第75話
●
素手で人を殴ると、拳の方が負傷してしまう場合がある。
父を殴り殺した時が、そうだった。
人間の拳がいかに脆いものであるのかを、あの時ドルフェッド・ゲーベルは身体で学んだものだ。
だから、棍棒で人を殴る事にした。
自分の手を痛める事なく、一方的に人間を撲殺する。
快感だった。
今。あの頃の粗末な棍棒ではなく、鋼の槌矛で、人間ではなくなったものを撲殺している。
快感だった。
「手応えは変わらんなあ。人間を叩き殺すのも、人間の出来損ないを叩き潰すのも」
人間の出来損ない、としか表現し得ぬものに槌矛を叩き付けながら、ドルフェッドは嘲った。
大量にいる出来損ないの肉塊が、ぐにゃぐにゃと暴れながら鉤爪を振り立て、牙のある触手を伸ばし、襲いかかって来る。
そんな状況であった。
襲い来るものたちを、左腕の盾で打ち払う。右手の槌矛で、叩き潰す。体液の飛沫を、全身で蹴散らす。
そうしながら、ドルフェッドは吼えた。
「黒薔薇党! 腐り果てた生ける屍どもよ。自力で何も出来ぬ貴様らがな、人外のものに成り果てながらとは言え俺を殺しに来た。それだけは誉めてやるぞ!」
ゴルディアック家の、大邸宅。
部隊規模の人数が動けるほどの大広間で、ドルフェッド率いる兵団は、黒薔薇党による襲撃を受けていた。
この者たちは突然、床に生じた光の紋様から、出現したのだ。
魔法による転移、としか考えられない。
すなわち。この人外の群れを、ここへ送り込んできた魔法使いが、どこかにいる。
恐るべき術者と言っていいだろう。あのジュラードに、勝るとも劣らないのではないか。
「ベレオヌスの犬がああああああッ!」
絶叫が、起こった。
人外と化した黒薔薇党員の一人が、両腕を高速で伸長させたところである。
比較的、人の原形をとどめていた。
肥大した肉体からは一応、四肢が分岐している。短く不格好な両脚はのたのたと動きが鈍く、だが両腕は、移動の必要がないほどに遠くまで伸び、敏捷にうねり、先端部の鉤爪でドルフェッドを切り刻まんとする。
「貴様が、貴様が私から全てを奪った! ベレオヌスの手先として、貴様ら父子が! 暴虐を実行したのだ!」
叫ぶ相手と会話をする気にならず、ドルフェッドは槌矛を振るった。
長剣の如き鉤爪で斬りかかって来た左右の五指が、掌が、手首が、潰れてちぎれ飛んだ。
その様を見もせずに、ドルフェッドは踏み込んで行く。
上背はさほどない、横方向にどっしりと筋肉の付いた身体が、猪のように突進をした。
それを、無数の鉤爪が迎え撃つ。
人外のものと化した黒薔薇党員の肉体から、何本もの腕が生え、高速で伸長していた。
それら全てが五指から鉤爪を伸ばし、突進して来る禿頭の男を様々な方向から襲う。
全てをドルフェッドは、右手の槌矛で粉砕した。
そうしつつ突進速度は落とさず、左腕の盾を正面に構える。
複数の棘を生やした、丸盾。
前方では、黒薔薇党員の胴体が破裂し、何本もの肋骨が溢れ出していた。
湾曲した刀剣のように鋭利な肋骨の群れが、真っ正面からドルフェッドを切り刻む。
いや、切り刻まれる前に。
棘のある攻防一体の盾が、肋骨の群れをグシャリと粉砕していた。
それらを生やした、黒薔薇党員の肉体もろともだ。
「貴様……そうか」
ドルフェッドは、会話をしてやる気になった。
「元ケルガド地方領主……サリック・トーランド、だな? 貴様」
「ケルガドで……私は、善政を行っていた……」
粉砕されたサリック・トーランド伯爵が、ぶちまけられたように床に倒れて弱々しく蠢き、声を発する。
「民も、幸せに暮らしていた……そこヘ貴様らが押し掛けて、私から全てを奪ったのだ! 民の幸せを、蹂躙したのだ!」
「奪っていたのは貴様であろう。貴様が懐に入れてしまうせいで、ケルガドの民衆がどれだけ余分に取り立てられていたと思うのだ」
「皆! やっている事ではないか!」
「……子供かな、まったく」
ドルフェッドは槌矛を振り下ろし、サリックを永遠に黙らせた。グシャリと、汚らしい肉片が飛散した。
大広間のあちこちでは、ドルフェッドの率いる兵士たちが同じように、人外のものと化した黒薔薇党員を、ほぼ殺戮し尽くしたところである。
やはり、とドルフェッドは思う。
王弟公爵ベレオヌス・ヴィスケーノが財力で集めた私兵集団は、王国最強の戦闘部隊である。
その最強の兵士たちが、しかし次の瞬間、吹っ飛んでいた。
黒薔薇党を率いて来た者らが、まだ健在であった。
大型の、動く石像。
石造りの豪腕を滑らかに振るい、兵士たちの波状攻撃を弾き返している。
弾き返され、吹っ飛んだ兵士たちが、敏捷に着地しながら攻撃態勢を構築し直す。
