第71話
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少女は、自宅の敷地内を走り回っていた。
生まれてから十四年、この家で過ごした。
たかだか十四年で、全容を把握出来るような、生易しい邸宅ではない。
ここゴルディアック家は、王宮よりも豪奢と言われる城館で、帝国時代より在り続け、今なお宏壮さを誇示している。
十四歳の娘が知らぬ区画は、いくらでもある。
少女エリエッタ・ゴルディアックは今、完全に迷っていた。
恐らくは庭園の一角であろう、鬱蒼と植物の生い茂る場所を、ひたすら走っている。
薄手のドレスはあちこちが裂け、ほっそりと小柄な肢体が、いくらか際どいところまで露わである。
白い柔肌も、自慢の金髪も、いくらか泥にまみれていた。先程、転倒したのだ。
衣服が裂けているのは、鬱蒼たる木々に引っかかり擦れたから、だけではない。
引き裂かれたのだ。
「こんな家……広くて、古臭いだけよ。住んでる連中の心は、腐りきってる……」
走りながら、エリエッタは涙を拭った。
この大邸宅の主はログレム・ゴルディアックといって、王国の宰相をしている。
エリエッタにとっては、大叔父に当たる人物である。
人格者の老人であるが、それ故に孤立していた。
彼の親族が、腐りきった人間ばかりであるからだ。
特に、彼の父であるゼビエル大老と、子息であるカルネード・ゴルディアック伯爵。
この両名は、筆舌に尽くし難かった。
ログレム宰相は立派な人物ではあるが、間違いなく息子の教育には失敗している。
父に厳しくされた息子が、祖父に泣きつく。
祖父は孫を、ひたすら甘やかす。
自分が生まれる前から、この屋敷では、そんな事が繰り返されていたのだろうとエリエッタは思う。
結果、当主嫡男カルネードは、どうしようもない人間に育ってしまった。
彼は南方の大貴族ゲラール家から嫁を迎え、やがて一人娘フェアリエを儲けた。
再従姉妹である彼女と、エリエッタは数えるほどしか会話をした事がない。
何しろゴルディアック家である。
広大極まる邸内、同じ屋根の下で生活をしていながら面識を持てぬ親族が、大勢いる。
再従姉妹フェアリエとは、もしかしたら仲良くなれるかも知れない、という感触はあった。
エリエッタと仲良くなる前に、しかし彼女はゴルディアック家から絶縁された。
二年前、花嫁選びの祭典で、低成績のまま脱落する様を国民に晒したからだ。
カルネードは怒り狂い、ゲラール家から迎えた妻ラウラを一方的に離縁し、娘フェアリエもろとも追放したという。
そのカルネードが今度は、ゴルディアック家から絶縁・追放されるかも知れない。
それが、現在の状況であった。
詳しい事を、エリエッタは知らない。
カルネード伯爵は何やら、税に関わる不正行為を働いたようである。
そして告発され、この城館に逃げ込み、またしても祖父ゼビエルに泣きついているという。
齢四十を超えた孫を守るためにゼビエル大老は、ゴルディアック家の威光を用いて無理を通すのか。
それが行われたら、ゴルディアック家全体が、いよいよ本格的に王国の司法に刃向かうという事になる。
あの祖父・孫の組み合わせは、ゴルディアック家に厄災をもたらそうとしているのか。
度し難い、とエリエッタは思う。
そんな両名よりも救い難い者が、しかし確かに、ゴルディアック家には存在するのだ。
それが、この男である。
「探したよぉおおおお、愛しいエリエッタぁー」
木々をへし折り、押しのけて、巨体がひとつ出現していた。
エリエッタの前方に、回り込んでいる。
「私はねぇ、この庭園を熟知しているのだよ。おお愛しのエリエッタ、可愛いエリエッタ、肌の白いエリエッタ、お胸の小さなエリエッタ、お尻の育ちきっていないエリエッタ。お前とねえ、もう少し追いかけっこを愉しみたかったけれどもう我慢が出来ないのだよ私は」
聞くに堪えぬ言葉に合わせて、おぞましいものたちが暴れ蠢く。
生ける臓物とも言うべき、無数の触手。
もはや人の体型をとどめぬ巨体のあちこちから生え伸び、うねり狂い、十四歳の少女の肉体を渇望している。
「…………嫌…………」
エリエッタは青ざめ、後退りをしようとして木にぶつかった。
「お願い……来ないで、お祖父様……」
「つれない事を言うものではない。私は、ね……ずっと、お前が欲しかったのだよ」
巨大な肉塊、としか表現し得ぬものと成り果てた祖父ウズベル・ゴルディアックが、ずるりと這い迫って来る。
その全身に群生する触手たちの中央から、ニタニタと歪む醜悪な人面が迫り出した。
「可愛い孫娘への愛おしさが高じて、ついつい人間をやめてしまった……ただ、それだけの事ではないかエリエッタ。それだけの事で、家族の絆が失われるなど……あっては、ならない。人倫に反する事である」
この祖父、だけではない。
ゴルディアック家の主だった大人たちが今、このような人外のものと化して邸内・敷地内を徘徊している。
