第76話
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轟音と震動が、起こった。
大広間が、激しく揺れている。
壁に、床に、天井に、亀裂が走る。
地震ではない、とリオネール・ガルファは直感した。
ゴルディアック家の大邸宅だけが、基盤から揺れ動いている。
そして今、崩壊しつつある。
天井の一部が、落下した。
リオネールは後ろに跳躍し、かわした。
ドルフェッド・ゲーベルの眼前から跳びすさり、退避する格好となった。
「どうやら緊急事態……ドルフェッド隊長も、とっとと逃げた方がいいッスよ!」
何か言いかけたドルフェッドにも、天井の崩落は容赦なく襲いかかる。
巨大な瓦礫が、両者の間に落下した。
リオネールもドルフェッドも、お互いの姿はもはや見えない。
右往左往していた兵士たちの姿も、見えなくなった。
王弟公爵ベレオヌス・ヴィスケーノの私兵集団。
ドルフェッド・ゲーベルを隊長とする、王国最強の戦闘部隊である。右往左往しつつも、この崩壊で全滅するような事はないだろう。
天井だけではなく、壁も砕け散った。床が、隆起しながら破裂した。
大広間の破片を蹴散らすようにして、何かがうねり暴れている。
大蛇。あるいは、巨大な地虫。
臓物、にも見えた。
この大邸宅そのものが突然、生き物と化し、様々な器官を蠢かせながら、壁や天井を脱ぎ捨てている。
そんな有り様である。
生命体の内部と化しつつある邸内を、リオネールは駆けた。
巨大な臓物が触手状に伸び、複数の方向から襲いかかって来る。
体内の異物を排除せんとする、生体反応そのものの動き。
リオネールは跳躍し、細い身体を旋風の如く捻転させた。
三日月にも似た片刃の長剣を、腕だけでなく全身で振るった。
強烈な斬撃の感触を、全身で受け止める。快感だった。
いくつもの触手が切断され、落下しながら萎びて干からび、崩れ消える。
今や巨大な怪物と化したゴルディアック家の大邸宅は、しかし際限なく臓物を伸ばし、牙ある触手に変えて、体内の異物を排除にかかる。
無限に襲い来るものたちの間を、リオネールは駆け抜けた。
大邸宅の、奥へと向かって。
「……これが……ゴルディアック家……」
帝国滅亡そしてヴィスガルド建国から五百年もの間、この王国を陰から蝕んできたゴルディアック家という形なき怪物が、今こうして形を獲得したのだ、とリオネールは思う。
周囲でおぞましく蠢き暴れ、無数の触手を伸ばして来るもの。
それは、ゴルディアック家という醜悪極まる怪物そのものだ。
王弟ベレオヌス公は、横領犯カルネード・ゴルディアックの逮捕権を無理矢理に獲得し、この大邸宅へと私兵集団を押し入らせた。
目的は、しかし横領犯の逮捕などではないだろう。
ゴルディアック家の、壊滅。
当主嫡男カルネードや長老ゼビエルら、ゴルディアック家の主だった者たちを、どさくさに紛れて皆殺しにする事すら、ベレオヌスやドルフェッドは考えているだろう。
ゴルディアック家は、今や実体ある本物の怪物と化した。王都の民を、脅かしかねない状態にある。
皆殺しに、大義名分が与えられてしまった。
ベレオヌス公にしてみれば、僥倖以外の何物でもない。
「……まだ、皆殺しはさせないッスよ」
走りながら、リオネールは呟いた。
黒薔薇党の面々は、あえなく殺し尽くされた。
彼らの、戦力としての評価試験というリオネールの任務は、その時点で終了である。
黒魔法令嬢ルチア・バルファドールに、あのような者たちは全く必要ない。
その結論を得たところでリオネールは、もう一つの任務に移らなければならなかった。
そのために自分は、魔像ボルグロッケンを引き連れて来たのだ。
ボルグロッケンとは、はぐれてしまった。
合流は、それほど難しい事ではないだろう。
リオネールは再び跳躍し、長剣を一閃させた。
触手状の臓物が、牙を剥いて襲い来た、と見えた瞬間には叩き斬られていた。
「これ……アンタっすよね? ゼビエル様」
ゴルディアック家そのもの、と言うべき老人に、語りかけてみる。無論、答えなど返って来ない。
「うちのお嬢様が、ね……アンタに用事、あるそうッス。だからまだ、もうちょっとだけ生きててもらうッス」
着地し、走りながら、リオネールは笑う。
苦笑に近い微笑みが、浮かんでしまう。
ルチア・バルファドールは、本当に強くなった。
大貴族の邸内にまで、自分たちのような戦闘部隊を転移させる。
それほどの魔力を、身に付けるに至ったのだ。
今の彼女は、アドランの帝国陵墓に居ながらにして、ヴィスガルド王国全域に破壊や征服の力を及ぼす事が出来る。
国王の身柄も、確保している。
「この国の……どこにいても、ルチアお嬢様からは逃げられない……」
苦笑が、深くなった。
「俺……殺されるよな、兄貴。下手すると、お嬢様に……」
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黒豹を思わせる人影が一瞬、見えた。
それを叩き潰そうとする動きを見せた、巨大な触手臓物が、次の瞬間には切断されていた。
黒豹のような人影が、光を一閃させる様。
ガロム・ザグは、辛うじて見て取った。