そこへ、指揮官たるドルフェッドが加わる事は出来なかった。
疾風のような人影が、忍び寄って来ているからである。
気付いた時には、刃を突き込まれていた。
三日月に似た切っ先が、甲冑の隙間に入り込んで来る……寸前。
ドルフェッドは僅かに、構えの角度を変えた。
隙間を突き損ねた切っ先が、甲冑の板金部分をかすめて火花を散らす。
焦げ臭さを感じながら、ドルフェッドは槌矛を振るった。
重量のある一撃を、リオネール・ガルファは容易くかわす。
「へへっ……やっぱりねえ、こんな連中じゃあ! アンタ方の相手には、ならないッスねええ!」
整った顔に、軽薄かつ不敵な笑みを浮かべながら、リオネールはなおも刃を一閃させる。三日月のような、片刃の長剣。
一閃に見えて、繰り出された斬撃は複数であった。刺突も混ざっている。
全てを、ドルフェッドは盾で受けた。
焦げ臭い火花が、大量に散った。
左腕に防御を一任しつつ、右手の槌矛をゆらりと構える。
それを振るう前に、しかしリオネールは後方へ跳び、軽やかに間合いを開いて着地していた。
「危ねえ危ねえ……鉄壁の防御から、必殺の反撃。相変わらずの技の冴え、お見事ッス」
「貴様こそ、すばしっこさと小賢しさに磨きがかかったようだな。何でも屋・弟よ」
「何でも屋・兄貴の方はね、死んじまいました。生前のご交誼に感謝するッス」
「惜しい、と思うぞ」
剣技だけであれば、この若者は兄ザーベック・ガルファを上回るだろう。
だがザーベックには、毒矢を扱う技術があった。
猛毒の調合。それを鏃に塗って標的に命中させる、弓の腕前。
得難い暗殺者であった、とドルフェッドは思う。
「ねえ、ドルフェッド隊長……黒薔薇党って連中、やっぱりダメっす。全然っす」
リオネールは言った。
「結局ねえ、皆やってるから俺もやる、やっていいんだもん! なぁんて言ってる奴らはねえ! 人間やめたって全然ダメ、大した事ぁ出来ねえんスよねぇーッ!」
言葉と共に、斬撃が来た。
「……そうだな。皆やっているから、自分もやる。まさしく子供の言い訳だ」
ドルフェッドは、盾で防いだ。
反撃の槌矛を叩き込もうとした時には、リオネールの姿は消えていた。
背後に、回り込もうとしている。
気付いたドルフェッドは振り返り、槌矛を突き付けた。
斬り込んで来ようとしていたリオネールが、踏みとどまり、後退りをする。
「……皆が、やっているから。これはしかし、厄介な呪縛でな。子供の理屈ではある。だが、いい大人でも……この呪縛には、なかなか抗えないものだ」
「ま、そうッスよね……皆やってるからってバカやらかす大人、いくらでもいるッス。旧帝国系貴族って連中は、特にそう」
「旧帝国貴族もな、そんな輩ばかりではない。ひとかどの人間はいる……あの、シグルム・ライアット侯爵のようにな」
「立派な人だったらしいッスね。俺、知らんけど」
「ほう……標的の事を、ろくに知りもしなかったのか。貴様ら兄弟は」
一歩、ドルフェッドは間合いを詰めた。
一歩、リオネールは下がった。
「標的? 一体、何のお話ッスか……」
「シグルム・ライアットを毒矢で仕留めたのは、貴様の兄であろうが」
それ以上、踏み込む事が、ドルフェッドはしかし出来なかった。
「あの頃、お前たち兄弟は、すでにベレオヌス公からは離れていたな」
「ドルフェッド隊長が、随分と熱心に引き留めてくれた事。覚えてるッス、感謝してるっす」
「だがな。貴様ら兄弟が、ベレオヌス公の下で働いていた事……知っている者は、いる」
シグルム・ライアットは間違いなく、王弟公爵ベレオヌス・シオン・ヴィスケーノを、王国政権中枢から遠ざけようとしていた。
ベレオヌスが、先手を打った。
配下の暗殺者に、密命を下した。
大勢の人間の目には、そう映った事であろう。
「ベレオヌス公には、今なお嫌疑がかけられている。シグルム侯の暗殺……その黒幕として、な」
「ご愁傷様っす」
「言え。貴様の兄は、誰の命令あるいは依頼で動いたのだ」
言えと言われて、答えるはずはない。そんな事は、ドルフェッドも理解はしている。
だが、リオネールは言った。
「……あの後、兄貴が愚痴ってたんスよ。シグルム・ライアット侯爵は……普通に戦って、仕留めたかったって」
この男が果たして本当の事を語っているのかどうかは、わからない。
「戦って勝てるワケねーから、毒矢を使うしかなかったって……兄貴の奴めっちゃ落ち込んでいたんスよ。で、そっからね。強い奴と、ちゃんと戦って死ぬっていうのが、兄貴の夢になっちまったんス」
軽薄かつ不敵、ではない笑みを、リオネールは浮かべていた。
「その夢……誰かが、叶えてくれたって事っすかねえ?」