何が起こっているのか、エリエッタにはわからない。
だが。何者の仕業であるのかは、何となく見当はつく。
「……ジュラード……あの、悪霊のような怪物……」
当主ログレムや長老ゼビエルの近くにいる、黒衣の男。
彼の仕業であったにしても、とエリエッタは思う。
眼前に迫る、この醜悪極まる姿は、ゴルディアック家の大人たちの紛れもない本質なのだ。
「……嫌…………いやぁ……っ!」
エリエッタは、泣き震えた。
涙に濡れる可憐な美貌に、肌も露わな細身の肢体に、おぞましい触手が伸び群がって来る。
「やめて、お祖父様…………嫌い……あなたなんか大っ嫌い……!」
「人倫に反した事を言ってはいけないよエリエッタ。さあ……私が、人の道というものを教えてあげよう。その可愛らしい唇に、可憐なお胸に……つるりと綺麗な腋の下と二の腕に……白桃のようなお尻と、美味しそうな太股と、そして」
触手の群れが、エリエッタの眼前で痙攣し、動きを止めた。
それらの発生源である巨大な肉塊が、叩き斬られていた。
落雷の如く振り下ろされた、大斧によってだ。
「ちぃっす……何か、門前払い喰らっちまったからよォー。庭の方から入らしてもらうわ」
熊が、大きな斧を持っている。
呆然とエリエッタは、そんな事を思った。
筋骨たくましく体毛の濃い、直立した熊のような大男である。
何も持たずに人を殺せそうな両手で、大型の斧を振り下ろしたところであった。
その一撃で半ば真っ二つにされたウズベルの巨体が、それでも声を発している。
「き、貴様……ゼノフェッド・ゲーベル! ベレオヌスの犬が……何をしておるか、わかっているのであろうな!? ゴルディアック家に、不法に踏み入り……暴虐を働くとは……」
「出てってやるからよ。てめえらの御曹司で、カルネードって奴がいンだろ? そいつを引き渡せ」
ゼノフェッド・ゲーベルと呼ばれた大男が言いつつ、触手の群れをことごとく素手で引きちぎった。
エリエッタの眼前から、おぞましく痙攣するものが全て消え失せた。
「あのクソ野郎、税金に手ぇつけやがったみてーじゃねえか。逮捕しろってぇ命令が出てんだがよ、何しろゴルディアックの連中だから、普通の兵隊どもが怖がって踏み込めねえんだわ。この屋敷」
ゼノフェッド、だけではなかった。
武装した、兵士の一団。庭園のあちこちに、いつの間にか佇んでいる。
ウズベルの言う通り、確かに不法侵入という事になるのか。
「だからベレオヌス公殿下が動いたってワケよ。殿下にお仕えする俺たち、あー、最強皆殺し軍団? 悪い奴ぶち殺し隊? の出番が来たってえ……やっぱ、ちゃんとした名前あった方が絶対イイな。そこの嬢ちゃんよ、何か考えてくれや」
そう言われても、エリエッタとしては困惑するしかない。
ともかく、聞いた事はあった。
王弟公爵ベレオヌス・シオン・ヴィスケーノは、王国最強と言っても過言ではない、精強極まる私兵集団を保有していると。
その暴力で、数々の無法を働いていると。
「カルネードは……私の、甥だ」
引きちぎられた触手の群れが、ウニュウニュとおぞましく再生してゆく。
半ば両断されていた肉塊が、断面同士を密着そして癒合させ、急速な自己修復を遂げていった。
「あのような愚か者、どうでも構わぬが……私と、愛しい孫娘との触れ合い愛で合いを、妨げた罪は重い。生かしておかぬぞ不法侵入者ども!」
再生した触手の一本が、棒状の何かを絡め取り保持している。
杖、であった。先端は骸骨の手で、それが宝石を握り締めている。
ウズベルが、その杖を触手で振りかざす。
「大魔導師ギルファラルの大いなる遺産! この杖で、この者どもを意のままに操り動かす事が出来る」
今のウズベルに劣らぬ怪物が複数、多数。ベレオヌス公の兵士たちを迎え撃つ形に、出現していた。
毛むくじゃらの巨体に、槍のような角を、剣のような鉤爪を、備えたもの。
口から触手の群れを吐き出し、暴れさせるもの。
四本あるいは六本の腕で、槍や剣や槌矛を構えたもの。
様々な個体が、ウズベルを護衛しつつ、王弟公爵の私兵団と対峙する。
ゼノフェッドは凶暴に微笑み、吼えた。
「おい新人! 初仕事だぜえ!」
兵士たちの中から、一人が歩み出して来た。
がっしりと力強い体格をした、若い兵士。
眼光は鋭く、厳つい顔には傷跡がある。
刀身から牙が生えたような、奇怪で凶悪な剣を左右二本、携えていた。
どうやら新兵であるらしい、その若者に、ゼノフェッドが命令を下す。
「とりあえずよ。てめえ一人で、どこまでやれるか見せてみろや。気が向いたら、助けてやらねえでもねえ? かもなあ?」
他の兵士たちも、ニヤニヤと意地悪く笑っている。
言われるままに新兵は、牙ある剣を二本、左右それぞれの手で握り構え、怪物たちに挑みかかって行った。
虐めが、行われている。
エリエッタは、それだけを思った。




