダルバルグ殿、貴方には勝てませんわ。先日の戦闘訓練では、わざと負けて下さったようですけれど」
「御謙遜を。あれは、貴女の実力ですよ」
「……まあ良いでしょう。それよりも! どうやら、見つかってしまいましたわよ」
巨漢ダルバルグ・レーンだけではない。
部隊規模の兵士たちが、ここアドランの山林地帯に入り込んだところである。
指揮官レオゲルド・ディラン伯爵が、シェルミーネの言葉を受けて言った。
「まあ見つからぬわけはあるまいな。良い、見られている事を前提に作戦を続行する。総員、備えよ。いつどこから敵が現れても不思議はないと思え」
アドラン地方、帝国陵墓。
遙か昔、帝国の時代に植林され、今では緑深き丘陵地となって、周囲の山林と完全に同化している。
どこかに、陵墓への入り口があるはずであった。
その入り口の奥にいる、であろう一人の少女に、シェルミーネは心の中で語りかけていた。
(少し……やり過ぎ、急ぎ過ぎ、でしてよルチア。私、貴女と戦わなければいけなくなりましたわ)
王国宰相ログレム・ゴルディアックより、近衛騎士レオゲルド伯爵に密命が下った。
アドラン地方の帝国陵墓に巣喰う叛乱勢力の、討滅。
ログレム宰相としては、密命にせざるを得なかった。
王国正規軍を公に動かしての大規模な軍事行動とする、わけにはいかなかった。
レオゲルド率いる、総勢五十名の一部隊のみを密やかに動かす、しかなかったのだ。
何故ならば。
「国王陛下が、いらっしゃる」
ディラン家直属の兵士たちに向かって、レオゲルドは告げた。
「……との情報を入手したが未確認である。この度の任務には、その真偽の確認も含まれている。真実であれば、何としても陛下をお救い申し上げる。ただ陵墓内の逆賊が、畏れ多くも陛下に似たる者を担ぎ上げての叛乱を企てている、だけかも知れぬ。その場合は、もろともに討ち尽くす」
真偽の確認。
陵墓内の叛乱勢力に、国王エリオール・シオン・ヴィスケーノらしき人物の姿が仮に見られたとして。
それが本当に国王であるのかどうか、確認する手段はあるのか。万民に向かって証明する事は、出来るのか。
今現在、玉座の上にいる何者かが偽物であると、いかにして証明するのか。
偽物が、そうと知られぬまま、玉座上に在り続ける。
それで一体、誰が損をするのか。困る人間が、どこにいるのか。
勝手に王宮を脱け出す国王など、居なくてよい。逆賊もろとも始末せよ。
レオゲルドは、そう言っているのではないか。
それが宰相密命の、真の内容なのではないか。
国王エリオールとの、ただ一度だけの対面を、シェルミーネは思い返した。
謁見と呼べるほど、大仰なものではなかった。
レオゲルドの私邸、応接室。
無気力そのものの、小太りな身体が、ただ長椅子に腰掛けていただけだ。
(それは、そう……無気力にも、なろうというもの。ですわね、国王陛下……)
「それにしてもレオゲルド閣下。本当に、よろしかったのですか?」
ダルバルグが言った。
「いやまあ、ここまで来てしまってはね。どうしようもないのですが」
「そういう事だ。ミリエラ嬢を、しっかりと護衛するのだぞ」
「す、すみません。ダルバルグ殿……」
ミリエラ・コルベムの小さな身体が、ダルバルグの大きな左肩に、ちょこんと座らされている。
「あの、私……自分で、歩けますから」
「もちろん状況次第では降りていただきます。山道の移動は、大人の男の脚に一任しておきなさい。それが効率というもの」
ダルバルグは言った。
「ミリエラ嬢……数日前、伯爵邸における戦いで、我々は貴女に命を救われております。貴女は重要な戦力なのです。あてにさせて、いただきますぞ」
「はい……」
コルベム父子は、ゴルディアック家に命を狙われている。
実際、刺客の群れがディラン邸にまで乗り込んで来たのだ。
留守番など、させておくわけにはいかなかった。
父クルバート・コルベムの身柄は現在、ログレム宰相に預けられてある。
娘ミリエラが、こうしてレオゲルド率いる戦闘部隊と行動を共にする事を、クルバートが肯んじたのは、宰相の近辺と言えど安全とは程遠いからである。
それは実際、宰相ログレムの護衛をしていたシェルミーネにも、充分過ぎるほど理解出来る事であった。
レオゲルド・ディランの兵団に同行する。
こうして危険な軍事行動に伴われる事に、なろうとも。
それが、最も安全であるのかも知れないのだ。
ゴルディアック家を、敵に回した。
その時点で、この王国に安全な場所など無いのだから。
そして。ダルバルグの言う通り、ミリエラは戦力であった。
唯一神の聖なる力で、この部隊を護る事が出来る。癒す事が出来る。
シェルミーネは立ち止まり、ダルバルグとミリエラをまとめて背後に庇った。
視神経で直立する巨大眼球が、無数。周囲あちこちの木陰に出現していた。
無数の瞳孔が、ディラン家の戦闘部隊を取り囲みながら発光している。
眼光が、物理的な破壊力となって迸ろうとしている。
シェルミーネが叫ぶ、必要もなく、ディラン家の兵士たちは動いていた。
無数の眼球から、光が放たれた。
魔力の、破壊光線。
全方向から豪雨の如くぶつかって来るそれらを、兵士たちが盾で受け止める。槍を回転させて弾き返し、長剣を抜いて切り払う。