斬撃の、閃光だった。
ザーベック・ガルファを思わせる。
いや、あの男よりも速い。
ガロムは、そう思った。
「おい、ありゃあ……」
大柄で筋骨たくましいゲトル・エディゴが、その人影を目で追っている。
「……アイツじゃ、ねえのか? いかれ兄弟の、弟の方」
「リオネール・ガルファか……!」
骸骨のようなドクトー・ランドが、息を呑む。
「あの動き、斬撃……確かに、似ているな」
叩き斬られた大型触手が、干涸らび崩れ落ちている間。
黒豹のような人影は、すでに消え失せていた。
ここゴルディアック家の大邸宅は現在、巨大生物の体内と化している。
無数の触手臓物が暴れ狂う、生体質の大迷宮と化しているのだ。
見失った人影を追いかける事など、出来ない。
牙ある触手の群れが、こちらにも襲いかかって来ているのだ。
「あの兄弟は何でも屋だ、どこにいても不思議はない」
部隊長ジェキム・バートンが、槍を振るいながら命令を下す。
「それよりも! まずは俺たちが、この場を切り抜けるぞ」
柄はいくらか短く、穂先が大型で、刺突のみならず斬撃にも向いた特殊な槍。
その一閃が、牙ある触手を鮮やかに切断する。
そうだ、とガロムは思い直した。
今は、自分たちが、この状況を生き延びなければならない。
生き延びた後、先程の黒豹のような男と対面する機会が、あれば僥倖。なければ仕方がない。
そう思い定め、左右の牙剣を振るう。
粉砕の手応えを、両手で握り締める。
鞭の如く伸びて来た臓物たちが、二本の牙剣に引き裂かれ、潰れ散っていた。
「やるじゃねえか新人、けど調子に乗るなああッ!」
ゲトルが、身長ほどもある巨大な剣を、暴風のように振り回している。
それはまさに、斬撃の竜巻。
牙のある触手たちが、そこへ群がっては砕け散る。
切断と言うより粉砕に近い、微塵切りであった。
微塵切りが、ガロムの傍らでも実行されていた。
忍び寄って来ていた触手の群れが、細かく、滑らかに、切り刻まれている。
鋼の、鉤爪によってだ。
「ガロム・ザグ……お前、ガルファ兄弟と因縁があるのか」
ドクトーが、いつの間にか、そこに佇んでいた。
「あやつらの、どちらかに……家族でも殺されたか?」
骸骨のように細長い、ようでいて実は強靱に鍛え抜かれた両腕の先端に、鋼鉄の鉤爪を装着している。
凶器と化した両手が、ゆらりと動いて触手を切り刻む。
「ガルファ兄弟は、まあ誰を殺していてもおかしくはない。奴らの行方を追って……お前、ベレオヌス公に近付いたのか」
頭蓋骨のような顔面が、ニヤリと歪む。
「何であれ、仕事さえ出来ていれば俺たちは一向に構わん。お前、リオネールらしき奴を見て心が揺らいだようだが、すぐに切り替えたな。それが大事だ、忘れるなよ」
「はい……」
短く返事をするしかないまま、ガロムは踏み込み、襲い来る触手の塊を牙剣で叩き潰した。
そうしながら、見回す。
横領犯カルネード・ゴルディアックが、この大邸宅のどこかに隠れている……のだとしても、もはや生きていないのではないかと思える。
ベレオヌス公としては、それで一向に構わないのであろう、とも。
空が、見えた。
天井も、屋根も、崩落し失われている。
空中に佇む、人の姿らしきものが見えた。
空を飛んでいる、わけではない。
今や王都の一角を巨体で占める怪物と化した、ゴルディアック邸。
そのどこかから伸びた複数の触手たちが、絡み合って台座を成している。
その上に立ち、尊大な姿を晒しているのだ。
赤い布地に金色の刺繍が施された、煌びやかなローブを身にまとっている。
右手には、杖。いくつもの宝石で飾り立てられた、豪奢なものだ。
その他、指輪に腕輪に首飾り……様々な光り輝く装身具を着用している。
力ある品々だ、とガロムは感じた。
禍々しく力に溢れた品物たちに、この人物は食い尽くされてしまっているのだ。
赤地に金刺繍のフードに囲まれた顔面は、完全に血色を失い、恐怖と絶望の形相を固めている。
その両眼は瞳孔を散大させ、何も見てはいない。
死者の顔面だった。
口は、しかし動いて言葉を発している。
「我は……我こそは、帝国の誇りを受け継ぐ者……大魔導師ギルファラル・ゴルディアックの、大いなる力を受け継ぐ者……」
ゆっくりと、杖が掲げられる。
いくつもの宝石が、ぼんやりと光を発する。
「うぬら、雑兵の末裔に仕えし罪人どもを……帝国の威光をもって裁く者……カルネード・ゴルディアックである……」
淡く発光する杖の周囲で、空気が歪んだ。
空間が、ねじ曲がった。
空間の歪み、そのものが、ひとつの塊となって放たれた。
ゲトルが、ドクトーが、各々の武器に気力を流し込み、防御しようとしている。
ガロムは叫んだ。
「駄目だ、避けろーッ!」
首の後ろを、掴まれた。
ジェキムだった。
ガロムは後方に引きずり戻され、放り出されて倒れ、即座に身を起こした。
そして、見た。
ゲトルとドクトーが、空間の歪みの中で一緒くたに押し潰され、すり潰されて撹拌され、原形を失って屍すら残らなくなる様を。
「お前、今……ゲトルとドクを、助けようとしただろう」
呆然とするガロムを背後に庇うような格好で、ジェキムが進み出る。そして言う。
「……そういう事は、絶対にするなよ」




