第8話
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ヴィスガルド王国は、唯一神教の国である。
唯一神教会が、王家と並ぶ力を持っている。
神はいる、とシェルミーネ・グラークは思っている。
何しろ、魔法が存在するのだ。獣人のような、人ならざるものたちもいる。
悪魔や神が実存していたとしても、不思議はない。
神は、しかし教会関係者が言うほどには全能ではない。
アイリ・カナンが死んだのは、その証だ。
彼女は、だから神に見放されたわけではない。
神の手が、届かなかっただけなのだ。
全能とは程遠い神を責めるのも、酷というものである。
ドルムト地方、ジルバレスト城の近く。
地方教会の墓地に、アイリ・カナン・ヴィスケーノ王太子妃はひっそりと埋葬されていた。
本来ならば、盛大な国葬を行い、王国全土の民に号泣を強制するべきなのであろう。
そんな事をして、アイリが喜ぶはずはなかった。
「私が、これから行う事……やり遂げたところでアイリさん貴女、喜んでは下さいませんわね」
こぢんまりとした墓石に、語りかける。
少し離れた所では、兵士ガロム・ザグが跪き、黙祷を捧げていた。
王都には今、恐らく偽物の王太子妃がいて、民衆に幸せを見せつける役目を果たしているのだろう。
アイリ・カナンが死んだ、殺された、となれば間違いなく暴動に近い騒ぎが起こる。
シェルミーネの、これからの行い如何では、本当にそうなる。
アイリの死に、何かしら不穏な真相のようなものがあるとして、自分はそれを暴き立てて人々に知らしめるのか。
「……まだ、わかりませんわね。そのような事」
シェルミーネは苦笑した。
自分は今から、誰も幸せにならない事をしようとしているのだ。
何もしない。それが最も正しいのではないか、という思いはある。
「……正しい事なんて私、いたしませんわよ。何しろ悪役令嬢ですもの」
墓石に、そっと片手を触れる。
「ねえアイリさん、私……貴女が、お墓の中まで持って行ってしまったもの、掘り返そうとしておりますのね。うふふ、墓荒らし……悪役令嬢も、落ちるところまで落ちたもの」
青空を見上げる。
別に、アイリの笑顔が見えたりはしない。
「……フェルナー王子の事は、どうか心配なさらないで。グラーク家が総力を挙げてお守りいたしますわ。こうして出て行ってしまう私が、言える事ではないですけれど」
アイリが守り抜いた赤ん坊。
フェルナー・カナン・ヴィスケーノを、王子として育てるのか。名も無い拾い子として育てるのか。
それは領主オズワード・グラークの思惑次第であろう。
「ね、アイリさん。貴女は、ただアラム王子だけを見つめていて、王宮の煌びやかな暮らしに憧れていたわけではなかった……に、しても。1度は王家の栄華を浴びた身でありながら、このような辺境の地に眠る事となってしまって」
無念、などとアイリが思うはずはなかった。
「……貴女はもう、私が何をしたところで喜んでも下さらない。身の程知らずに私を咎める事もない。だからね、私の好きなようにさせてもらいますわよ」
シェルミーネは言った。
「私……1度は、アラム王子をここに連れて参りますわ。そのまま、このお墓にお入りいただく事になるかも知れませんわ。あの方はアイリさん、貴女が正式に獲得なさった賞品なのですから」
シェルミーネは、墓石に背を向けた。
細身の周囲で、マントがふわりと舞った。
「……私、アラム王子に無礼を働きますわよ。今すぐ生き返って、私を止めてごらんなさい」
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ヴィスガルド国王エリオール・シオン・ヴィスケーノは、決して無能な人物ではない。
メレス・ライアットは、そう思っている。
宰相として、ログレム・ゴルディアック侯爵という傑物がいて、彼が国政を司ってはいるが、それも頂点に立つ者の度量あってこそだ。
エリオール王が狭量で猜疑心の強い人間であったら、有能なる宰相ログレムは今頃この世にいない。
ライアット家の前代当主シグルム・ライアット侯爵もまた、国王エリオールによって才覚を認められ、重用された人材の1人であった。
シグルムの息子メレスとも、エリオール王は親しく口をきいてくれたものである。
ライアット家は、ヴィスガルド王家と家族ぐるみの親交を持っていたのだ。
そんな環境でメレスは何一つ不自由なく、幼き頃を王都で過ごした。
父シグルムと国王エリオールは、親友同士と言って良かった。
エリオールの息子アラム・ヴィスケーノはメレスにとって、血の繋がらぬ弟のような存在だった。
今現在、メレスは22歳、アラムは20歳である。
眉目秀麗にして文武両道、ヴィスガルド王家始まって以来の若き英傑。アラム王子は、そのように言われている。
一方、単なる飾り物であるとも言われている。
花嫁選びの祭典の、豪華な賞品でしかない王子であると。
メレスは、断言する事が出来る。
アラム・ヴィスケーノは、紛れもない英傑だ。決して無能な人物ではないエリオール王が、かすんで見えてしまうほどに。
そこに悲劇があった、とメレスは思っている。