兵士らの気力を帯びた、盾、槍、長剣。
それらが、破壊光線の雨を粉砕し、光の飛沫を散らせ続ける。
その防御の後ろで、攻撃担当の兵士たちが弓を引いていた。
全方向に放たれた矢が、無数の巨大眼球をことごとく射貫き、破裂させてゆく。
「……状況です、ミリエラ嬢。ちょっと降りていただきますぞ」
ダルバルグが巨体を屈め、左肩の少女をシェルミーネに預けた。
「大物が、来ます」
その言葉が終わらぬうちに、地響きが起こった。
いくつもの黒い巨体が、木々をへし折りながら出現し、この場に雪崩れ込み、大型の得物を振りかざす。
直立した熊、よりも一回りは巨大であろうか。
一応は人型をしており、隆々たる筋肉を黒い外皮で包み込んだ全身は、まるで岩石である。
首から上は剥き出しの頭蓋骨で、捻れ渦巻く大型の角を生やし、両の眼窩と牙だけの口から、小刻みに炎を噴出させている。
黒い豪腕で振りかざす得物もまた、炎だった。
松明のような、燃え盛る棍棒である。
そんな怪物が群れを成し、岩石のような巨体で矢を跳ね返しながら、炎の棍棒を振るう。
ミリエラの小さな身体を、そっと地面に下ろし立たせて庇いながら、シェルミーネは護りを念じた。
魔力の防護膜が出現し、半球形に広がり、シェルミーネとミリエラを包み込む。
そこへ、炎の棍棒が激突する。
防護膜の半球が、その一撃で粉砕された。
「……お馬鹿力、ですわねっ」
飛び散った光の破片が、シェルミーネの言葉に合わせて一斉に飛翔し、怪物を襲う。
鋭利な、光の雨。
それらは、しかし黒い岩石のような体表面にぶつかり、さらに細かく砕け散ってキラキラと消滅した。
「ああもう! あまり疲れる事、させないでいただきたいものですわ!」
振り下ろされる炎の棍棒をかわさず、シェルミーネは踏み込んだ。
細身の長剣に、魔力を流し込む。
光り輝く切っ先を、全力で突き込んでゆく。
凄まじい手応えを、シェルミーネは細い全身で受け止めた。
白く美しい歯を、食いしばった。
炎の棍棒が、振り下ろされている途中で停止・硬直している。
黒い巨体、そのものが硬直していた。
その腹部に、光り輝く細身の刀身が、根元まで突き刺っている。
「はぁあああああッ!」
シェルミーネは吼えた。
魔力が、両手から柄へ、刀身へと、爆発的に流入する。
怪物の体内で、光が膨張そして爆発した。
黒い巨体が破裂し、光の爆発の中で消し飛んだ。
一体は、討伐した。
他の何体かが、しかしすでにシェルミーネとミリエラを取り囲んでいる。
炎を内包する頭蓋骨が複数、燃え盛る眼光を多方向から注いでくる。
それらが、溢れ出した。
両眼から、口から、怪物たちは炎を放射していた。
すがりつくミリエラを左手で抱き寄せながら、シェルミーネは右手で、全身で、光の剣を振るっていた。
しなやかに鍛え込まれた肢体が柔らかく捻転し、その周囲で斬撃の閃光が弧を描く。
荒波の如く押し寄せて来た炎が、その閃光に切り裂かれながら蹴散らされ、火の粉に変わって消え失せた。
その間。
さらなる炎を噴射せんとしていた怪物たちが、シェルミーネの周囲で縦に、横に、斜めに両断され、滑り落ちるように倒れてゆく。
重い唸りを立てて吹き荒れる、鋼の旋風が見えた。
二つの、斧。
大型だが柄の短い斧を二本、ダルバルグは左右それぞれの手で振るい、斬撃の弧をいくつも描き出している。
炎を噴射し、炎の棍棒を振るいながら、怪物たちは片っ端から叩き斬られていった。
大木が、切り倒されてゆく様にも似ていた。
滑らかな断面を晒す屍が、干涸らび崩れてゆく。
崩れ砕けた残骸を蹴散らしながら、ダルバルグの巨体は、重い轟音を発する斬撃の旋風であり続けた。
「ベルクリスと良い勝負、ですわね……何とも、はや」
感嘆しながら、シェルミーネは呆れた。
「……私が、殿方の剛勇と張り合うには。やはり魔力頼みの戦い方に」
呟きが、凍り付いた。
穏やか、に思えて凄まじく不穏な気配が、シェルミーネの全身を打ったのだ。
何者かが、歩み寄って来る。
「あ、貴方は……」
ミリエラが言った。
「……教会の、方ですね? 唯一神の、聖なる御力を感じます」
「教会は、とうの昔に破門されていますよ」
優しい声、である。
「……けれど唯一神は、私をお見捨てにならなかった」
純白のマントに身を包んだ、一人の若い男。
話しながら、ゆっくりとフードを脱ぐ。
神々しいまでに見事な禿頭が、露わになっていた。
秀麗な顔に浮かぶ笑みは、何か禍々しいものを包み隠しているようにシェルミーネには思える。
「ようやく……お話をする機会を、得る事が出来ました。悪役令嬢シェルミーネ・グラーク、私は貴女にお会いしたかった」
「……愛の告白でも、して下さるの?」
シェルミーネは言った。
男は、恭しく一礼した。
「クリスト・ラウディースと申します」
「ラウディース……」
男の笑顔に隠されている、禍々しいものの正体が、シェルミーネは見えたような気がした。
「…………リアンナ・ラウディース嬢の?」
「兄です。兄妹仲は、最悪でした」
男の笑顔は、変わらない。
「あれは本当に……最低の、妹でしたよ」