息子アラムに対するエリオールの態度が、目に見えて冷たくなっていったのだ。
それに関してシグルム侯が国王に対し、諫言に近い事を述べたようである。
そして、シグルム・ライアット侯爵は死んだ。
嫡子メレスが次期当主となる、と同時にライアット家はヴェルジア地方の領主に封ぜられた。
王都から、追い出されたのだ。
「色々と……お墓の中へ、持って行ってしまわれましたね父上は!」
眼前の敵に向かって、メレスは長剣を一閃させた。
甲冑と兜の隙間。首筋に、斬撃が叩き込まれたはずである。
手応えがない。血も出ていない。
その兵士は何事もなく、槍を突き込んで来る。
かわしたメレスに、多方向から何本もの槍が襲いかかる。
甲冑をまとう、兵士たちであった。
兜の内側では陰影が渦巻き、真紅の眼光だけが禍々しく灯っている。
鎧兜の下に肉体はない、とメレスは見て取った。
不吉な陰影が人の体型を成し、甲冑に包まれているのだ。
「なるほど。君たちは……つまり人間ではない、という事だね!」
間断なく襲い来る無数の槍先を、メレスはひたすら長剣で打ち払った。
防戦一方、後退を強いられている。
陰影が鎧兜をまとったような兵士たちは、大部隊を成し、無言で押し寄せて来る。
ヴィスガルド王国、ヴェルジア地方。とある村に、この兵団は攻め込んで来た。
山賊・強盗団の類ではない。人ですらない兵士の群れ。獣人とも違う。
そもそも生き物ではない、とメレスは思った。
「ふふ……私が、城でふんぞり返っているような領主でなくて良かっただろう村人たちよ」
そんな言葉は、村人たちには聞こえていない。
税の支払いに関して少しばかり揉め事が起こり、領主メレス・ライアット侯爵自らが、ここの村長と話をしなければならなくなった。
話などせず、領主の権力で無理を押し通す事も不可能ではないだろうが、ライアット家は暴君であってはならない。
いずれ、シェルミーネ・グラーク嬢を当主の妻として迎える事となるのだから。
「私はね、貴族の理想形であり続けなければならないのだよ君たち」
そんな事を話しかけても返事などせず、陰影の兵士たちは襲いかかって来る。
村長との会談の真っ最中に、この兵団は攻め入って来た。
メレス自身は、数名の従者を引き連れているだけである。
軍を率いて村人を威圧するような事を、したくなかったのだ。
逃げ惑う村人たちの避難誘導を、その従者たちに任せ、メレスは単身で剣を振るっていた。
「……村人たちよ。かつての名君を慕う気持ちはよくわかるが、この地の支配者はもはやグラーク家ではない」
槍をかわしながら踏み込み、長剣を一閃させる。
「新たなる領主メレス・ライアットが、君たちをいかにして守るか! ようく見たまえ、そして納税をしたまえ!」
斬撃が、兵士の兜を叩き割った。鎧を、切り裂いていた。
材質がよくわからぬ甲冑。その中身であった陰影の塊が、飛散し消滅した。
不死身と思われた兵士を、ようやく1体、斃す事が出来た。甲冑が、弱点なのか。
いや違う、とメレスは判断した。
甲冑もろとも叩き斬るような、気概。気力。
この兵士たちを討ち滅ぼすには、肉体的な武勇に加えて、精神力が必要となる。
メレスは呼吸を整えた。
無数の槍が襲い来る中、身を翻す。全身の力で、長剣を振るう。
豪奢な甲冑をまとってはいるが、それで動きを妨げられない程度には武の鍛錬を重ねてきた。
兵士数体が、槍もろとも叩き斬られていた。
甲冑が裂け、そこから血飛沫の如く溢れ出した陰影が、天に昇りながら消えて行く。
この兵士たちは死者なのだ、とメレスは思った。
死せる兵士の何体かが、メレスを迂回して村人たちに向かおうとしている。
「待て…………くっ!」
行く手を阻みに来た兵士2体を、メレスは一閃で斬り砕き消し飛ばした。
その間に、村人たちが襲われる……否。
転倒した農民の子供に、槍を突き込もうとしていた陰影の兵士たちが、ことごとく砕け散っていた。
牙を、メレスは見た。
黒い陰影を噛み砕く、白い牙。
左右2本の、牙剣である。
凄まじい武技と剛力、だけではない。
死者を退ける生者の気力が、気合いが、牙剣に宿って陰影の兵士たちを粉砕してゆく。
「旅の者だ。余計な事かも知れんが加勢する!」
がっしりとした身体に安物の歩兵鎧をまとう、1人の若者だった。
左右の牙剣を振るう姿は、まさしく荒れ狂う猛獣である。
そして。猛獣使いが、そこにいた。
「敵の討滅は私が行いますわ。ガロムさんは、この愚民たちをもう少し整然と避難させて下さいますように。皆でたらめに逃げ惑って目障り千万、迷惑この上ありませんわね」
冷ややかな声。
冷酷さを装っている、とメレスは感じた。
馬の尾の形に束ねられた金髪が、ふわりと舞う様を、メレスは続いて目の当たりにした。
それに合わせて、光が閃く。
魔力を宿した、斬撃の光。
薙ぎ払われた兵士たちが、滑らかに切断されてゆく。血飛沫の如く溢れた陰影が、消滅してゆく。
それは、光を放つ剣舞であった。
軽やかに斬撃を閃かせる悪役令嬢に、陰影の兵士たちは襲いかかって叩き斬られ、散って消える。
死せる兵士たちが、救いを求めて光に群がり、昇天する様にも見えた。